逓信卿時代⑤
屋敷での話し合いからおよそ1週間後、ローデポリス市外の駐屯地で秘密裏に決死隊が集められた。
但馬が考案した対エルフ作戦は、ブリジットたっての希望で皇帝へと献策されたが、大臣らの反対も特になく、あっさりと許可された。
立案が但馬であったことから、これまでの実績から言って申し分なく、唯一、その指揮を皇太女が執るということだけは難色を示されたが、それも本陣を森の外へ置くと言うことで許可された。
集められた決死隊は2個小隊50人と指揮官クラス4人の計54名。それにリーゼロッテの指揮する亜人傭兵団10名と、アナスタシア、エリオス、但馬、そして本陣に皇太女ブリジットと近衛隊が布陣し、総勢100名にのぼった。
ただし、人間が沢山いることに気づかれては元も子もないから、本陣は森からかなり離して置かれたため、ブリジットが文句を垂れていた。彼女は本番には参加できず、バックアップ要員となる。本来なら計算の出来る戦力なので前線に居てくれた方がいいのだが、こればっかりは仕方がない。
作戦はローデポリスからおよそ30キロほど内陸部で行われた。
このところの人口増加や、亜人レンジャーと連携した森林伐採の影響からか、人間を嫌うエルフは徐々に街から遠ざかる傾向にあるようだった。そのお陰で、街の近くでエルフと出くわすことはほぼ無くなり、こうしてかなりの内陸部にまで出てこなければ危険性は少なくなっていた。
それならば、もはや危険を犯してまでエルフと対峙する必要はないのではないか? とも思うが、そこはそれ、確かに首都の近辺には居なくなったが、その分、他所に移動してるわけであるから、人間がエルフに出くわす危険性が無くなったわけではない。
例えばローデポリス~ハリチ間にある軍用路を拡張するにしても、ハリチ~メディア間の街道整備にしても、現状では常に亜人に見守って居てもらわねば工事すらままならないし、本来、山がちなリディアは手付かずの鉱山が沢山埋もれているはずなのだ。これを開発するためには、どうしてもエルフが邪魔になる。対抗策があるに越したことはないのだ。
ブリジット率いる対エルフ部隊はローデポリスを進発したあと、森林の直前で本陣を構築、一泊した後、部隊を分けて森に入った。
先行する亜人斥候が周囲を警戒しながら適当な迎撃拠点を探し、やがて森林内の比較的開けた広場を見つけると、そこに獣用の罠を張り、なおかつ小銃で武装した部隊を2つに分け、双曲線状に散らばった。
彼らは持ち場につくと、一人ひとりが用意しておいた、銅線で作った金網状の檻の中に身を潜めた。何というかその光景は、罠にかかった人間の檻が50個も並んで居るように見えて、ある意味かなり不気味であった。
リーゼロッテ、アナスタシア、エリオス、但馬の4人だけが檻に入らず外に居て、檻の一つ一つに枝や葉っぱをかぶせてカモフラージュする作業を行った。
それが終わったあとは広場の中心に座って、周囲に散っていった亜人からのエルフ発見の報せを待っていた。これが今回の作戦の布陣である。
但馬はかなり突拍子もない事を思いつくと話しには聞いていたが……どうして人を檻の中に閉じ込めるのだろう? 頑丈な檻の中なら平気ってことなのか? 今回、初めて彼の仕事に同行したアナスタシアは意味がわからず、ソワソワしながら彼に尋ねた。
「先生。あれじゃ、いざとなった時に逃げられないんじゃ?」
「そうかもね。でもまあ、いざとなった時にはもう死んでるから」
「本当に……あんな小さな檻で、エルフの攻撃を防げるの?」
但馬は眉を上げて苦笑した。どうやら、アナスタシアは兵士たちが檻の中に入った理由を、エルフの魔法から身を守るためと勘違いしたらしい。いや、ある意味正しくもあるんだが……
「いや、違うよ。あれは身を守るためにやってるんじゃないの。身を隠すためにやってるんだよ。こないだ話した通り、エルフは魔法の力で周囲を認識している可能性がある。ああやると、その魔法の索敵から逃れることが出来るはずなんだ」
但馬が今回の作戦を発案するに当たって、まず最初に思いついたのは、自分のレーダーマップはどうやって周囲の生体反応を感知しているんだろう? と言う疑問だった。
物理法則もへったくれもないファンタジーな力だったらお手上げであるが、この世界の魔法は全て、科学の力で実現されたものであるとすでに判明している。ならば種も仕掛けもあるはずだし、突き詰めて考えればその正体も分かるのではないか。
そう考え、魔法が発動するプロセスを思い浮かべてみる。すると人間が、人間のみの力で高度な魔法を実現しようとしても限度がある。だから機械の力を借りてより大きな力を引き出しているのではないか? と言う推測が成り立つ。そしてそれはほぼ間違いないように思われた。
何しろ、現時点でこの世で最強の魔法使いは但馬なのであるが、彼は自分がそれほど高度なことをやってる自覚は無かった。やってることはあらかじめ用意されているメニュー画面を見て、そこに書かれてる詠唱を読み上げているだけなのだ。もし但馬自身の力であれを起こしてるのだとしたら、何らかの反動があっても良いだろう。だが、せいぜいMPなる数字が減るだけで、疲れたりお腹が減ったり、そう言う体が消耗するようなことが一切ないのだ。
だから魔法はどこかの機械が自分の代わりにやってくれてるのでは、と言う推測が成り立つわけだが……今度は、それじゃその機械はどこにあるのか? どうやって通信してるのか? という疑問が湧いてくる。
その疑問について考えた結果、但馬が導き出した答えは、あの中二病みたいな詠唱は、周囲のマナにどこかにある魔法発生装置と通信しろと、命令しているプロトコルみたいなものではないかということだった。
で、具体的にどうやって通信してるのか? と言えば、それは電磁波ではないかと容易に想像がついた。つまり、詠唱が始まると、術者の周辺のマナが呼応してサーバーに電磁波を飛ばすと言う考えだ。そもそも、マナは電荷を持った微粒子なのだから、そういうことはお手のものだろう。
そしてそれに気づいたら、あとは芋づる式に魔法に関する色々なことに説明がついて、今回の作戦がパパっと思いついたのである。
まず、但馬の魔法がマナを用いた電磁波による通信で成り立ってると仮定するなら、例のレーダーマップも同じような仕組みで動いてるはずだ。但馬が周囲の状況を確認しようとすると、マナがどこかにある機械に電磁波で命令を送り……その機械が但馬の周辺を電磁波でスキャンし、レーダーマップに結果を返してくれてるのではないか。
この憶測を確かめるのは容易なことだった。と言うのも、電磁波というものは簡単に遮蔽できるからだ。それが先ほど、兵士が全身をすっぽりと覆い隠した銅線で編んだ檻なのだが……
19世紀のイングランドで、静電気を研究していたマイケル・ファラデーは、導体で作った檻の中には、電気が入っていけないということを発見した。これは仮に鉄の檻に雷が落ちたとしても、檻自体がその電荷を打ち消すように吸い込んでしまうから、結果的にその中身に影響を与えないということである。これを利用したのが航空機のキャビンで、人間の乗っているキャビンは導体で覆われているから、雷が落ちても平気なのである。
これは電気のみならず、それによって発生する電磁波にも当てはまる。尤も、可視光線やX線のような波長の短い電磁波は檻の間を通過してしまうのだが、人間が通信に使う電磁波は波長が長いため(じゃないと長距離に送れない)、檻の中に入れずに遮断されるのだ。
因みに、この現象は意外と日常的に触れている。例えば、電子レンジのガラスの扉の内側には、黒いメッシュ状の導体が貼り付けられているのだが、これによってレンジ内部のマイクロ波は外へ飛び出ることが出来なくなっている。ところが、マイクロ波よりも波長の短い可視光はそこを通過出来るから、動いてる電子レンジの中を我々は目で確認出来るのである。
このように、導体で覆われた空間は電磁気的に外部から遮蔽されており、これを発見者に因んでファラデーケージと呼ぶが、レーダーマップが電磁波を用いてその生体反応をスキャンしているなら、これによって容易に擬態が可能であるはずだ。
そう思って、物は試しと庭で遊んでいたリオンを檻に入れて、お袋さんにけちょんけちょんにされたのだが……とにもかくにも、色々試した結果、それなりに目の細かい網を作れば擬態が可能であることを、但馬は自分自身の能力でもって証明したのである。
「で、もし俺と同じ能力をエルフが持っているなら、ファラデーケージの中に入った人間には気づけないはずだから、十分に意表を付くことが可能ってわけだ。問題は、あいつらをこの場所にどうやって誘い込むかなんだけど……それには、囮を使おうと考えてる」
いわゆる釣り野伏である。
「俺はあいつらと2回戦ったことがあるんだけど、その2回ともあいつら完全にこっちのことを舐めきってたんだよね。その気になれば人間なんて瞬殺出来るはずなのに、ところが、あいつらは人間を発見しても、すぐには攻撃してこなかったんだ。なんか、嬲るようにニヤニヤしながら近づいてきて、わざと攻撃を受けたりして、楽しんでる感じだった……ある意味、人間臭いけど。
だから今回もわざと発見させて、逃げるふりをしながらここへ誘導する。間違ってここへ到着するまえに向こうが勝負を決めにきたらまずいから、その役目はエルフの攻撃を受け切れるリーゼロッテさんが担当して、それを俺達がサポートする」
どんな優れた魔法使いであってもエルフには敵わないかも知れないが、逃げることに専念するのであれば、やってやれないことはない。そうやって囮が逃げるふりをしながらキルゾーンに誘い込んで、ファラデーケージで擬態した武装集団で、一斉射撃を行い殲滅する……
それが今回、但馬が立てた作戦だった。
「そんなに上手くいくのかな……」
不安そうにアナスタシアが呟く。
「多分ね」
但馬は大丈夫と言いつつも、絶対とは言い切れないから、いざという時のためにあらかじめ魔法を撃つ用意をしとこうと、右のこめかみを叩いて例のメニュー画面を表示した。もしも失敗した場合は、自分の魔法が生命線なのだ。
そう思ってメニュー画面を開いたら……レーダーマップに映った複数の光点が丁度動き出すところだった。これは恐らく、エルフを探しに散っていった亜人のうちの誰かだろう。どうやら、近場にいたエルフを見つけたようだ。
間もなく、そちらの方から亜人が帰ってきて、エルフ発見の報を伝えた。それを受けてリーゼロッテがゆっくりと腰を上げ、シャンと背筋を伸ばし、亜人に先導され森の奥へと足を運んでいった。その後を但馬とアナスタシアが、急いで付いて行く。
「アナスタシア。社長のことは頼んだぞ」
「うん」
その場に残ったエリオスは一人で、獣用の罠をエルフが来るであろう方向に仕掛けなおしていた。
それはただの鉄で出来たトラバサミで、もしも引っかかってくれたら御の字といった程度のものであり、これが果たして有効かどうかはわからない。しかし、何でも試してみるものだろう。
エルフの元へ向かう一行は無言のまま黙々と進んだ。
声を出そうものなら、得体の知れない何かが飛び出してきそうな、そんな緊張感に包まれる。
アナスタシアは先に行くリーゼロッテの背中を見ながら思い出していた。
作戦前、どうせ亜人にエルフを発見してもらうんなら、そのまま連れてきて貰ったらどうなのかと、彼女は但馬に尋ねたことがあった。
彼は確かにそれは有効だと認めたが、その上で却下した。彼自身も同じことを考えたことがあったらしい。
エルフと亜人は元々は共生関係にあり、特にエルフは繁殖に亜人を必要とする。個体数は限られていて、滅多に繁殖を行おうとはしないようだが、それでも亜人のことは味方だと認識しており、近づいても襲われないそうだ。
そして上手くやれば、メディアの世界樹で襲ってきたミルトンのようにエルフを誘導することも出来るらしい。その方法を子飼いの亜人に尋ねてみたら、どうやらそれにはエルフと仲良くなる必要があるそうだった。
普段、森の中に居るエルフはジーっとして微動だにせず、話の通じない相手だが、こちらの意図は分かるらしく、森で取れた動物の肉や果物なんかを差し出すと喜んで食べるらしい。物を食べなくても生きていけるようだが、それでもまったく食べないと言うこともないらしく、物凄く稀ではあるが、果実や野草などを摘んで食べることがあるそうだ。なんというかダイオウグソクムシのようだが。
そうやって餌付けをしていれば、意思の疎通までは無理でも、やがて誘導するくらいは出来るようになるらしい。ただ、それには長い時間をかけて仲良くならねばならず、そうまでして仲良くなっても、目的が相手を殺すためだと考えると、とても亜人の誰かにやってくれとは頼めなかった。だって可哀想だろう。
亜人は従順な性格で頼めば引き受けてくれるだろうが、得てしてこう言う性格は溜め込むからろくな事にはならない。メディアの執政官アインのように、唆されてついには爆発されても困るのだ。
大体、エルフは人間の天敵なのだから、やはり人間自身が手をくださねばならないだろう。亜人に協力はしてもらうが、それはあくまで補助にとどめておくべきである。そう但馬は考えていた。
アナスタシアもその意見に賛成だった。ただ、話を聞いていたら、どうしてそうまでしてエルフを排除しなければならないのだろうと、また新たな疑問が沸き起こった。エルフは人間を見たら問答無用で襲ってくるようだが、亜人に対してはどうやら気さくな感じにも思える。
亜人に頼んで連れて来て貰うのではなく、森の奥に引っ込んでくれるように頼むのではダメなのだろうか。何も殺すまではしなくてもいいのでは……
そんなことを考えながら道無き道を進んでいくと……先を進んでいたリーゼロッテがピタリとその歩みを止めた。
案内の亜人たちがさっと姿勢を低くして、左右に展開する。リーゼロッテはそれに一瞥もせず、ただまっすぐ前だけ見て、腰に差していた剣を引き抜いた。
「エルフだ……」
ポツリと隣に立つ但馬がつぶやいた。アナスタシアの心臓が、まるで別の生き物のように早鐘を打っていた。
「あれが……エルフ?」
話には聞いていたが見るのは初めてだった。当たり前だ。それを見たものはまず間違いなく命を落とすのであるから……
アナスタシアはそれと初めて遭遇した時、自分の考えは間違っていたと感じた。身が竦むのを感じた。体中に電気が走ったみたいにビリビリして、足元がガクガク震えていた。たった今まで殺すまではしなくても良いのではと思っていたくせに、今ではその考えは完全に消えていた。
あれはヤバイ……なにかいけない……彼女は震えながらジリジリと後退し、頭のなかにはそんな言葉だけがグルグル回っていた。あれと向き合っていると、何か人間としての根本的な物が揺さぶられるような、そんな気がするのだ。
「屠龍……」
リーゼロッテが剣を構え、エルフを真正面から睨みつけ、そう呟くと、その刀身がキラキラと輝いて緑色のオーラに包まれた。
「魔を討つもの、悪竜を討ち果たすもの。復讐の誓いをこの胸に、炎をまといて刃を立てん」
詠唱が続く間、その緑色のオーラが彼女の全身を包み込んでいき、気がつけば彼女の手には、周囲のマナを集め光り輝く大きな剣が握られていた。
その大剣を中段に構え、彼女は一息に深く息を吸い込むと……殆ど予備動作無しに、全く何の前触れもなく、突然、あり得ないスピードで目の前の敵に跳びかかっていった。
ガシッ!
……っと、肉がぶつかるような鈍い音が響いたと思うと、リーゼロッテが、これまた跳びかかっていった時のように、あり得ない速度で弾き飛ばされた。普通ならばそのまま地面に叩きつけられて絶命しそうな勢いだと言うのに、彼女は空中でクルリと体勢を整えると、パッと地面に軽々しく着地し、かと思うと、また殆ど予備動作もなく脈絡もなく漫然と、気楽な調子でエルフに跳びかかっていっては、今度は自分の身の丈以上もある大剣を、まるでバターナイフでも扱っているかのようなスピードで振り回した。
ドンッと……だんびらを落とすように、重い袈裟斬りを一合。
ヒュンヒュンと、鞭でも振り回すかのような払いを二合。
そしてカカカッと、アイスピックでも突き立てるかのように、正確で素早い突きを三合。
これら全てをほとんど一瞬で相手に叩き込んだ。
そのあまりの凄さにアナスタシアは舌を巻いた。自分なら最初の一撃だけで殺られている……ところが驚くのはまだ早かった。そのあり得ない攻撃を受けてなお、エルフは平然と立ち尽くし、逆にリーゼロッテを追い込んでいるのだった。
バシッ!
っと、乾いた音が辺りに響き渡った。
エルフにぶつかっていったリーゼロッテが、今度こそ容赦なく弾き飛ばされた。
彼女は、ドンッ! ドンッ! っと何度も叩きつけられながら地面を転がり、やがて最初に彼女が跳びかかっていった……つまりアナスタシアたちの目の前までゴロゴロと転がり込んできた。
ワナワナと震えながらアナスタシアはエルフを見た。そこにはあれだけの攻撃を受けながらも、一切傷つくこともなく、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべたそれが、悪魔のように立っていた。
あんなものに、一体どうやって勝とうというのか?
「……頃合いです」
アナスタシアが恐怖に震え立ちすくんでいると、吹き飛ばされてきたリーゼロッテがボソッと言った。そして、エルフからは目を離さないで、
「わあ~! これは、とても敵わないぞ~。逃げよう逃げよう」
と、明らかに感情のこもってない棒読みで叫ぶと、但馬とアナスタシアをひょいと抱えて走りだした。
「わっ! わっ!」
地面に根が生えたかのように、完全に竦んで動けなかったアナスタシアは、短い悲鳴を上げた。あまりの恐怖に涙が滲んで周りが見えない。
「わー! ちょっと、リーゼロッテさん。速い! 速いって!!」
「黙ってないと舌噛みますよ」
なのに、隣では但馬とリーゼロッテがまるで普段のやり取りみたいな落ち着いたトーンで話しをしているのだ。この人達は一体なんなんだ?
駆けるリーゼロッテの速さも明らかに人間離れしていた。視界の片隅で、森が緑のカーテンのようになって消えていく。但馬とアナスタシア、二人も大人を抱えておきながら、その速度は馬の全速力よりも速いように感じた。
「こっちだ!」
と、前方からエリオスの声が聞こえてきた。
エルフと遭遇するまでかなり歩いたと思うが、もう元の場所に戻ってきたのか。その事実と、エリオスと言う頼りにしている家族と再会出来て、アナスタシアもようやく人心地つけたが……
「ひっ! 来てる! 来てるよ!」
ふと、リーゼロッテに抱えられながら振り返ると、これまた彼女同様、あり得ない速度で歩いて追いかけてくるエルフが、彼らのすぐ後ろまで迫っていて、アナスタシアは体が硬直した。
リーゼロッテは森の広場に飛び込む。
ガサガサッと周囲に隠れている兵士たちの何人かが動揺して音を立てたが、だがもうそんなことに気づかないほどアナスタシアは動揺していた。
「リズ! 飛べっ!」
エリオスが叫び、リーゼロッテがひょいと飛んだ。
足元にはあからさまな落ち葉や枯れ枝でカモフラージュされた罠があって、どうやらそれを避けたらしい。
ふわっと浮遊感に包まれて、急な方向転換についていけず、放り出された但馬とアナスタシアがゴロゴロと地面を転がった。
口の中がジャリジャリする。
どこかを噛みちぎってしまったのだろうか、血の味がしたかと思ったら、続いて激痛が走った。
だが痛がっている暇はない。エルフはすぐ背後に迫っている。自分の足で逃げなきゃ……走らなきゃ……そう思うのに、体がまるで別の生き物みたいに震えて動かなかった。
思わず目をつぶったアナスタシアであったが……そんな時、
バチンッ!!
っと、森の広場に大きな音が響いて、動揺しながらも何があったのかと目を開けた。
「はははっ! 馬っ鹿じゃねえの!?」
すると、してやったりと言った感じの笑い声がすぐ隣から聞こえてくる。
見れば、あり得ないことに……
あの悪魔としか思えなかったエルフが、エリオスの仕掛けた単純な罠に引っかかっていたのだ!
「----・・--・---・・-・---!!!」
奇声が上がる。文字通り、奇妙な声だった。
一体何処から声を出してるのか分からない。声で有るのかさえも分からない。そんな謎の音声が広場いっぱいに広がった。気持ち悪い。怖気が走る。あり得ない。嫌悪感だけが沸き立って、おぞましさに体が震える。
罠はエルフの足にガッチリと食い込んでいて、その枯れ木のように細い足首から、青色の体液がぴゅーぴゅーと吹き出していた。その顔は苦痛と憎悪に塗れており、怒りの矛先であるリーゼロッテに向けられた。
まずい……今度こそやられる……
アナスタシアはその視線を浴びて、気が遠くなりかけた。だが、もはやそんなことを言ってる場合ではない。立ち向かわなければ、今度こそみんなやられてしまう……
そう思い、彼女がなけなしの勇気を振り絞って腰の剣に手をやった時だった。
「構ええええーーーーーいっ!!!!」
広場の端っこの方から、ものすごく通りの良い声が響いた。
その声に、エルフの体がビクンと反応する……
と、突然、エルフは周囲をキョロキョロと見渡し、続いて戸惑うかのように、急いで足に食い込んでいるトラバサミを外そうと、躍起になってそれに手を伸ばした。
しかし、それはもう叶わない。
「撃てえええええええーーーーーー!!!!!」
の号令と共に、
パパパパパパパパパパパパパパンンンッッッ!!!
っと、静かな森の中に一斉射撃の轟音が轟いた。
強烈なマズルフラッシュが視界に閃光の跡を残した。
広場は一瞬にして白い煙に満たされ、硝煙のツンとした匂いに包まれる。
「第二射、構えええええええーーーーー!!!!!」
間髪入れずに次の号令が聞こえた。
そんなに急かされても装填までに時間がかかる。落ち着いてさえいれば、指揮官ももう少しテンポを取れたのだろうが……慌てた兵卒が必死になって次弾を装填しようとして、もはやこんなものは邪魔といった感じに、自分を覆い隠していたケージを弾き飛ばして立ち上がった。
それを見ていた幾人かの兵士も同じくケージを弾き飛ばして、必死になってマスケット銃に次弾を装填し……
「撃てえええええええーーーーー!!!!!」
パパパパッパンパパパパンッ!!!!
と、バラつきながらも何とか第二射を放つのだった。
その一斉射撃の目標……エルフはもう動かない。
但馬は急いで右のこめかみを叩いて生体反応を確認した。そして、
「第三射あああああ!!」
と、未だ興奮気味に叫んでいる将校に向けて、
「待った待った! もういいもういい!!」
と言いながら、大きく手を振り振り、飛び跳ねながら、エルフの方へと向かっていこうとし……途中でエリオスに首根っこを掴まれ、ぞんざいに後ろに放り投げられた。
但馬が抗議の声を上げる。
そんな漫才みたいなやり取りが続く間、部隊は時が止まったかのように固まって微動だにしなかった。まるでだるまさんがころんだをしてるかのように、動いたら殺されるような、そんな緊張感が周囲に漂っている。
そんな中、但馬を放り投げたエリオスが、代わりにおっかなびっくりエルフの掛かった罠のところまで歩いて行き……
「……やった」
シンと静まり返る広場の中心で、そう、ポツリと呟いたのである。
「やった……やったぞ! やったぞ!!」
そのシンプルな言葉が、体の中に染み渡るように浸透していった。
「やった! やった! おい、やったんだぞっ!!」
そしてじわじわと、何か言いようの知れない喜びが湧き上がってきて……
ワッと森の中に潜んでいた兵士たちから一斉に歓声の声が上がった。
たった50人強しかいないはずだが、ドドドドドっと足音で地面が揺れ、興奮気味の男たちが隠れていた檻の中から飛び出してきては、罠の前でガッツポーズしているエリオスの元へ飛んでいった。
そしてそこに転がっているもはやモノ言わぬ死体を目にして、ある者は十字を切り、ある者はむせび泣き、互いに抱き合いながらこの偉業をたたえ合った。
但馬はそれを上下反転した視界で見ていた。リーゼロッテにぶん投げられ、エリオスにまで放り投げられ、体のあちこちが痛かった。最近、扱いがどんどん悪くなってる気がする、ちくしょう……こうなったら減俸でもして上下関係と言うものをきっちり分からせてやる……などと悪いことを考えていたら、感極まった兵士たちがあちこちからやって来て、転がる彼を抱き起こして、歓喜の輪の中に引っ張っていった。
それを見ながら、アナスタシアはへなへなと地面に倒れ込んだ。
「……なんの役にも立たなかった」
ブリジットに言われて参加してみたはいいものの、自分は未知なる恐怖に怯えて翻弄されてるだけだった。
腰を抜かして地面にへたり込んでいる彼女に手が差し伸べられる。見上げると、リーゼロッテがいつもの慇懃な調子で立っており、
「お疲れ様です」
と言って彼女を引っ張りあげた。
足元がフラフラしてよろめいていると、ガッシリと彼女が受け止めてくれたが、もう先程のような圧倒的なパワーはもう感じられず、いつもの柔和な彼女だった。いや、それどころかここが鬱蒼と木々の茂る森の中だと感じさせないような、余りにも普段通りな彼女の振る舞いに、アナスタシアは体が弛緩して震えるものを感じていた。
本当に、世の中には自分には想像もつかないような、凄い人がいるのだと、改めて思う。
兵士たちがエルフだった死体を足蹴にして雄叫びを上げる。アナスタシアはそんな野蛮な光景に目を背けた。辺りを見渡すと、一際人が多く集まる輪に目が行った。そこには大の男がベソをかきながら頭を垂れて、何度も何度もお礼を言うのを、いつもの悪びれない苦笑いで後頭部を掻き毟りながら謙遜する但馬の姿があった。
この日、人類は長い歴史の中で初めて、魔法の力ではなく、人類のみの力でエルフを撃退することに成功した。これは新時代の幕開けであったと言っても過言でない成果であり、これ以降、アナトリア帝国の版図はガッリア大陸内陸部にまで及ぶようになっていく。
これが、但馬波瑠という人の仕事なのだ……アナスタシアはその姿を輪の外で、離れて見ていた。
彼女は時代の変遷する、まさにその瞬間に立ち会い、その重さをひしひしと感じていた。
借金を完済し、自由になったと言われても、彼女はまだ自分がやりたいことが見いだせずにいた。





