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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第四章
132/398

リディアの聖女

 但馬はエロ本の隠し場所に悩む中高生のごとく頭を抱えた。


 あれ? おかしい……なんで自分は生き残ってんだ? 昨日、死にかけてたのは本当だ。胸に妙なシコリがあったし、リンパ腺がビキビキ痛んだ。頭も激痛ってくらい痛んだし、呼吸するのも立っているのもやっとってくらい困憊していた。マジで勘違いだったのか? ペストだと思ってただけで、本当はただの風邪だったのだろうか……考えてもみれば、風邪の症状だって言えば、そう言えなくもないし……


「これじゃ、死ぬ死ぬ詐欺じゃん!」


 但馬はこの事態が発覚したあとのことを考えてガクブルした。周りが死にかけてる中で、実は自分風邪でした~。一晩寝たら治りました~……なんてケロッとしながら出て行ったら、確実に殺される。っていうか殺したい。


 しかし、昨日のあの苦しみようが、一晩でケロリってのも解せないだろう。もし仮に、万が一、本当に風邪だったとしても、ここまで絶好調! 元気ハツラツ・オロ○ミンC! みたいにパワーが漲ってるのはおかしい。何しろ今は、普段と比べても、数倍やる気に満ち溢れてる気がするのだ。


 ペストが一晩で治っちゃったなんてことは、流石に考えにくい。但馬が亜人ならもしかしたら人間と違って、ペストの抗体がある可能性はある。だが、もし抗体があるならそもそも発症自体しないだろうし、普段の自分の脆弱さから考えても、この超回復っぷりもあり得ない……本当に、昨日のあれはなんだったのか……? 病気が治っておいて何だが、理不尽過ぎるだろう。


 理不尽と言えば、ヒール魔法自体が理不尽だ。死にそうな怪我を負ってても瞬時に回復するわ、欠損した指が生えてくるわするくせに、病気には全く役立たずという……今回の体たらくっぷりを見ていると、まるで、便利な暮らしをしすぎるといざというときに何も出来ない、とかいう説教臭い童話でも読んでいるみたいだ。


「……しかし、ヒール魔法か」


 今回の理不尽な回復っぷりからすると、ヒールに似た能力でも発動したのではなかろうか。但馬自身、自分の力を把握しきれてるわけではないし、例の自然破壊光線みたいな魔法以外にも、何らかの能力があるのではないか。


 もしかしたらゲームのようにポヨポヨ~パプンッとでも効果音が鳴って、パッシブスキルが発動したみたいな……実は自分が寝てる間に、緑のオーラがパーッと光って、勝手に治ってましたとか、そんな都合のいい出来事があったのかも知れないじゃないか。


 と……考えたところで、思い出した。


 緑のオーラと言えばそういえば、昨日、昏倒したあとに目覚めたら、ベッドの傍らでアナスタシアが祈りを唱えている時、例のオーラを纏っていた。彼女が言うには子供の頃、母親から習ったお祈りで、怪我を直したりは出来ないが、性病予防や避妊に効果があるという、ヒール魔法の出来損ないみたいな力だとか言ってたような……


「……あ」


 ゴクリ……但馬はつばを飲み込んだ。


 性病予防? 性病予防って一口に言ってしまうとあれだが、性病とは正確に言えば性感染症……生殖器の粘膜から細菌やウイルスが入り込むという、れっきとした感染症のことではないか。


 避妊と言うものも突き詰めて考えれば、生殖細胞をどうにかして不能にするという行為である。


 つまり、あの子の能力は、人の体内に入った異物……微生物や細菌などの細胞に、直接働きかける力なのでは……?


「……あわわわわわ。こうしちゃ居られん!」


 但馬は大慌てて部屋から飛び出した。

 

 

 

 一方その頃、宮殿玄関のアプローチに一台の馬車が止まっていた。その横には、リオンと手をつなぎ、大きなトランクを提げたアナスタシアが居て、今まさにエリオスに別れを告げていた。


「……そうか、行くのか」

「うん、先生と約束したから……エリオスさんは? 残るの?」

「ああ、俺は特に約束しちゃいないからな。社長が何か言おうとしたら引っ叩いてでも黙らせるぞ」

「……ひどい」


 そう非難しながらも、アナスタシアは泣きながらクスクスと笑った。目は真っ赤で腫れぼったく、もう涙も枯れ果てたと思ったのに、エリオスともこれが最後かも知れないと思ったら、またどうしようもなく泣けてきた。


 リオンが心配そうに見上げる。エリオスが普段では絶対に見せないような、本当に優しい男の顔をして、アナスタシアの頭をポンポンと叩いた。こらえ切れなくなった彼女が彼の胸に飛び込むと、エリオスは彼女を抱きしめ、薄っすらと涙を浮かべた。


 それを見たリオンは、きっと尋常じゃないことが起きたのだと悟り、自分も悲しくなってきた。彼は何も聞かされていなかった。昨晩、大人たちが大騒ぎを始めると、すぐに一人だけ部屋に隔離されて、ここから絶対に出てきてはいけないよ? と言われてから、彼は彼らしく素直に待ち続けていたのだ。


 でも結局、理由を教えてくれる人は現れず、なんで隔離されてるのか分からないまま夜が更けて、そのうちアナスタシアが帰ってきたかと思ったら、彼女は泣き腫らした顔を隠そうともしないで、ベッドに潜り込んでしまったので、彼は何も聞けなかったのだ。


 それにしても、こんな時にどうしてお父さんは居ないのか……今朝、起こしに行った時は、ガーガーうるさいくらいイビキをかいて幸せそうに眠ってたのに……


「リオン……いこう」


 ひとしきり涙を流したアナスタシアは、落ち着きを取り戻すとリオンに語りかけてきた。繋がれた手に爪が食い込むくらい、ギュッと握られていたけれど、彼は何も言えなかった。ただ、どうしても納得がいかなくて、


「……お父さんは? 置いてっちゃうの?」


 と、彼の不在に疑問を呈すと、彼女は一瞬ハッとした顔を見せてから、ひどく沈鬱な声で……


「そう……あなたはまだ何も知らないんだね。あのね、お父さんは……」

「あ、いたいた。おーい! アーニャちゃん! エリオスさん!! うっひゃー、あーぶなかったー! 危うく置いて行かれるとこだった。そしたら馬車で追いかけなきゃならなかったからな。あぶねーあぶねー」


 アナスタシアが何かを言おうとすると、宮殿の玄関から但馬がひーこら言いながら飛び出してきた。


 彼は馬車に乗り込もうとしているアナスタシアを見つけると、ゼーハーゼーハー言いながら駆けつけて、ひょいっと彼女を引っ張った。


「昨日のあれね、無し無し! やっぱリディアに帰っちゃ駄目だ。つーか帰られると困るから」


 息も絶え絶え、額の汗を拭いながら但馬がそう言うと、エリオスがお化けでも見たような顔で、あんぐりと口を開け……アナスタシアは、もう本当に、これ以上出したら脱水症状で死ぬんじゃなかろうかと言わんばかりに、また涙を流しながら、


「先生!」


 但馬の胸にタックルするかのように飛び込んだ。


 と言うかタックルだった。貧弱な但馬ではもちろん受け止められず尻もちをつくと、尾てい骨をしたたかに打ち付けた彼はぎゃあと叫んだが、もはや相手のことなど構ってられないアナスタシアは、彼の胸に顔を埋めたまま、


「先生! ……先生! ……先生!」


 他に言葉も無いらしく、ただただ号泣しては但馬の胸に鼻を擦りつけた。


 やべえ、めっちゃ泣かしてる……そうだよな、死ぬって思ってたんだもんな。それがこんなあっさり生き返っちゃ、今は感情的になってるからいいけれど、一旦冷静になったら絶対激怒するよな……あわわわわ、どうしよう。


 などと、但馬が慌てていると、ようやく我に返ったエリオスが、


「社長……大丈夫なのか!?」

「あ、ああ、エリオスさん。もう大丈夫。ご心配おかけしました」

「いや、しかし……昨日の今日で、どういうことなんだ?」

「それがその……話せば長くなるんだけど、なんか、治っちゃってね」

「……はあ?」

「いや、昨日は確かに死にそうだったよ? 死にそうだったんだけど……今朝起きたら、すっきりさっぱり治っちゃってね?」

「はあ……そうか……治ったか……治った? そりゃあ良かった……んだが」


 ……良かったと思う反面、なんだか腑に落ちないエリオスであった。彼はこれ以上ないほど元気そうな但馬の顔を見ていたら、なんだかムカムカしてきて……


「よくわからんが、取り敢えず、殴っていいか?」

「え!? ちょっ! 気持ちは分かる! 気持ちはわかるが、エリオスさんじゃ俺死んじゃうから!」

「いいから殴らせろ」

「分かった! ちゃんと訳を話す! 話すからそれまで我慢して……ぎゃあああ!」


 エリオスは有言実行の男である。彼は但馬が何かを言おうとしたから引っ叩いて黙らせた。

 

 

 

「……昨日、俺は確かに死にそうだった。他ならぬ自分のことだから間違いないよ。そりゃ、こんなに綺麗サッパリ病気の痕跡も無くなっちまったら、自分でも夢だったんじゃないかってくらいビックリしたけどさ。嘘は言ってない」


 但馬はウルフの部屋へアナスタシアを連れて行く道すがら説明した。


「それで、理由を考えてみたら、心当たりが一つだけあった」

「……つまり、それがアナスタシアのその……避妊魔法なのか?」

「そう。避妊魔法ってのは言い方が悪いから、抗生魔法とでも呼び変えたほうが良いね。うん、まさにこれが罠だったんだ。アーニャちゃんの能力が性病限定にしか使われてなかったから、俺もそれ以上突っ込んでそのメカニズムについて考えなかった。やっぱ人間、性の話になると、どこかタブー視しちゃう向きがあるからね。でも、アーニャちゃんの、お母さんから受け継いだ魔法はそういうものじゃなかったんだよ。実際、お母さんはセレスティアでお医者さんみたいなことをしてたんでしょ? 多分、風邪とか下痢とかも治してたんじゃない?」


 アナスタシアはこっくりと頷いた。


「う、うん……そう言えば。でも、私はお母さんと違って、怪我を治せないよ?」

「だから、君は自分には力がないって思い込んじゃったんだね。お母さんは、2つの魔法を使い分けてたんだよ。もしかしたら、等しく神の奇跡って考えてたかも知れないけど。彼女は片方の力で傷を癒やし、もう片方の力で病魔を防いだ。アーニャちゃんはこの内、後者だけを受け継いだんじゃないか」


 ヒール魔法と違って、分かりやすい効果ではなかった。たまたま周囲が性感染症にかかりやすい環境に居たから、限定的に力の片鱗を知ることが出来た。だが、実はそれがかなり万能の力であることに、彼女も、誰も気づくことが出来なかった。


 簡単に言ってしまえば、ホイミとキアリー、ケアルとエスナの差なのだが、


「そもそも、感染症って概念自体が無い世界だからなあ……尤も、いまんところ俺の憶測でしか無いからね。これからそれを確かめに行こう。まずはウルフからだ」


 但馬たちは階段を昇ってウルフの私室へと向かった。病み上がりだと言うのに、1階から7階まで駆け上がっても、殆ど息切れもしていない。完璧に全快している。これだけの能力を秘めていたのに、今までこの子は不当に扱われていたのだと思うと、腹の底から悔しさが湧き上がってくる。だが、今はそんなことで怒ってる場合ではない。


 7階のウルフの私室前まで来ると、昨日倒れたはずの但馬がお供を連れてやって来たのを見て、近衛兵が慌てた。すぐにジルが呼ばれて、


「准男爵様! まあ、酷い。お顔がそんなに真っ黒に腫れてしまって……もうそんなに症状が進んでしまったのですか?」

「いや、これはただの青タンです……とほほ。それより、公爵に会わせて貰えませんかね?」

「公爵様は、残念なことにまだ意識が無く……ご期待には添えかねるかと」

「いや、それで構わないんです。ちょっと試したいことがあって……」


 現状、アナスタシアの魔法は但馬にしか効いていないから、ぬか喜びさせることにならないように、理由は伏せておいた。ジルは少々訝しんだが、他ならぬ但馬の言うことなので、


「どうぞ……」


 と言って、彼らを通した。


 ベッドに横たわるウルフは、もはや昏睡状態と言っていい感じだった。苦しそうな顔もせず、ただただ力なく横たわっている。あまりにも静かすぎて、逆に今にも死にそうな雰囲気だった。もう殆ど猶予が無いのかもしれない。


「アーニャちゃん!」


 但馬が促すと、アナスタシアは一瞬躊躇ったが、ウルフの容態を見て、そんなことをしてる場合ではないと感じ取ったのか、十字を切ると……


「主よ、お救いください……ひとよ、()がつみの大いなるを嘆け……」


 祈りが始まると、彼女は緑色のオーラに包まれた。それはやがて周囲に広がり、ベッドに横たわるウルフをも包んでいく……それだけ見ていると、ヒール魔法と同じなので、


「……昨晩から、何度もやっているのですが、やはり効果はなくて」


 と、ジルが辛そうな表情で訴えかけてきた。もう、これ以上はそっとしておいて欲しいと言いたげだ。だが、但馬は首を振るうと、


「まあ、ダメ元で黙って見ててください」


 アナスタシアは手を組んで、一心に祈りの言葉を捧げた。主を賛美する言葉が力強く辺りに響き渡り、彼女の発するオーラはより一層光り輝いているように見えた。やがて、祈りの言葉終わると、徐々に彼らを取り巻くオーラも晴れていき……全てが終わるとアナスタシアは立ち上がって但馬を振り返った。


 もう一度やってみた方がいいか? そんな表情だ。


 ウルフはまだ眠ったままだった。その寝顔は先ほどと比べると穏やかそうに見えたが、彼の病魔が治ったのかどうなのかは、はっきり言って見た目だけでは分からなかった。胸のはだけた部分には黒い腫瘍が見えていて、祈りが終わってもそれは変わらなかった。


 もしかして、自分の早とちりだったのか……?


「……ジルさん、ヒール魔法かけてみてくれませんか?」


 一瞬、弱気になった但馬であったが、彼はジルにそう指示した。ウルフは長いこと病気にかかっていたから、ところどころ外傷のような変化も見せていた。ヒールは病原菌が居た時は効かなかったかもしれないが、もしかして今なら……


 彼女は訝しげな顔を隠そうともせずに、暫し黙考してからヒール魔法を唱え始めた。


「……え!?」


 効果は覿面だった。


 ジルがヒール魔法を唱え始めると、ウルフの体のあちこちに浮き出たアザや腫瘍の跡が、みるみるうちに回復していった。その劇的な変化に、彼女は一瞬、驚いて詠唱を止めてしまったが、すぐに自分のヒール魔法が効いたことがわかると、必死になって祈りの言葉を口にし続けた。


 正直、どこからどこまでがヒール魔法の詠唱なのかわからないからなんとも言えなかったが、多分、何度も何度も彼女は唱え続けていたのだろう。数分間にも及ぶ長い詠唱の末に、ウルフを蝕んでいた病気の痕跡が完全に失われると、彼女は腰を抜かしたかのように、どっと床に倒れ込んだ。


「こ……これで、助かったのでしょうか?」

「多分。見たところ、もうおかしな所はありませんし……ははっ、のんきに寝息を立ててやがる。暫くしたら目を覚ますんじゃないですかね」


 但馬のその言葉通り、ウルフはそれから30分もしないうちに何事もなかったかのように目を覚ました。目を覚ました彼は、昏睡状態が続いたせいで、自分がどうして眠っていたのかも覚えていなかったのか、起きるなり泣きはらした妻が但馬に抱きついている姿を見て、


「何やってんだ貴様はぁあああっっ!」


 いつもの調子で但馬に顔面パンチしてきた。痛い……


「……そうか。俺は、助かったのか」


 顔面パンチをお見舞いしたウルフは、とどめを刺そうと立ち上がったところをエリオスとアナスタシアに止められ、更に号泣するジルに抱きつかれたところで、ようやく自分が病気で寝ていたことを思い出したようだった。


「そうだよ! 助かったんだよ! くそがっ……こんなんなら、助けなきゃ良かった」

「おまえに助けられたわけじゃないだろう。他人の手柄を横取りするな。馬鹿め」

「准男爵様、申し訳ございません……」


 ウルフが悪態をつき、小さくなりながらジルが謝る。


 ウルフは、自分が昏睡したあと何が起きたのかと尋ね、まず但馬がやられたと聞いて頭を抱え、ブリジットをリディアに逃がしたと聞いてホッと安堵の息を吐き、アナスタシアの魔法によって助けられたと知ると、


「うーむ……おまえが俺を助けたのか。妹の友達だそうだな?」


 アナスタシアはそう問われると、なんと答えたらいいのか分からず、困った顔をしていたが、ジルが優しい顔をして頷いているのを見ると、やがて決心したかのように、


「はい」


 と答えた。


「そうか……おまえといい、但馬といい、あれが連れてくるのはいつも珍妙な輩ばかりだと思っていたが……どうやら人を見る目がないのは俺の方だったらしいな」


 彼はそう言うと、彼にしては本当に珍しい穏やかな表情を見せた。そして、


「これが王の器と言うやつなのだろう。アナスタシアだったな」

「は、はい」

「何か褒美を取らせよう……そうだな。おまえは但馬に借金があるそうだが、それをチャラにしてやろう。その後はジルの侍女として仕えるが良かろう」

「まあ、それはいいアイディアでございますわ」

「おい、こら、あんたら、人の前で人の大事な家族を引き抜こうとするんじゃない」

「冗談だ……ハッハッハッハッハッハ!」


 これには但馬も苦笑いし、部屋の中は笑いに包まれた。近衛兵や侍女たちが、ここ数日間の苦しみから解放されたことを喜び嬉し泣きしている……


「アハハハ……って、和んでる場合じゃないっ!」


 但馬は思わずノリツッコミをする。


「こうしてる間にも、感染者は増えてるはずだ。まずは宮殿内の患者から助けていかなきゃ」

「そうだったな……ジル」

「はい、お供いたします」


 ヒーラーのジルを加えて、但馬達一行は大慌てで階下へ急いだ。




「いやだ~! 死にたくなーい! 死にたくなーい! こんな若い身空で死にたくなーい!」


 宮殿内の感染者を隔離した部屋ではマルグリットが悪態をついていた。隔離と言っても、感染者数がかなりの数に上ってしまったので、普通の部屋には入りきらず、晩餐会を行った宴会場に急遽ベッドを運びこんで、カーテンで仕切るという応急措置である。


「こんな大部屋なんて、メグをバカにしてるの? 個室用意しなさいよー! 環境が悪すぎて死んだらどうするの! 公爵は非人道的だわ! 責任者でてこーい!」


 そんな環境だから不満が出るのは仕方ないが、それにしてもマルグリットのそれは度を超えていた。たまたま隣り合うベッドに入れられてしまったランはイライラが募り、ついに堪忍袋の緒が切れた。


「うるさいんだよっ! あんたは、さっきから、うだうだうだうだと! そんなに元気なうちはまだまだ死なないよ! 黙ってろっ!!」

「ムキーッ! 愚痴くらい言ったっていいじゃない! あたしはあんたたちとは違うのよ、元々来る必要なんかかけらも無かったのに、フリジア子爵に頼まれたからいやいや来てやったら、こんな目に遭うなんて……えーんえーん!」

「ああ、もう! 少しは慎めよっ! あんたとは違って、重篤な患者も居るんだよ!? 苦しくって声も上げられない人達の前で、よくも平気でそんなこと言えたもんだね」

「うっさいわね! あんたもあたしも、もうすぐそうなるんだから遠慮なんか必要ないでしょ。我慢して改善するならいくらでも我慢してやるわよ!」

「ああ言えばこう言う……ああ、もう、面倒くさい。そうだったな、どうせいつかはみんな死ぬんだ……じゃあ、いつ死んでも構わないよな、例えば今とか」

「きゃああああ! 助けて殺される!」


 堪忍袋の緒が切れたのはランだけでは無かった。


「うっせえんだよ! このあま!」「黙って聞いてたらいい気になりやがって!」「ヒュライア、てめえ、国に帰ったら覚えておけよ」「国に……帰りたいよ~! あ~ん!」


 あっちこっちから怒号が起きる。


 とても病室とは思えないような有様に、危険を犯してまで看護を続けていた近衛兵たちも途方に暮れていた。


 そんな時……


「おーい、みんな~! 助けに来たぞ~!」


 但馬たちが病室内に入ってきた。みんな耳を疑った。


「本当だってば。ついさっきまで死にかけだったカンディア公爵が回復したんだ」

「一体どうやって?」


 問われた但馬が、アナスタシアの魔法が回復方法として有効だったと説明すると、その場に居たみんなが沈黙した。あれ? どうしたんだろうと思ったら、


「……我々は、彼女に酷いことをしたと思うのだが、それでも助けてもらえるのだろうか」


 と言われた。


 そういえば、そんなこともあった。あの時は、ブリジットが激怒したことで会場の空気が一変し、なし崩し的にマルグリットが悪いということで落ち着いたのであるが……なんやかんや、みんな彼女が娼婦だったということに嫌悪感を抱いていたり、わだかまりがあったようだ。


 しかし、そんなこと今更言っても仕方ないことであろう。気に喰わないからと言って、病原菌を野放しにするわけにはいかないのだから。


「……アーニャちゃん、大丈夫だよね?」

「うん」


 アナスタシアが顔色一つ変えずに答えると、その場に居たみんなから安堵の息が漏れた。


 重篤な者を治療したあと、軽症者を一度に治そうと一箇所に固まってもらったのだが、しかし……そんな中、一人の少女がその場を離れようとした。


「ベッキー……」


 アナスタシアはその後姿に気がつくと声をかけた。呼び止められた彼女はバツが悪そうに振り返ると、


「……私は、あなたに助けてもらう資格が無いわ」

「そんなことないよ……」

「ううん、あるわ。私はあなたに酷いことをした。それに……もう、疲れたの。もう、あんなお嬢様に付いて行きたくないの。苦しいと言ったら、この世の中に生まれたこと自体が苦しかった。だから……もう……死なせて」


 パシッと乾いた音が響いた。アナスタシアの平手が飛んだ。レベッカは叩かれた頬を手のひらで覆うと、ホロリと涙を一筋流し、崩折れるように床に膝をついた。


「死にたいなんて言っちゃ駄目。それは神への冒涜だよ」

「でも……神様は助けてくれなかったじゃない! 私達が……どんなに苦しんでも、助けてくれることはなかったじゃない!」

「ううん……助けてくれた。いつも助けてくれてたよ」


 アナスタシアは頭を振った。そして、その場にいるみんなを見回すと、真っ直ぐな瞳で言い放った。


「私は娼婦でした。それを隠すつもりはありません。なりたくてなったわけじゃないとか、自分の意志でなったわけじゃないとか、今更そんなことを言うつもりもありません。ですが、私はもう、やめたのです。悔い改めて、真っ当な道を歩いてるのです。そうすれば、神がお許しになられると信じたのです」


 彼女のその高貴な振る舞いは、その場に居た聴衆の心を奪った。彼女はどうしようもなく美しくて、そして清らかだった。


 だがそれは偽りだ。但馬は彼女に信仰心が無いことを知っている。他ならぬ、但馬自身が教えたのだ。姦通の女の逸話は都合のいい創作であることを。


 アナスタシアは大仰に十字を切ると、聖母のように穏やかな表情で手を組んだ。


「ベッキー……私もあなたと同じように、何度も死にたいって思ったの。でも、あなたが教えてくれたんだよ。姦通の罪を負った女も、悔い改めれば、主はお許しになられるということを。だから私はこうして生きることが出来たのよ」


 だから、それはただの演技だった。アナスタシアは、ただ信心深い友達を助けるためだけに、こうして自らを演じてみせたのだ。


「それにね、私はあなたを助けるつもりは毛頭ない。だって、私はただ、神様に祈りを捧げることしか出来ないもの。私は祈るだけ……神様がみんなのことを助けてくれるんだよ」


 どうしてレベッカが頑なにアナスタシアの助けを拒んだのかは、但馬には分からなかった。ただ、アナスタシアがレベッカを助けるために、彼女が納得する言葉を選んで語りかけてることは分かった。きっと、その場に居る、誰もがそれをわかっていただろう。


「だからね。もし、あなたが助かったのなら、それは神様のお陰なのだから、神様のために生きて」


 するとレベッカは泣き崩れ、


「ごめんね……ごめん……ナースチャ」


 アナスタシアの足に縋り付いた。彼女は驚いて友達を引き剥がそうとしたが、しっかとしがみついた友達は離れてくれず、仕方なし、アナスタシアは苦笑すると、そのままの体勢で詠唱を始めた。


 彼女の済んだ祈りが大部屋の中で厳かに響く。


 緑色のオーラが彼女から立ち込めて、周囲の人々を包み込んでいく。


 それは、この世界の人ならば見慣れたヒール魔法と同じ現象に過ぎなかった。だが、その時、その場にいた人たちには、それがもっと別の何か尊いもののように感じられて仕方なかったのだろう。


 アナスタシアを取り囲む人たちが一人、また一人と跪いては十字を切り、彼女と同じように熱心に主への祈りを捧げた。


 それは本当に美しい光景だった。アナスタシアの厳かな詠唱も。人々の敬虔な祈りも、全てが美しかった。


 但馬はその光景に感嘆の息を漏らすと、自分も信者ではないのに、手を組んで祈りを捧げた。


 気がつけば、部屋の中の全ての人々が同じことをしていた。そこには尊い何かがあり、自分たちが神に守られているのだという、確かな安心感があった。それを驚いたことに、その場にいる全ての人間が共有していたのだ。


 ……たった一人を除いては。


「あああ~ん! ごめんなさい! ごめんなさい! 全部私が悪かったんです~! 私がお美しいあなた様に嫉妬したばかりに、要らぬ中傷の種を蒔いてしまったのです。本当はあなた様に比べて劣っている自分が悔しかったのですぅ~! ごめんなさい~! こんな私をどうかお許しください、アナスタシア様……いいえ! 聖女アナスタシア様ぁあああ!」

「わっ! わっ!!」


 アナスタシアが詠唱を終えると、その余韻に浸る間もなく、間髪入れずにどこからともなく現れたマルグリットが、彼女の使用人を押しのけてアナスタシアに縋り付いた。


 彼女は思った。乗るしかない、このビッグウェーブに……


 彼女は号泣して鼻水を垂らし、人目を憚らずに泣き縋った。


「おぉぉおお~いおいおいおい……聖女様、どうかこの醜い女をお許し下さい」

「え? え? いいよ、そんな、やめて」

「うぐっ! うぐっ! ひっくっ! ホントですか! 聖女様の海よりも広いお心で、この私の罪をお許しになってくださると言うのですか?!」

「え? う、うん、いいよ。そんなの……気にしてないよ」

「んまあ! お優しい、流石聖女アナスタシア様! サスアナ!」


 取り縋り、泣き崩れるマルグリットを見て、その場に居た全ての人々がドン引いた……ああ、こいつ、またなんかやってやがる。どうせ裏があるんだろう? 懲りねえやつだな……


 しかし、当の本人はそれすら承知でほくそ笑んでいるのだった。


(くぅ~っくっくっく。みんな、私がみっともなく泣き縋った姿を見て呆れてる。その御蔭で、今までのわだかまりが消えたようね。あんなに敵視していたコルフの女もヤレヤレって顔してる。うふっ、チョロいわっ! こんなの、ただの演技なのに……それにしてもこの女、思った以上に使えるわね。本当はあたしより……じゃない、あたしと同程度の可愛い子とはお付き合いしないようにしてたけど、いいわ、暫くはこの子を利用してやろうかしら。くぅ~っくっくっく)




 阿呆のマルグリットのことはともかく、その後のことを手短に語ろう。


 公爵の宮殿の客を助けたアナスタシアは、貴族である彼らに多大な感謝を受け、強く引き止められたがそれを固辞し、但馬たちと共に軍港へと向かった。そこに患者がまだまだ沢山いたからだ。


 軍港の患者は病の発生源の近くに居た者達だったため、宮殿の客よりもずっと深刻だった。アナスタシアが駆けつけた時には、既に事切れていた者も沢山居て、助けられなかった命を前にして、彼女はそれから先、一切の迷いを捨てた。


 軍港の患者を救うと、一旦、今後の対策を練るために宮殿に帰ろうと言う但馬に対し、彼女は躊躇なくフリジアへ渡ると主張した。


 カンディアのペストはまだ完全に撲滅したわけではなく、潜伏期間で発症してないだけの者が居るかもしれない。その時、アナスタシアがいないとまた危険なことになると言う但馬に対し、彼女はそれでも疫病の発生源がフリジアであり、今現在最も助けが必要なのはフリジアなのだから、ここで悠長に構えているのは得策ではないと、頑として譲らなかった。


 確かに彼女の言う通りであるし、呼ばれればすぐにでもカンディアへ帰還すると約束する彼女に対して、但馬はそれ以上強くいうことが出来ず、フリジア行きを許可した。


 ただし、但馬は不測の事態に備えてカンディアに残り、ついでにリディアへ使いを出して工房の人材と設備を届けさせることにし、別行動の彼女にはエリオスを護衛としてつけることにした。


 その頃、抜き差しならない状況にナーバスになっていたフリジアでは、疫病はアナトリア軍がばら撒いたものだとの噂が、まことしやかに囁かれていた。そのため、街の中と外とで緊張が高まり、一触即発の事態になりかけていたが……結果的にはアナスタシアが到着したことで、それが一気に解決した。


 それには色々と幸運も絡んでいた。


 そんな状況下で、いきなり無名のアナスタシアがやって来て、街の人達に魔法をかけさせてくれと言っても、普通なら怪しまれるところだろう。ところが、たまたま、国元へ帰るために(そして自分の株を上げるためにアナスタシアを利用しようとして)同じ船に乗り込んでいたマルグリットが、フリジア子爵の代理を名乗って、街の有力者たちと掛けあってくれたお陰で事なきを得た。


 そしてマルグリットが聖女だ女神だと吹聴する中、アナスタシアが重篤患者の命を救うことに成功すると、フリジアの人たちは藁にもすがる思いだったから、令嬢のヨイショそのままに、アナスタシアのことをリディアの聖女と呼んで歓待した。


 感謝されることに慣れてないアナスタシアが、いちいちそれに照れて否定するたび、返ってそれが彼女の株を上げた。もちろん、その心の動きをマルグリットが見逃すはずもなく、それを利用して更に株価を釣り上げていくと、いよいよアナスタシアは神格化されて、街の救世主として祭り上げられていくのだった。


 こうして、フリジアの街は救われ、評判を聞いて外から運び込まれた患者も嫌な顔ひとつせず救い続けていく内に、リディアの聖女の名声はどんどんと高まり、エトルリア南部、アスタクス地方に燦然と輝くこととなった。


 そうと知らない但馬がアナスタシアから遅れること1週間後、先に向かった彼女のことを心配しつつ、帝国旗艦ヴィクトリアの甲板でやきもきしながら、やっとこさフリジアの港に到着すると……


 そこには驚くほどの人々が溢れかえり、口々にアナトリア万歳と合唱し、ヴィクトリアの入港を歓迎しているのであった。


 一体これは何事か? と、目をひん剥きながらよくよく見てみれば、その中心には困った顔のアナスタシアと、うんざりした顔のエリオスと、計画通り……みたいな悪い顔をしたマルグリットが立っている。


 そして唖然としながら但馬が港の桟橋に足を下ろすと、一人の男が飛んできて、


「アナトリア帝国旗艦ヴィクトリアの入港を歓迎します。カンディア公爵はいらっしゃるか? 貴君は?」

「いや、俺は公爵の代理で……但馬と言います。一体、これは何の騒ぎですか?」

「これは失礼した、貴君が名高き准男爵か。我はフリジア子爵ユースフ」


 但馬は失礼ながらブーッと吹き出した。なんでこの人がここにいるの?


「我が国はエトルリア皇国のみにお仕えせし国家として、リディアの聖女の名の下に、アナトリア軍の寄港を歓迎いたします。アナトリア帝国、万歳!」


 すると、それを合図にしてまた港に集まった群衆がアナトリア万歳を唱え始めた。その大音響は轟音となって、鼓膜が破れそうな程だった。


 一体全体、何故ここまで熱狂的な歓迎を受けているのだろうか?


 理解に苦しみながらふと目をやれば、ひまわりのように朗らかに笑う人々に囲まれ、そんな中で一人だけ苦笑いのアナスタシアと目が合った。


 ああ、そうなのか……但馬は理解した。


 あの時、自分が止めるのを聞かずに躊躇なく海を渡った彼女は、ひとりでこの街を救ったのだ。この笑顔を守ったのだ。人々はそれに心を打たれて……そして彼女は、戦争まで終わらせてしまったのだ。


 たった一週間離れただけで、いつの間にかリディアの聖女と呼ばれるようになってしまった彼女を前に、但馬も苦笑するやら、途方も無く嬉しいやら、如何ともし難い感情の昂ぶりにどうしようもなくなった。


 その気持をどう表していいのか分からなくて、ただ叫び出したい衝動に駆られた但馬は、周囲の熱狂にあやかって、自分もアナトリア万歳! と声高に叫んでみた。


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