逓信卿時代③
本社から飛び出て3町ほどダッシュしたところでエリオスに捕まった。と言うか、力尽きてゼエゼエ言いながら膝に手を付いていたら、仏頂面のエリオスにひょいと担がれ馬車に乗せられた。
ガタゴトとのんびり行く馬車に苛立って、御者に「ええいっ! 何をちんたら走ってんだ! 通行人なんざ全部蹴散らせ、ゴー! ゴー! ゴー!」と言っては迷惑がられたところでようやくエリオスに事の次第を面倒くさそうに教えてもらう。
「……え? 別にピンチでもなんでもないの?」
「当たり前だろう。あれを誰だと思っているんだ。社長じゃないんだぞ」
「そう言われてみれば……」
もう何年もの間、毎日エリオスやブリジットを相手にして鍛えられているアナスタシアは、もはやそんじょそこらの賊にやられる玉ではないのだ。知力体力時の運、全てを兼ね備えている彼女の方が、もしかしたらトータルではエリオスより上かも知れない。剣も握れない但馬が駆けつけたところで、足手まといになるのが落ちだろう。
「しかし、ナチュラルに傷つけてくるよね、最近のエリオスさん」
「そうか? ……それだけ社長の肩の力も抜けて、気安くなったと言うことだろう」
「……そんなにピリピリしてたかね、以前の俺って」
「仕事に集中しすぎて、他を圧倒し、有無を言わせなかったな。少なくとも顔つきは以前の方が100倍は凛々しかったが」
「酷いっ!」
「戦時中で、みんながピリピリしていたのもあっただろう。最近は、恋人が出来たことで、仕事以外にも考えることが出来たんじゃないか」
「……そ、そうね」
「まあ、あまり進展してないようだが」
「ほっといてくれたまえっ」
……口を開けば嫌味を言い放つエリオスにムスッとしながら、
「それにしても、こういう荒事はエリオスさんの担当だろう? 一応、クレーム処理係ということで雇ってるんだし、部下もつけてるんだから。どうしてわざわざ俺に回したの」
「む……そうだな。その方が良いだろうと思ったからだが」
「どゆこと??」
「うむ……何というか、クレームはクレームなんだが……まあ、もうじき着けば分かる」
説明しづらいと言うよりは、説明するのが面倒くさいと言わんばかりにエリオスは渋面を作って前方を指差した。但馬が叫んだことで御者が気を利かせたのか、若干スピードを上げた馬車はもう中央区の中心街へと差し掛かっており、見ればアナスタシアの職場のある交差点に人だかりが出来ていた。
店はここを曲がって暫く行ったところにあるのだが、これ以上近づけないので、但馬たちは馬車から降りて、その人だかりをかき分けて進んでいった。元々、ローデポリスのメインストリートと中央の商店街がぶつかる交差点であり、国内で最も人通りの激しいところであったが、最近の移民増と好景気がそれに輪をかけていた。
人だかりはメイドカフェを取り囲むように出来ていて、常駐の憲兵が立ち止まらないで進むようにと叫んでいるのだが、誰も言うことを聞かずに店の軒の方を眺めている。
一体何を見てるのだろう? と思いながら、但馬がピョンピョンしながら店の方に近づいていくと、ようやく騒ぎの中心に立つアナスタシアの姿が見えた。
「もう、いい加減にしてよっ! 営業妨害になるから、店には近付かないでって言ったでしょう!」
彼女にしては珍しく怒声を上げてるものだから、但馬は思わずシュンと萎縮して縮こまった。綺麗な女の子が怒ってると、どうしてこんなに怖いんだろう……しかし、そんなこと気にしてられないので、おっかなびっくり近づいていくと、
「しかし、アナスタシア様。我々は、あなた様のようなお方が、こんなはしたない真似をさせられていることが我慢ならないのです」
「ああ、アナスタシア様……」「おいたわしや……」
なんじゃこりゃあ……店の前にはモップを構えたアナスタシアがプンプン怒りを滲ませて仁王立ちしており、その前を老若男女問わぬ修道士のようなフードを被った御仁が何人も跪いて、まるで神にでも祈りを捧げるかのように手を組んでアナスタシアのことを見上げていた。
学芸会ならともかく、日常ではめったに見られないような光景に唖然として、但馬はポカンと口を開きながらそれを指さして状況を問うたのだが、エリオスは難しそうに眉根を寄せて渋面を作るだけで何も答えない。
自分で聞けってことだろうかと、前に進み出て騒ぎに割ってはいろうとしたら、ドンっと小さな人影にぶつかってしまい、
「おっと、こりゃ失敬」
と謝ったら、
「あ、先生」
ぶつかった相手は言わずと知れたアモーレ、ブリジット・ゲーリックその人だった。
思わず心臓がドキッと跳ね上がる。ここ最近は会う約束をしたときから会う直前まで、運動会の前の日みたいに、やたらとドキドキして眠れなくなってしまうくらいなのだが、それがこんな不意打ちで出会ってしまったら、なんとも筆舌に尽くしがたい緊張が全身に走った。
ブリジットが何気なく見上げるその仕草が、クリクリと丸っこい瞳が自分を捉える姿が、なんだかどうしようもなく愛おしくて、こんな娘が本当に自分のこと好きなの? と思うと、胸の中身に甘ったるいホットチョコレートを流し込まれ、ティースプーンでグルングルンとかき回されてしまったかのように身悶えする気分になった。だが、こんな娘が本当に自分のことを好いているのだ。
今までは全く意識していなかったくせに、一度意識してしまったらどうにも収まらなく、千の言葉が頭のなかを駆けまわるのだが、それが一つも口から出てこない。そうこうしていると向こうもこっちが黙りこくっているから、アウアウと目を伏せて口を閉じてしまい、暫く幼稚園児みたいなお見合いが続く。
そんな風に二人して真っ赤になりながらいつまでもモジモジしているわけにも行かず、取り敢えず何か声に出そうとして、彼女の方へついと目をやると、今日は花柄のワンピースに薄手のサマーセーターを羽織って、それを十字架をあしらったブローチで留めていた。長すぎず短すぎないスカートの丈から真っ白くて健康的な足がスラリと伸び、革のサンダルが胸に比べて思いの外慎ましい足首を包み込んでいた。
その女の子女の子しいトータルコーディネートは今日も絶品である。但馬と付き合いだしてからブリジットは一度として同じ服を着ること無く、毎日違った彼女を見せては、彼のことを楽しませてくれた。だから今日もかわいいよとかなんだとか、歯がボロボロと抜け落ちていまいそうなセリフでもほざいて見ようかと画策しては、激しい動悸に耐えながら、どうにか口を開こうと努力するのだが、モジモジするだけで一向に口から音が出てこない。
「あ、あの……!」
そんな風に踏ん切りの付かない但馬がチキっていると、勇気を出して最初の一歩を踏み出したのは、果たしてブリジットの方だった。但馬の弱虫。女の子にこんな恥ずかしいことを強いるなんて、男の風上にもおけないわ……と自己批判しつつも、デレデレと顔面が崩れないように気を引き締めながら、
「な、なにかな……?」
と但馬が問いかける。すると彼女は真っ赤になりながら、
「せ、先生。こんなところで会うなんて奇遇ですね。それから、きょ、今日も、か、か、かかか、格好いい……です」
ズガンッ!
っと、脳天にスレッジハンマーを叩きつけられたような衝撃が走り、次の瞬間、ホワンホワンと森永のマークみたいのがヒラヒラ飛んでった。あかん、これ、勃起していないのに、今にも射精しそうである。どうしよう……可愛い……前々から可愛い可愛いとは思っていたが、間違いだった。これはもっと可愛いなにかだ。想像以上に可愛いぞと、顔面が崩壊するのを必死に堪え、鼻の下をエチオピア高原から溢れだす白ナイルの如く悠久と伸ばしながら、
「ブ、ブ、ブリジットも……その……か、か、かかか……」
可愛いよと言わんとした瞬間、アナスタシアのもの凄い白眼視が突き刺さった。
「ヒィィィッ!」
思わず絶叫して仰け反った。キョトンとした瞳を潤すブリジットの視線に、ごめんねと愛想笑いを投げかけてから、但馬は改めて人垣の中へと足を踏み出した。
そうだった。クレームの仲裁に来たんだった。
思わず分量にして軽く1千字は越える妄想を書き連ねていたような気分であったが、この間およそ2秒である。
但馬が人混みの輪っかの中に入ると、アナスタシアの足元に跪いていた人々が一斉に彼の方を見上げた。中には邪魔をするなと敵意をむき出しにするような顔もある。エリオスが対応しきれない様子からして、ただのクレーマーっぽくはないだろうと思ったが、これはどうも一般人ですらなさそうだ。何というか、毛色が違いすぎる。
「一体全体、これは何の騒ぎなの。この人達はお客さん……って感じじゃないようだけど」
「ああ、社長……良かった。来て頂けて……」
但馬がそう尋ねると、中からメイドさんが数人、困った顔をしながら出てきた。ムスッとした顔を隠そうともせず面々を睨みつけるアナスタシアの代わりに、彼女たちに話を聞いてみると……
「……はあ? フリジアから来たの? この人たち」
「正確にはエトルリア南部の人々だ」
但馬が事情を聞いていると、面倒くさそうにエリオスも進み出てきた。大男で強面の彼が、仏頂面で睨みつけると、その場にいた人々が誰彼なくみんな緊張してソワソワし始めた。いつの間にか怖い怖い護衛長も、結構名前が売れて来てるらしい。
「エトルリア南部に居を構える教会団体で、フリジアを含む南部諸侯と、ビテュニアを含むアスタクス方伯配下の領地を広くカバーしているらしい。今回は双方のどちらにも加担せず、純粋にアナスタシアの行為を表彰しにやって来たそうだ。だから悪気はないようなのだが……」
騒動の原因はこういう事だった。
フリジアでのペスト騒動で、アナスタシアの名前はエトルリアに轟いた。この世界の人々がヒーラーに対して抱いている信頼は絶大なものがあり、その彼らをもってしても治せなかった不治の病を、敵味方の区別なく、奇跡の力をもって治療した彼女は、聖人として崇められ多くの人々から賛辞を受けた。
おまけに、マルグリット・ヒュライアの調子の良いよいしょのお陰か、その人気は留まるところを知らず、彼女が道を歩けば誰もが立ち止まって、ありがたやありがたやと拝み始める始末であった。
しかし、その功績を讃えて勲章を授けようとする人々に対し、目立つことが嫌いなアナスタシアは、そんなの良いからと引っ込んで、最後の治療を終えたら逃げるようにリディアへと帰って来てしまった。
恥ずかしいというか、煩わしかったわけだが……
エトルリア南部、アスタクス地方に存在する銀十字修道会なる組織は、それを彼女の奥ゆかしさと受け取り感銘を受け、是非に表彰せねばと聖職者の代表団をリディアへと派遣した。
彼らは教会のお偉いさんに言われて、海を渡り、敵地であるリディアへやって来たはいいものの、その生活レベルのあまりの違いにショックを受け、物価の高さに戸惑い、電気なんかの技術差に打ちのめされ、とにもかくにも目的だけは果たそうと、ほうほうの体でアナスタシアを探して店までやって来たら……
萌え、萌え、キュン!
とかやってるからその場で憤死した。
「ああ……」
但馬は言うに及ばず理解した。
確かに、アキバ系文化に初めて触れると、誰だってビックリしちゃうものである。思わず日本のJKの30%が援助交際をしてると唆されても何の根拠もなく信じてしまってもおかしくないくらいだ。13%だっけ? まあ、どっちにしろ、そんなにJKが体売ってたら風俗業界は商売上がったりだろう……
ともあれ、彼ら曰く。表彰をすべき相手を探してやって来たら、そこでその張本人が売春に匹敵するような恥ずかしいことをやらされていたものだから、彼らはビックリすると同時に、今すぐこれをやめろと大騒ぎしだしたようだった。こんなことをしないと生きていけないほど生活に困窮しているのであれば、教会を頼ってほしいとかなんとか言ってたようだ……まあ、それが本心から出てるのであれば、ありがたい話ではあるが。
しかし、いきなりやってきて、おまえの仕事は破廉恥だからやめろと言われたアナスタシアにしてみれば、痛罵されたようなものである。しかも聖職者独特のあの悪気のない笑顔が張り付いたような表情で言い切られたら、頭にもくるだろう。
彼女が自分の仕事にプライドを持っていたかどうかは知らないが、少なくともこのメイドカフェで取り扱っている商品は、世にも珍しいアイスクリームや、ほっぺたが落ちそうなパフェなど、唯一無二の代物ばかりだったし、そのサービスは上流階級にだって好評を得ているのだ。大体、本当に売春をやらせてたのは、寧ろ彼らの方なのだ。エトルリアの腐敗した教会の方じゃないか……彼女が怒るのも当然であった。
だが、そんなことここで糾弾しても始まらないので、
「ああ、そう、大体の事情は分かったよ。そんで騒ぎになっちゃったのね。普通に営業妨害だなあ……」
「……先生、そいつら殺さない程度に傷めつけてもいい? もう我慢できない」
「お待ち下さいアナスタシア様! 我々の話も聞いてください!」
「聞きたくないよっ! 表彰なんて受けないって、もう何べんも言ってるでしょ!」
アナスタシアには珍しい大声で、耳がキンキン鳴った。激おこである。ところで、
「何べんもって……この人達、そんなに何べんも来てるわけ?」
と尋ねると、エリオスが代わりに教えてくれた。
「ここ1週間、毎日だ。アナスタシアだけでなく、俺も何度も追い返したんだが、時間を変えてやってくるんで……」
追い返しても追い返しても聞き入れて貰えず、いや、彼らからしてみればアナスタシアが聞き入れてくれないから……何度もやって来て営業妨害を続けているというわけだ。
周りをぐるりと見渡すと、野次馬が面白がって覗き込んでいる。憲兵隊がうんざりした顔をして交通整理を行っている。但馬の感覚では、これは立派に営業妨害と言う罪なのだが、法治国家というわけでもないこの国でそれはなんの罪に問えるのか……多分、罪ではないから彼らも交通整理を行う以上に介入してこないのだろう。
アナスタシアがその気になったら、こんな奴らけちょんけちょんにしてしまえるわけだが……もうそれで良いかなとも思ったが、お客さんや店の従業員に迷惑が掛かるかも知れないから、ぐっと堪えたようだった。
それで但馬にお鉢が回ってきたというわけだ……さて、
「ああそう……まあいいや。それじゃちょっと話を聞かせてよ。えーっと、銀十字さんだっけ?」
但馬がいつもの調子でのほほんと尋ねたら、修道士たちの一人……ザビエルみたいなカッパハゲが答えた。多分、この中で一番身分が高いのだろう。
「銀十字修道会です……あなたは?」
「一応、この店のオーナーだけど」
「おお! あなたが……だったら話は早い。我々、キリスト教エトルリア正教会は、これ以上、アナスタシア様にいかがわしい事を行わせないように、責任者であるあなたにお願い申し上げます」
「うん、まあ、いいけども」
「先生!?」
味方であると思っていた但馬が、あまりにあっさりと肯定するものだから、アナスタシアがギョッとした顔を見せてから、ギロッと抗議の視線を飛ばしてきた。但馬は苦笑いしつつ、いいからいいからと手でジェスチャーを返した。
「本当に? よろしいのですか? アナスタシア様に何度お願いしても、駄目だの一点張りだったのですが……」
「うん。たまたまなんだけどね、これも怪我の功名っつーのかな……丁度、彼女を本社に復帰させようかと思ってたところだったんだ。そしたらもう、彼女は萌え萌えキュンとかもうやらないで済むから。あんたたちは、それでいいんでしょ?」
「おお! オーナー様がそう言ってくださるのなら心強い」
「ただ、いかがわしい云々ってのはいただけないんでね。撤回してもらいたい。あんたらは何の気なしに言ってるのかも知れないが、ここに来てくれるお客さんや、従業員のみんなを傷つける言葉だってことは自覚して欲しいものだ。周りを見てくれ」
案外、素直な性格なのか、そう言われたカッパハゲがぐるりと周囲を見渡す。すると、あちらこちらから不快な視線が突き刺さって、ウッと息を飲み込んだ。
「あんたらがどう思おうが知ったこっちゃないけど、それは他人を不快な気分にさせてまで主張しなきゃならないことなんですか。ところで、あんたらはアーニャ……アナスタシア店長を表彰するつもりで来たそうだが、現状では彼女の職場を侮辱し、彼女の部下やお客様を貶めるような行為を平然と行っているだけだ。それも何度も。お陰さまでアナスタシア店長はたいへんご立腹であらせられる。そのような相手に褒められても、きっと願い下げだろう」
「……むむっ」
「居ても立ってもいられなかったのかも知れないけど、それはどうしても営業時間中に、ここでやらねばならない抗議だったんですかね。あなた方に悪気がないのなら、周りをもっとよく見て、時と場所を選んでくれないか。それでもまだ文句があるって言うのなら、こちらにも考えがある。商売を邪魔されておいて、いつまでもお人好しでは居られないんでね」
エリオスがギロリと睨みつける。目立たないように散開してるが、彼の部下たちもあちこちからこちらへ視線をロックオンした。
カッパハゲたちは若造に説教されると思っても居なかったのだろうか、最初はムムムッと渋い顔をしたが、すぐに肩を落として申し訳ないと謝罪をした。どう考えても、こっちのほうが筋が通っているのだから、文句も言えなかったのだろう。こうした素直な態度を見る限り、エリオスが言っていた通り、悪気が無いのは確かのようだった。
そして彼らは後日改めてお礼に伺うと言って去っていったが、しかし完全に気分を害したアナスタシアは、絶対に表彰なんか受けないと言ってプンプンしていた。職場に押しかけられてこんなことをされたら、確かにたまらないだろう。
受け取り拒否したらまた何度も来ちゃうと思うのだが……言うと怒られそうだから黙っておく。
そんなこんなで、どうにかトラブルを解消した但馬がヤレヤレとため息混じりに肩を竦めてそれを眺めていると、ニコニコしながらブリジットが近づいてきた。
「お疲れ様です。凄いですね、先生。トラブル解決もあっという間でしたね」
「いや、クレーム処理係じゃないんで、勘弁して欲しいんだけどね……ブリジットは、どうしてここに? 話を聞いて、アーニャちゃんの応援に来たの?」
「はい。ここ最近大変なんだと、今朝アナスタシアさんがおっしゃってたので。私からも一言言ってみたのですが……けんもほろろで全くお役に立てませんでした」
……あのカッパハゲ達は、相手が誰だか分かっていたのだろうか。近衛兵たちがキレなくて良かった。ウルフが現役だったらきっと今頃大立ち回りだ。
「それにしても、一方的な方たちでしたね。メイドの格好してたところで、ただの真似事だって分かるでしょう。あんなに目くじら立てなくてもいいのに」
「いや、分からなかったんじゃないの」
「ええ?」
「流石にもう、今は理解してるだろうけどね。初めはこういう商売だってことすら分からなかったんじゃないの。多分だけど」
「ふふっ、まさか」
しかし、そのまさかが十分にありえるくらい、彼我の文化レベルは違うのだ。かつて、ソ連からアメリカに亡命した空軍将校・ベレンコ中尉は、どこにでもあるただのスーパーマーケットを見て、その裕福さ、物流の凄さにショックを受けて、ここは現実には存在しない、一般客が利用できないショールームか何かだと思ったのだそうだ。
人間、誰しも自分を基準に物事を考えるから、物の価値観や文化レベル、経済状況なんかがあまりに違いすぎると、思考が追いつかなくなっても仕方ないことだろう。もはやイオニア海を挟んで対岸は、100年の差があると言っても過言でないほど、文化レベルに違いがあるのだ。
「彼らにしてみたら、本当に感謝して表彰しに来たんだろうけど、その相手が使用人としてこき使われて居ると勘違いして、居てもたっても居られなくなったんじゃないか。お礼も受け取らずに帰っちゃったけど、自分たちのとこに居てくれれば、お姫様として扱ったのにって、そんな感じ」
「……そんなことより、私はちゃんとお仕事をしてお給料を貰って居たほうが良いよ。そう言ってるのに、全然聞いてくれないんだよ。こんなのは仕事じゃないって」
それを聞いていたアナスタシアが、奥歯を噛みしめながら言った。よっぽど悔しかったのだろう。握りこぶしに爪が食い込んでいた。それにしても働き者である。どこかのメイドもどきに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものである。
まあ現実問題、あっちは未だに封建社会を続ける農奴制の国のはずだから、彼らにしてみれば実際に仕事ではないのだろう。下男下女がやるのが普通で、高貴な人々、ましてや聖人認定を受けた人がやっていいものではない。
「そんなのあっちの勝手な押し付けなのに。でも、先生も酷いよ。私の職場、勝手に変えるなんて言っちゃって……」
「ん? ああ、ごめんごめん」
「別に良いけど……いつもの、その場しのぎの口からデマカセなんだろうから。それじゃ、私は仕事に戻るね。先生も姫様と一緒にお茶してく?」
酷い言われようである。但馬は顔をひきつらせながら言った。
「いや、お茶はしてくけどね。口からデマカセってわけでもないんだ」
「……?」
「配置転換するかどうかは分からないけど、一旦、本社に呼び戻そうと思ってるのは本当なんだよ」
「……え?」
アナスタシアはキョトンとした顔をしている。
本当は彼女に内緒にして、みんなでサプライズパーティでもしようかと思っていたのだが、こうなったら理由を話すしかないだろう。但馬はここへ来る前、フレッド君と話していたことを彼女に伝えた。このとろこのアナトリア国内の好景気のお陰で、いつの間にかアナスタシアの借金が完済されていたのだ。
それを聞いたブリジットが、手を叩いて喜ぶ。
「わあ! おめでとうございますっ! やり遂げましたね!」
ところが、逆にアナスタシアは顔面蒼白と言った感じに硬直した。そして但馬の方を目線だけでちらりと見たり、目を伏せて地面を見たり、手を無駄にワキワキさせたり、目をキョロキョロさせながら、何かに怯えるように体を震わせた。
その豹変ぶりがあまりに急激だったから、最初は無邪気に喜んでパチパチと手を叩いていたブリジットも、何かまずいことでもしたのだろうかと、徐々に叩く手をフェードアウトしていった。
どうしたんだろう? と、但馬が見守っていると、
「……その、それじゃ私はもう、用済みなの?」
「はあ?」
口をポカンと開けていたら、
「ここでお仕事してちゃダメなの? 今の家からも出てかなきゃならないのかな……」
「アホか」
アナスタシアの肩がビクリと震えた。しょんぼりとしてまるで捨てられた子犬のようだ。まさか、そんなこと気にしていたのかと、但馬は呆れながら言った。
「そんなわけあるか。借金があろうと無かろうと、アーニャちゃんはうちの子だし、リオンのお姉ちゃんで、俺の大事な家族だよ。これからも、今までどおりしっかり働いてもらうし、うちの台所を守ってもらわなきゃ困る」
そう言ってから、但馬はふと自信なさげに、
「……いや、もし家から出たいって言うなら、もちろんそれはアーニャちゃんの自由なんだけど……ででで、出たいの??」
「そんなことないよ!」
それを聞いて、但馬はほっと一安心といった具合いに言った。
「だよねー……ああ、良かった。ならまあ、基本的に今までと同じだよ。ただ、編成の都合上、一旦本社に戻って、それから新しい配属先を決めようかってだけの話。ちゃんと希望は聞くつもりだし、君がここの仕事を続けたいなら、もちろんそれは考慮する。ただまあ……ぶっちゃけ、お給料はちょっと下がっちゃうんだけどね」
なにせ、みんなには内緒だからおおっぴらには言えないが、実は今まで借金返済のための支援として、役員報酬を二重取りしていたのだ。これは流石に是正しなきゃならない。こんなズルしてたと知ったら、みんなはどう思うだろうか……
でも、良いではないか。元々、アナスタシアの借金を返す、そのためだけに作った会社だったのだ。そしてそれをシモンがやるはずだったのだ。
借金返済で家を追い出されると思っていたのか、アナスタシアは但馬の話を聞いてホッとすると同時に、思いつめていた自分を恥じ、そしてハッと自分がまだお礼を言っていないことに気がついて、慌てて頭を下げてお礼を言った。
但馬はいいよいいよと手で制して、それから少し涙目の彼女をブリジットと二人で祝福した。
それを見ていた店の従業員たちも、騒ぎを野次馬していた通行人たちも、なんだか分からないけど一緒になって手を叩いて祝福した。すると通りに居た全ての人達にそれが波のように伝わって、気がつけばあちこちからおめでとうという声が辺りに響き渡っているのだった。
表彰なんて受けないと言っていたアナスタシアも、こんな突発的に起きた祝福の波には勝てず、顔を真っ赤にして、彼女独特の困ったような顔をしながら、ありがとうと言ってモジモジと頭を下げていた。
こう言う、その場のノリを大事にするというか、誰もが温かく受け入れてくれるリディアという国に改めて感銘を受けながら、但馬はこれで一つ、肩の荷が降りたのかなと、どこか郷愁にも似た想いを抱いていた。
あの日、シモンがいなくなって……アナスタシアを助ける義理もなくなって……それでも我慢しきれず彼女を身受けしてから数年。独善的だと自己嫌悪したこともあった。自分の選択を後悔した日もあった。でも、なにはともあれ、彼はやり遂げたのである。
目頭が熱くなるのを隠しながら、拍手をする人々に見守られながら、三人はメイドカフェの中へと入っていった。その後に続々と店の従業員が続いてくる。
何しろ、これだけの騒ぎの後だから、店の中に客は一人も居らず、貸切状態の店内でアナスタシアに案内されて奥の席に座った。
自分が接客するというアナスタシアに、せっかくだから店長も今は休憩しててくださいよと、メイドさんが気を利かせてくれ、三人でポツポツと会話しながらパフェを食べていると、ブリジットがふと思い立ったように言った。
「アナスタシアさんは、配置転換するならどこか行きたい部署ってあるんですか?」
するとアナスタシアは頭を振って、
「……特には。うちの会社、大きすぎて逆に何をやっていいのか良く分からないよ」
「贅沢な悩みですねえ……なら、一つ提案があるのですが」
何かな? とアナスタシアが小首を傾げる。ブリジットはちらりと但馬の方を見て、ごめんねっとばかりにウインクして言った。
「今度、先生が立案して、私が指揮する作戦があるのですが……アナスタシアさんも参加してはみませんか?」
「作戦……?」
但馬は食べていたパフェをブッと吐き出した。
「おい、ブリジット。それはまだ陛下の裁可も仰いじゃいないし、決まったわけじゃないんだから……」
「本当にやるなら、人手はいくらあっても足りませんし、それに彼女の腕は折り紙つきですよ。この私が保証します」
「そりゃわかってるけど」
「アナスタシアさんなら、間違いなく戦力になりますって。心配なのはわかりますが、先生は過保護すぎるんですよ」
「うっ……」
「一体何の話?」
但馬とブリジットが押し問答していると、自分のことらしいのに蚊帳の外だったアナスタシアが、不貞腐れたように眉を顰めて尋ねてきた。但馬ははぁ~っと溜め息を吐くと、ヤレヤレといった感じに首を振ってから、
「戦力も整ってきたし、前々からちょっと考えててね」
「……?」
「あー……作戦ってのは軍事作戦なんだよ」
「軍事作戦?」
歯切れの悪い但馬の代わりにブリジットが引き取った。
「はい。今度、リディア国内でアナトリア軍によるエルフ討伐戦を行います」
「エル……フ? って、あのエルフ?」
「ええ。あのエルフです! ……今まで彼らに対抗する術がなく、海岸線にしか住めなかった私達の国も、これが成功すれば一気に開拓が進みます。これはリディアのみならず、人類の反攻作戦と言っても過言じゃありませんよ」
基本的に脳筋と言っていい体育会系のブリジットが喜々として宣言した。それを但馬が呆れたような苦笑いをしつつ、どことなく暖かく見守っている。アナスタシアはそんな二人の顔を交互に見ていた。
エルフ? 討伐? ……何を言ってるんだろう、この人達は。そんなこと出来るわけがない。そう思いつつも、この人達なら本当にやってしまうのかもしれないとアナスタシアは思った。





