逓信卿時代①
「……ごめんなさい、アナスタシアさん、ごめんなさい……」
「やめて、姫様。顔を上げて?」
「私はあなたの気持ちを知っていながら、先生への気持ちを抑えきれませんでした。本当はいけないことだって分かっていたのに、それでも、もう我慢しきれなくて、あなたから大事な人を奪ってしまったのです」
「お願い。お願いだから、謝らないで?」
「もし……私が謝ることであなたを苦しめると言うのなら」
「違う、姫様。そうじゃないの」
「……え?」
「姫様。私は先生のことが好き」
「……」
「でも、それがどういう気持ちかはよく分かってなかったの。先生のことは尊敬しているけど、好きとかそんなんじゃない。私は、それほど長くも生きていないし、それほど多くの人達と出会ってきたわけでもない。だから、優しくされることで、その感謝の気持ちを好意だと勘違いしてた」
「そんな……」
「ううん。本当なの。だってその証拠に、いまはとてもスッキリした気持ちでいられるから。良かったなって思えるから。二人のことを、心から祝福できるから」
「私にそんな資格は……」
「ううん。本当のことを言うとね? 本当は……本当は……先生にデートに誘われた時は嬉しかった。でもホントいうと罪悪感みたいなものもあったの。それは姫様が無理をしていることが分かっていたのと、私なんかじゃ先生と吊り合わないって気持ちと、本当は、感謝の気持ちを好きって気持ちに誤魔化していた自分の嘘に対してなんだと思う。だからね? 先生と姫様が恋人同士になったって聞いて、実はホッとしたのよ?」
「……」
「尊敬する、大事な先生と……こんな私でも友達として接してくれる、大好きな姫様が幸せになって、本当に嬉しかったんだよ。だから、謝らないで? 顔を上げて? そして私に言わせて?」
「……何を、ですか?」
「おめでとう、姫様。先生が選んだのがあなたでよかった。そして、私の……ううん、私達の大切な家族をどうか幸せにしてください」
「うっ……アナスタシアさん……うううぅ~……」
「もう……姫様は、泣き虫だなあ」
「うううぅ~……」
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雨が降っていた。
赤道にほど近いリディアは熱帯らしく雨季と乾季がはっきりした気候であるが、この雨は雨季のそれとは違って、季節外れの霧雨は、シトシトと音もなく地面に降り注いで、どこか物悲しかった。
部屋の中は薄暗く、まだ覚醒に至ってないぼんやりとする頭を振りながら窓の外を見ると、灰色の空のずっと向こうの雲の切れ間に光が差し込み、天国へ続く階段のように見えた。天気は回復の兆しを見せているのだろうか。それとも、その逆なんだろうか。
但馬はベッドから起きだすと、ぐっと背伸びをして欠伸を噛み殺し、滲む視界をゴシゴシと擦った。腰にじんわりとした傷みが走る。もはや持病のごとく万年コリの取りきれない肩をトントンと叩きながら部屋から出ると、薄暗い廊下を電気も付けず、顔を洗いに風呂場へと向かった。家の中はとても静かで、まだ誰も起きてないのだろうと思った彼は足音を忍ばせたが、風呂場に近づくに連れて人の気配が感じられて、杞憂であることを知った。
「……おはよ」
「あ、おはよう、先生」
風呂場にいくと、どうやら先に起きていたらしいアナスタシアが但馬と同じく顔を洗いにやって来た。薄手の体のラインが浮き出るようなネグリジェを纏った彼女と挨拶を交わし、眼のやり場に困る。
アナスタシアはそんな彼の気持ちを知ってか知らずか、特に気にした素振りも見せずに、井戸の手押しポンプをキコキコと動かすと、洗面器に水を汲んでそれをどうぞと差し出してきた。
「いや、アーニャちゃんが先でいいよ」
「ううん」
水くらい自分で汲むからと辞退した但馬であったが、彼女は首を横に振ると、コトっと洗面器を置いて、もう一つあるそれに水を汲みだした。
但馬はそれを見て肩を竦めると、ジャブジャブと顔を洗った。アナスタシアもすぐ隣に洗面器を置くと、同じくジャブジャブと洗った。
但馬の努力で徐々に近代化が進みつつあるリディアであったが、そのインフラ設備はまだまだ現代には遠く及ばないものだった。元々、彼があれこれ始める前は、うんこは垂れ流し状態、ゴミはあちこちに散乱するという、まんま未開の地と言わんばかりの中世世界だったのだから仕方ないことだろう。この国の水道設備は原始的と言わざるを得ず、すぐ近くの川から引き込んだ上水道が一本、申し訳程度に市街を突き抜けてる以外にこれといったものがない。
もちろん、蛇口を捻れば水が出てくるなどという、現代人には馴染み深い設備なんかはこの世界には無いから、毎朝顔を洗うにしても食事を用意するにしても、井戸まで行って水を汲まねば始まらない。
但馬がアナスタシアと一緒に暮らし始めてからは、毎朝先に起きたほうが、井戸で水を汲み置きしておくのがルールだった。そして朝の水汲みをしてると、もう片方も起きてきて、二人で水を汲んでは顔を洗うのが日課みたいなものだった。
顔を洗って暫くすると、すぐに食事が用意された。但馬はそれをダイニングキッチンのテーブルに腰掛けてじっと待っていた。炊事はアナスタシアの仕事で、台所は彼女の城だった。テキパキと動く彼女の姿を目で追ってれば、以前はそれだけで退屈な時間があっと言う間に過ぎていったが、今はこの待ち時間に何をして待ってればいいのか良く分からなくなっていた。
トーストの焼ける香ばしい香りが辺りに立ち込め、鍋に火をかけた彼女がパタパタとスリッパの音を立てて部屋から出ていき、かと思ったらすぐにリオンを抱えて忙しなく帰ってきた。
まだ夢見心地の彼がコックリコックリと船を漕ぐテーブルに、次々皿が並べられていく。但馬はサラダを一摘みすると、トーストにカリカリのベーコンとバターを乗せて、更にその上にポーチドエッグを乗せて噛み付いた。袋状になった卵の皮から黄身がジュワーッと溢れだしてくる。
それがこぼれないようにトーストの向きを傾け、ペロペロと舌で舐めとっていたら、ポワーンとした顔をしたリオンと目があった。正直言ってあまり見られた行儀ではない。しかし、これが抜群に美味い。トーストにかぶり付くと、なんとも言えない旨味が口の中いっぱいに広がり、思わず顔がほころんだ。
それを見ていたリオンも、いそいそと真似をしては但馬と同じくトーストにかぶりつき、幸せそうな顔を見せていた。卵の黄身がベットリとほっぺたにくっついて、アナスタシアがため息混じりにナプキンでそれを拭っている。但馬はそれを見ながら、
「……アーニャちゃん、今日の予定は?」
と視線を合わすこと無く訪ねてみた。アナスタシアがこちらを見る気配を感じる。
「今日もいつも通りだよ? 姫様と朝のトレーニングをしたら、そのままお店に行ってお仕事して、夕方には帰ってくるけど……何か御用?」
「いや……特に何にも。そっか……トレーニングか」
「先生も来る?」
「……ん、そうだな……」
自分も一緒に行こうかな……と言うか言うまいか、言いあぐねてソワソワしていたら、そんな彼より輪をかけたようにソワソワしたリオンが、
「お父さん……あのね。今日はフレッドお兄さんにお願いがあるから、会社についてってもいーい?」
と、尋ねてきた。
「フレッド君に?」
「うん……この間貰ったドリル」
「え? もう終わっちゃったの??」
年が近いこともあってか、リオンはフレッド君に懐いており、彼から算数を習っていた。時折、彼が訪ねてきたり、こうしてリオンが会社に付いてきたりして交流を持っていたのだが、以前会った時にもらった宿題をもう終えてしまったらしい。
いや、理由はそれだけではなくて、多分、但馬とアナスタシアのことを気遣っているのだろうが……
「そっかあ……それじゃ、お父さんと一緒に会社まで行こうか?」
「うん」
「フレッド君のお仕事の邪魔はしちゃダメだよ?」
「はいっ!」
元気な返事が返って来た。但馬は苦笑しながら、
「そういうわけで、アーニャちゃん。俺たちは会社に行くよ、ちょっと早いけど」
「わかった」
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
朝食を詰め込んで支度をし、リオンを連れて家を出る。すぐに、離れに住むエリオスがやって来て部下に指示を出すと、間もなく馬車が門に横付けにされ、但馬たちはそれに乗って、リディアインペリアルタワーの前にある本社へと向かった。
雨は上がっていたが空は未だにどんよりとして薄暗く、あちこちに水たまりが出来ていた。馬車がその水たまりの泥を跳ねる度にガタガタと揺れる。車窓から道行く人々を見下ろしていると、やがてカーブに差し掛かった時に跳ねた泥水が通行人にかかり、彼のマントを汚した。彼は忌々しそうに馬車を睨みつけたが、そこに但馬の姿を見つけて青ざめていた。
バツが悪くなり、但馬は窓から顔を引っ込めて、丘の上に立つ王宮を見つめた。
朝食の洗い物を済ませたら、もうじきアナスタシアはあそこへ向かうはずだ。そこにはブリジットがまだかなまだかなと待ちわびていて……一緒に剣の稽古をしたり、おしゃべりをしたり、時にはアナスタシアの職場でパフェを食べたりもするらしい。逆に、彼女が王宮に呼ばれてお茶をすることもあるそうだ。
あの二人の仲がそのままで良かったような……むしろ、以前よりもずっと仲良くなってしまい、なんとも釈然としない気持ちを抱えながら、但馬は二人のことを考えていた。
フリジアでブリジットと付き合うことを決めた後、すぐ彼女はアナスタシアと二人きりで何かを話し合っていたようだった。
彼女らがその時どんな話をしたのかは知らないが、明らかに泣いたのが分かる目を腫らしたブリジットが但馬の元へ帰ってくると、続いて妙にスッキリした感じの顔をしたアナスタシアがやって来て、但馬たちに祝福を述べた。
女同士の会話に首を突っ込むわけにもいかず、何があったのかは分からない。だがそれ以来、彼女らはそれまで以上に仲良くなり、無二の親友のようになっていた。彼女はブリジットと但馬の仲を気遣うようになり、場合によっては自分をダシにして二人を会わせようともした。
その行為があまりにもサバサバしていて、重圧から解放されたかのように見えて、但馬はやはり自分が無理に彼女に迫っていたのだろうかと思い、なんとも遣る瀬無い気持ちにさせられたが……
だが、そんなことはもう自分には言う資格もないだろう。
アナスタシアはその後もペストの余波で暫くフリジアに留まらざるを得ない状況で、逆に但馬たちはいつまでもローデポリスを留守にしているわけにもいかず、間もなくエリオスを護衛に残して但馬たちは首都に帰還した。
帰還後は二人ともなんとなくアナスタシアに気が引けて、せめて彼女が帰ってくるまではいつも通りにしておこうと言う気が働いたのか、なんやかや逢瀬を続けていたが、余り進展はしていなかった。
別に後悔をしてるわけでも、ブリジットのことが嫌いになったわけでもない。寧ろ、以前と比べたら完全に意識しているし、一緒にいると凄く満たされた。手が触れるとそれだけでドキドキするし、何気ない彼女の仕草に、ああ好きだなあ……などと柄にもなく照れたりもした。そして行く行くは、セックスを前提にお付き合いを……違った。結婚を前提にセックス……もとい、清く正しい男女交際を続けたいと思っている。
ただ、但馬には彼女との仲を進展させる前にしなければならないことがあった。
それは自分の出自をはっきりさせることである。
考えても見てほしい。もし、このまま彼女との仲を進展させるとするならば、いつか彼女の家族にも認めてもらわねばならない。だが、その時、自分の出自を誤魔化したままなのはどうなのか。
但馬がこの国で最初にとっ捕まった時、その出自を問われて、彼は苦し紛れに海の彼方のブリタニアから来たと言った……つまりニュージーランドから来たと言うことになっているのだが、今やそのブリタニアは発見されており、そしてそこには何も無いと判明している。ぶっちゃけ但馬自身が嘘だと証明し、みんなそれを知っていながら棚上げしてくれてるだけなのだ。
お抱え商人と言う立場なら、それでも構わないだろう。利用価値がある間は、彼らも大目に見てくれるはずだ。だが、これが孫娘の相手となると話が変わる。ましてやそれが王族である。
ブリジットと付き合うと決めて、ローデポリスに帰ってきて、いざ、皇帝にお付き合いを認めてもらおうと挨拶に伺おうとしたとき……但馬はその事実に、はたと気がついた。
最近はみんなのスルースキルが上がっていたから気づかなかったが、但馬はどう考えても怪しいのである。得体が知れないのである。どっかの馬の骨の方がまだマシである。
そんな奴が一国のお姫様……それどころか、おそらくは今や世界最強の帝国の、次期女王様の恋人になろうと言うのは、ちょっと無理があるのではないか。皇帝に言ったらやっぱダメと反対されるのではないか。
フリジアから帰還してだいぶ経っても、但馬はそのことが気になっていまいちブリジットとの仲を進展させることが出来ずにいた。そうこうしているうちにアナスタシアが帰ってきてしまい……同じ家に住む彼女とも、ギクシャクしている始末である。
いや、単に但馬だけが一方的にソワソワしてるだけかも知れないが。
ともあれ、ブリジットを悲しませることも、アナスタシアにチキン野郎と言われることも、望むところではない。なんとか現状を打開するためにも、皇帝に会って、きちんと自分のことを話さなければと思いながら……但馬は今日もズルズルと、どっちつかずの態度を取っていた。