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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第四章
130/398

ヤバイって

 ブリジットは激怒した。アナスタシアの行動が意味不明なこともさることながら、その理由を問いただしても煮え切らない態度に苛立ち、幾度と無く彼女を痛罵した。しかし、彼女は頑なに口を閉ざし、理由を語ろうとしない。


「どうして何も答えないんですか? あんなに嬉しそうにしてたじゃありませんか。そのあなたがこんなに豹変するなんて、絶対におかしいですよ」


 貝のように口を閉ざす彼女に苛立ち、何度も喧嘩になりかけた。それでも辛抱強く問いかけ続けたのは、二人の間に他人には計り知れぬ友情があったからだ。


「……私じゃ駄目だから」


 しかし、そう思っていたのはブリジットだけだったのかも知れない。もう誰もが諦めて、彼女のことをそっとしておこうと言っている中、必死の粘りで訴え続けたブリジットに返ってきた言葉は、彼女を呆れさせるというよりも、悲しませるものだった。


「私なんかより、姫様の方がいい」

「……え?」

「先生には、もっと相応しい人がいるのに……私なんかが出しゃばるのは良くない」


 蚊が鳴くような心細い声だった。だが、真摯にアナスタシアの言葉を聞き取ろうとしていたブリジットには、その卑屈な言葉がちゃんと届き、そして彼女の胸を痛めつけた。


「……誰かにそう言われたんですね?」


 そうじゃなければ、彼女がこんなことを言うわけがない。ブリジットは確信した。何しろ、彼女は自分の唯一と言っていい友だちなのだ。しかし……


「違う……そんなんじゃない」

「でも、あなたがいきなりそんなこと言い出すなんておかしいじゃないですか」

「いきなりじゃないの……前から考えてた……」

「いいえ、騙されませんよ。あなたがそんな人じゃないことは、私が一番よく知ってますからね。何があったのか、そろそろ話してくださいよ」

「違う! そんなわけないじゃない!」


 アナスタシアはブリジットの言葉に激怒した。


「姫様が、私のことなんか分かるわけないじゃない。生まれた時から姫様で、みんなに大事に育てられて……あなたに分かるわけがないじゃない!」


 ブリジットは何も言い返せなかった。


「水車小屋に来るときは、いつも嫌そうな顔をしていたでしょう? 私の事、初めは汚らわしい娼婦だって思ってたでしょう? 私が先生に相応しくないなんてことは、姫様が一番良く知ってるじゃない!」


 それは……否定できなかった。ブリジットは、始めの頃は確かにそう思っていたフシがある。彼女はそう言う職業の人が居ることは話でしか聞いたことがなかった。そう言う人は、怠惰で不信心であるから、そう言う職についたのだろうと軽蔑していた。


 だが、但馬と付きあい、アナスタシアと知り合って、彼女と行動を共にする内にそれが間違いだと気がついた。彼女の生い立ちを知ってショックを受けた。そんな職業、なりたくてなっている人など本当は居ないのだ。


 だが、改心したところで、かつてそうやって見下したり軽蔑したりしていたのは事実で、そう言う気持ちが行動に全く現れなかったとは、自分自身言い切れないとブリジットは思った。


 そしてそれが、アナスタシアを傷つけたと言うことは本当だと思った。だが、それでも許せないものはある。


「私なんかよりも、先生には姫様の方が相応しい」

「……」

「絶対、絶対、そっちの方がいいっ」

「……アナスタシアさん」

「ひ、姫様は……先生のことが好きなんでしょう? だったら、丁度良いじゃない。良かったって思って、もう私のことなんて放っておいてっ」


 パンッ! っと、アナスタシアの頬に平手が飛んだ。


 殆ど無意識に出た行動だった。そんなことを言う、アナスタシアの顔が、今にも泣き出してしまいそうに、くしゃくしゃになっていたのも気づいていた。でも、我慢できなかった。


「なにするのよっ!」

「それはこっちのセリフですよ!」


 殴られたことでスイッチが入ったのか、激高したアナスタシアが掴みかかってくる。ブリジットも、もう自分の感情のコントロールが出来なくて、それに応じて、二人は揉みくちゃになりながら床を転げまわった。


 二人のやりとりを遠巻きに見ていた近衛兵たちが、泡を食って駆け寄ってきた。普段なら、簡単には捕まらない二人も、完全に冷静さを欠いていたのだろう、あっという間に羽交い締めにされて引き剥がされた。


 騒ぎを聞きつけて飛んできたエリオスとジルが二人を別々の部屋まで連れて行き、興奮する彼女たちを必死に宥めた。


 ブリジットは悔しくて、悲しくて、もうなんとも言えない気分を味わわされて、彼女にしては珍しくかなり興奮していたが……やがてそれが冷めてくると、憂鬱な気分に侵されて、ヘナヘナと壁にもたれかかって項垂れた。


 ジルが温かい飲み物を持ってきて彼女に手渡す。


 ブリジットはそれを受け取り、一口飲んでから、自分を落ち着けるために愚痴るように義姉に漏らした。


「正直、見損ないました……でも、いくらなんでもここまでの豹変はおかしいですよ。きっと何かあったに違いありません」

「……そうね。そうかも知れないけど、もう暫くは放っておいた方が良いんじゃないかしら?」

「そうでしょうか。風邪はひきはじめが肝心って言うじゃありませんか」


 納得がいかなくて焦ってる部分はある。だが、今のままの状態で放置しておいても、改善する未来は思い描けなかった。このままにしておいたら、二人の間に修復不可能な溝が出来てしまうような気がしたのだ。


(姫様は先生のことが好きなんでしょう? だったら丁度良いでしょう?)


 その気持がないと言ったら嘘になる。本音を言えば、彼女さえ居なければと何度思ったか分からない……だが、そんな気持ちを受け入れてしまうのは、かつて騎士を目指した者として……一国の姫として……ましてや人として絶対に受け入れられなかった。


 いいや、絶対に受け入れてたまるものか。


 ブリジットは思った。あの様子からして、アナスタシアに何かあったのは明白だ……それが何なのか、はっきり突き止めて、彼女のあの子供っぽい行為を正してやらねば……


 それには但馬だ。但馬は今ショックで呆然としているが、結局、彼女を救えるのは彼だけなのだから、そろそろ叱咤して、なんとかしろと言いに行ってもいい頃合いかも知れない。


 それは自分の恋に完全に止めを刺す行為に違いない。それでも、やるしかないと彼女は決意した。


 しかし、その決意は無駄に終わった。但馬やアナスタシアに何かがあったわけではない。もっと別ののっぴきならない状況が訪れてしまったからだった。


「お取り込み中のところ失礼致します。御前様(ごぜんさま)、早急に御寝所までお戻りください!」


 二人が紅茶を飲みながら、会話をしていると、近衛兵が駆け込んできた。


「なんですか? 騒々しい」

「何分、緊急にて、どうかご容赦を! たった今、公爵様がお倒れになられました!」


 その彼の知らせに、二人は表情が凍りついた。




 但馬が訪れた軍港内の病室には、明らかに黒死病(ペスト)であろうと思われる患者が、ゴロゴロと転がっていた。彼はその光景を目の当たりにすると、頭を抱えてうずくまった。


「最悪だ……まさか、そんな……」


 サンダース軍医がその様子を見て、一体どうしたのか? と問うてきた。だが、但馬はとても返事をするような気分にはなれなかった。


 ペストは歴史上、最も致死率が高かったとされる感染症である。


 古くは紀元前、ギリシャ時代のアテナイにおける流行が最古とされたが、現在ではそれは別物とされ、現代医学で言うところのペストと同じ症状とされる最初の流行は、紀元6世紀の東ローマ帝国でのことだった。


 流行の最盛期には日に5千から1万人もの人が亡くなったとされ、労働力不足により経済はガタガタ、これといった治療法も、感染拡大を止めるすべもなく、流行は60年もの長きに渡って続いたという。ちょっと考えただけでも分かる。それは地獄の日々だったろう。


 ペストの大流行は、人類の歴史上、幾度と無く繰り返され、その度に悲劇を産んできた。


 記録的にも最も有名なペストの大流行は、それから約800年後、かつての恐ろしい記憶も忘れ去られた14世紀のヨーロッパでの出来事だった。


 シルクロードを通り、東アジアからもたらされたとされるペストは感染力が強く、感染すると2日から7日ですぐに発熱し、皮膚に黒い斑点や腫瘍が出来、やがて死に至ることから『黒死病』と呼ばれ恐れられた。


 元々、この時のペストの発生源はヨーロッパではなく、遥か彼方の中国は雲南地方で大流行していたそうなのだが、普通ならそこで食い止められたはずが、当時、モンゴル帝国の隆盛により、東西交易が盛んになっており、人の動きとともにペスト菌も交易路に沿って移動してしまい、世界規模での大流行になってしまった。


 そのため、ヨーロッパに伝播したのも最初は交易の中心地である大都市であり、シチリア島のメッシーナに上陸したペスト菌は、まずジェノバ、ヴェネチアなどの港湾都市に伝染し、そこからマルセイユ、パリ、ロンドンと、大都市を経由して、最終的にヨーロッパ全土に広まった。


 言うまでもなく当時の医療レベルではペスト菌を御する術はなく、微生物の存在も知られていなければ、公衆衛生という概念もない。街は文字通りウンコだらけで、そこら中に病原菌がウヨウヨしている。そんな世界では感染源の特定だって不可能であり、無防備状態の人々は、自分の街がペストに侵されたら、あとは死を待つより他なかった。


 その結果、当時4億人程度とされる世界人口のおよそ2割にあたる8千万人以上が犠牲になったとされ、特に甚大な被害を出したヨーロッパ諸国では、一説では60%もの人口が失われたと言われている。これは普通に考えたら、家族の中の誰かが必ず死んでいるような数字なので、その深刻さが窺えるだろう。


 今日ではこの感染源は、交易品の毛皮についていたノミであることが知られており、それをドブに生息していたクマネズミが媒介して各地に広まったのは有名な話である。


 皮肉にもこのとき、感染の被害を殆ど受けなかったのはユダヤ人で、これは元々彼らがゲットーで隔離されて暮らしていたことに拠るものだった。


 しかし、当時の人々は差別意識からも、ユダヤ人だけが助かったのを訝しみ、彼らがペストを蔓延させてる諸悪の根源であると迫害した。ちょっと調べれば、実は孤児院や修道院、アラブ人が集まる場所なども感染が防がれていたそうで、間違っていることは分かったはずだが、被害が酷すぎて冷静さを失っていたのもあるだろう。


 さて、そんなペストであるが、抗生物質であるペニシリンが殆ど効かない。一概に抗生物質と言っても、得意不得意があるようで、病原菌や症状によって種類を変えねばならず、結核やペストに対しペニシリンは殆ど効果がないそうだ。


 現在ではペストに対してはストレプトマイシン(ストマイ)が特効と知られているが、このストマイは土中の放線菌が由来で、その選別、培養、研究をしようにも、20世紀の設備があってようやくなので、作ろうとしても現状ではほぼお手上げ状態であった。


 大体、門外漢の但馬が1からやったところでほぼ不可能、仮に出来たとしても何年かかるか見当もつかなかい。ところが、ペストは今目の前で起こっていることであり、この発症に至るまでの時間は、感染から2日から1週間とされる。


 そんな状況で、1から特効薬を作ろうなどと悠長なことを言ってても、何も始まらないだろう。


 但馬は軍医に言った。


「……とにかく、まずは人の移動を禁止して……それから、感染者の出た街の掃除を徹底すること……あとは……患者を一箇所に集めて隔離して、医療関係者以外、猫の子一匹近づけないように……他に何をすればいいだろうか……」

「おお! 准男爵はやはりこの病気について、何かご存知なのですね?」


 対して軍医は但馬が何かに気づいたことでホッとしているようだった。恐らく彼は、但馬がまた魔法のような特効薬でも作ってきて、人々を救ってくれると思っているのであろう。しかし……


「いや……知ってることと言えば、この病気の治療法が無いってことだけです」

「……え?」

「現状では打つ手がないってことですよ。すでに感染してしまった患者は、もう手の施しようがありません。運が良ければ助かるかも知れませんが……完治まで最低でも数ヶ月はかかりますし、後遺症もあるでしょう。致死率は非常に高いはずです。せめて感染の拡大を防ぐために、手は尽くしますが……」


 軍医は信じられないと言った感じに目を見開いた。


「そんな……准男爵をもってしても治せないほどの病気なんですか?」

「俺は神様じゃないんですよ。それどころか医者ですらない。わからないことだらけですよ」


 但馬が苛立ちながらそう言うと、軍医はゴクリとつばを飲み込んでから、すぐに自分の立場を思い出し、


「……失言でした。私の方こそ長いこと医者をやっていると言うのに情けない……」

「反省はおいおいしておきましょう。とにかく、今は感染の拡大を防がなきゃなりませんよ。まずはカンディアへの伝染を防がなきゃ……患者はここにいる全員だけですか? 今までに起こったことを出来るだけ詳しく教えてください」


 軍医は頷くと、これまでに起きた出来事を話した。


 それによると、フリジアの街は既にのっぴきならない状況らしい。初めは街の人の中に症状を訴える者が出て、その診察をしていると、街の外に駐屯する軍にも飛び火し、あれよあれよという間に死者まで出てしまい、パニック的になってきた。


 予防の意味も込めてペニシリンを投与していたのだが、効き目がなく、やがて在庫も尽きかけてきてしまい、途方に暮れてる時にカンディアに但馬がいることを思い出して相談に来たようだ。


 感染源として怪しいのは戦場跡で、死体を収容しきれなかったアスタクス方伯軍が諦めてそれを放置したため、その頃にはもう死体は腐敗が進んで、町の方まで酷い臭いを漂わせていたらしい。


 ハゲタカが集ってきており、精神的にも良くないので、仕方なくアナトリア軍で埋めたそうだが、ネズミやらゴキブリやら、お決まりの生物がウロチョロしているのを見かけたそうだ。


「おそらくはそれですね。ペスト菌はげっ歯類が媒介するそうですから、都市部だとネズミが一番あやしいです。そのネズミが死体が片付けられて、餌がなくなったから街へと移動した……まずはこれを全部駆除したほうがいい」

「ネズミなんて、どれだけいるか想像も付きませんよ?」

「それでもやるしかないですよ。あとはノミ。感染者が出た家は燻煙し、家の中の物は一度全部天日干ししてください……特にノミが好みそうな、毛皮やら、布団やら、洋服やら……」


 あとは人の出入りを禁止して感染が他の街に拡大するのを防がねばならない。カンディアにはもう患者を運んできてしまったから仕方ないが、軍港までに留めておくべきだ。


「その他に出来るだけ患者を隔離して、軍隊も引き上げた方がいいかも知れません。これは公爵とも相談しなければ決められませんが。これ以上、被害を増やさないためにも、俺達で説得するしか無いですね」

「……そうですね。既に私の方では手の施しようも無かったのです、准男爵がおられなければ、とっくに逃げ出していたところですよ」


 軍医がそう弱気につぶやくと、バタバタと廊下から足音が聞こえてきた。病院内を走るとは何事かと言いたいところであったが、その足音の主、カンディアの近衛兵が病室に血相を変えて飛び込んできたのを見ると、何も言えなくなった。嫌な予感しかしない。


「サンダース先生! ……ここに居られましたか。准男爵も!」

「どうかされたのですか?」

「すみませんが、大至急、宮殿までお戻りください。話は道すがらお伝えしますが……公爵様がつい先程、お倒れになられまして、ヒールを施しておりますが効果がございません。とにかくお医者様に至急来ていただきたく」


 但馬たちは顔を見合わせると、泡を食って病室から飛び出した。このタイミングでこの知らせ……もはや言われずとも分かった。

 

 

 

 カンディアの宮殿は上へ下への大騒ぎだった。


 但馬たちが宮殿に到着した頃、ウルフは最上階の寝室に横たえられていた。病状は思わしくなく、昏睡状態といった感じで意識がない。ジルとブリジットの二人が必死になってヒール魔法を唱え続けていたが、苦痛に歪む彼の表情に変化はなく、それが無意味な行為であることは誰の目にも明らかだった。だが彼女らも、周りのみんなも、その行為を止めることが出来ずに居た。


 サンダースはウルフの診察をすると、間もなく鼠頸部(そけいぶ)に黒いしこりを発見した。症状がフリジアの患者たちと同じだから、すぐに分かった。これがあと数日もしたら、グロテスクに肥大化して、患者の体力を根こそぎ奪っていき、抗しきれなかった者は敗血症にかかって死ぬ。すでに予断は許されない状況だった。


「先生! 兄さんが……先生の力でなんとかならないのですか!?」


 駆けつけた但馬は軍医の時と同じように、ウルフの家族たちに期待に満ちた眼差しで見つめられたが、そんなこと言われても、黙って首を振るほかない。


 彼女らは期待が大きかっただけに、それが裏切られると狼狽が激しく、ジルはショックで硬直し、ブリジットはくずおれて泣き出した。


 見ていられなかった。なんとか出来るならなんとかしてやりたい。だが、但馬にも何も出来ないのだ。それよりも気になったのは、


「……サンダース先生。公爵が感染していたとなると……」

「はい。すでに手遅れかもしれません。宮殿内の人たちの問診を行ったほうがよろしいかと……」


 ウルフが感染していると言うことは、フリジアを通ってきた晩餐会の出席者も、みんな怪しいと言うことだ。


 宮殿内に残っていた晩餐会の出席者を含め、近衛兵や使用人に至る全ての者を調べた結果、但馬たちの予想した通り、事態は最悪の状況を示していた。宮殿内に居たものの中に、まだ軽いとはいえ、それらしき症状を見せた者がいたのだ。


 特に晩餐会の出席者は被害が甚大で、ウルフのように完全に体調を崩している者が一名いた他、まだ宮殿に残っていた出席者のおよそ6割の人物に感染の疑いがあった。


 その中には、マルグリット・ヒュライア、レベッカの主従と、そしてランが含まれていた。そのランに事情を説明すると、彼女は暫し放心したあと、


「タチアナは無事なら、すぐにコルフへ帰してくれないか」


 と言って、いつも通りの暗殺者顔で、同行者のことを気遣っていた。


 こうなるともう、国に帰ってしまった出席者の中に感染者が居なかったとは言い切れず、貴族である彼らにもし何かあれば、周囲の者達は色々手を尽くそうとするだろうし、感染の拡大は防げそうもなかった。


 とにかく、宮殿内でのこれ以上の感染拡大は防がねばなるまいと、但馬たちは感染疑いのある者たちを一箇所に隔離することにした。マルグリットは案の定大騒ぎをはじめ、事情を説明したら更にヒートアップして手がつけられなかった。


 他にもヘラクリオンの町や、島内の他の集落に感染していないか調べるために早馬を飛ばしたり、落ち着きを取り戻したジルが気丈にも対策本部を作り陣頭指揮を取っていると、やがて日が暮れてあたりが暗くなってきた頃、昏倒していたウルフが目を覚ました。


「……そうか。俺は死ぬのか」


 目を覚ましたとは言え、症状が良くなったわけではないウルフは、荒い息をつきながら、自分に何が起きたのかを問うた。軍医はそれを隠すことは出来ないと判断すると、ウルフがカンディアへ戻ってから、これまでにフリジアで起きたことを話し、そしてこれから彼に起こるであろう未来の話をした。


 ウルフは意外にもまったく動じること無くそれを聞き終えると、一言そう言って、ベッドに横たわって天井を見上げた。そして、


「但馬に用がある。二人きりにしてくれないか」


 と言うと、人払いを行った。


 但馬が何を言われるのかとじっと耳を傾けていると、やがてたっぷり時間をかけてから、


「ここ数日、体調がすぐれないと思っては居たが……ただの風邪かと思いきや、とんでもないことになってしまった」

「ああ」

「……虫のいいことを言ってるのは承知のうえで、後のことを頼みたい」

「ああ」

「フリジア戦役の後始末はマーセルに任せる、彼を補佐してくれ。カンディアの地は、一旦陛下にお返しする。陛下が代官を置く場合は、おまえが必ず人選を確認するように。ジルは国へ帰りたがったらそうさせてやってくれ。それから、ブリジットを頼む。あれが独り立ち出来るまで、そばにいてやってくれないか」

「……どれも大事なことじゃないか。俺なんかでいいのか?」

「他に当てがあるならそうしているだろう。残念ながら、まだブリジットには頼めそうもない……」

「そうか……」


 ウルフは深い溜め息を吐いた。息は荒く、今にも倒れそうな感じだった。それでも彼は穏やかな顔で言った。


「陛下はまた家族を亡くすことになる。それが俺なんかでも堪えるはずだ」

「そんな悲しいこと言うなよ」

「ふっ……それでも、妹じゃなくて俺で良かったと思うぞ……なあ、但馬よ」

「なんだ?」

「ブリジットと結婚しろ。そうしたらきっと陛下は喜ぶ」

「何を言ってるんだお前は。熱で脳みそ融けちまったんじゃないか?」

「あれはお前を好いているよ。崇拝と言ってもいいかも知れない。我が国は、大陸の端っこにへばりついている小国だったが……ここまで大きくなれたのは、おまえがいたお陰だ。だから、おまえと妹が結婚したら、きっとみんなが喜ぶ」


 正直、いきなりそんなことを言われても、どう返して良いのか分からなかった。


「もちろん、おまえのしたいようにしてくれればいい。精神の自由は、おまえにあるのだから。ただ、あれにはそんなことを願っていた兄が居たと言うことを、出来れば覚えておいて欲しい」

「……ああ」

「疲れた……暫く眠る。後は頼んだ」


 そう言うとウルフは目を閉じて、間もなく気絶するかのように寝息を立て始めた。それは弱々しく、今にも消えてしまいそうな感じだった。


 但馬は彼が眠るのを見届けてから、席を立って部屋から出た。外には中の様子を気にしていたブリジットが居て、但馬が出てくるとすぐに入れ替わりに中へ入ろうとしたが……


「駄目だ、入るな!」


 珍しく、但馬が大声を上げるから、ブリジットはビックリして持っていた物を取り落とした。


 但馬はため息混じりに首を振るうと、


「ウルフはもう寝てるよ……それより、感染の疑いのある患者にはもう近づいちゃ駄目だ。ブリジット、おまえは今すぐリディアへ帰れ」

「ですが!」

「ですがもかかしもないんだよ。ウルフが死んだら、もうアナトリアにはおまえしか跡継ぎがいないんだ。心配なのはわかるが、ここでもしおまえにまで何かあったら、陛下はもちろん、ウルフだって死んでも死に切れないだろう」

「死ぬって……なんで、そんな簡単に諦めてしまうんですか? まだ何もしてない内に。そんなの先生らしくないですよ」

「らしいってね……本当に、みんな俺のことをなんだと思ってるんだ? 俺は神様じゃないんだ、出来ることと出来ないことがある。だったら、出来る範囲で最善を尽くすしかないじゃないか」

「……出来ないって……本当に先生にも兄さんを助けることが出来ないんですか? お手上げなんですか?」

「……残念だけど」

「ううううぅぅぅ~~っ!」


 するとそれまで黙ってやり取りを聞いていたジルが嗚咽を漏らした。彼女は顔を手で覆い隠すとサメザメと泣いた。ブリジットはわなわなと唇を震わせ、憤りを隠せない顔で但馬を睨んだが、やがてそれが無意味であると悟ると、目を真っ赤にしながら項垂れた。


 但馬はぐっと奥歯を噛みしめて言った。


「絶対に死ぬってわけじゃないから、もしかしたら持ち直すかも分からない。だが、それにしたって後は本人の体力と気力の問題で、俺達にやれることは何もないんだ。ブリジット……気持ちは分かるんだけど、君がここにいても何もやれることはない。それよりも感染の危険を犯してまでここにとどまることの方が、よっぽどウルフの負担になるだろう。どうか聞き分けて欲しい」


 彼女は反射的に首を振った。弱々しく、いつまでもいつまでも振るっていた。だが、但馬が彼女の手を取ると、抵抗すること無く引っ張られていった。頭ではわかってる。だが気持ちが追いつかない、そんな感じだった。


 但馬はブリジットを連れて階下に降りると、エリオスに馬車を呼びにいかせた。まだアナスタシアとリオンが居る。彼女たちも心配だが、まずはブリジットを逃がすことを優先しなければならない。


 1階まで降りてきて、三人は無言で馬車に乗り込んだ。エリオスが気を利かせて真ん中に座ったが、両脇の但馬とブリジットはお互いにそっぽを向いたままだった。


 軍港に泊めてある但馬の自家用船の前まで来ると、ブリジットは最後の抵抗を見せた。


「やっぱり、私一人が逃げるわけには行きません!」

「いい加減、聞き分けてくれよ。おまえが居ても、本当に何も出来ることはないんだ。ヒールだって効かない。知ってるだろ?」

「それでも、ここで逃げるようでは為政者として示しが付きませんよ。必ず病気に感染するってわけでもないのでしょう? 先生はここに残って感染者のお世話をするんでしょう? 誰かがやらなければならないなら、私がやったっていいじゃないですか」

「それはそうだけど……俺には代わりはいるかも知れないが、おまえは替えが効かないだろ?」

「先生にだって代わりは居ませんよ! 先生がいなくなったら、遅かれ早かれ、我が国は潰れます」

「そういうことじゃなくて、陛下の血筋は、もうお前とウルフしか居ないんだ。絶対にどちらか一人は生き残ってもらわなきゃならない。わかってるだろう?」

「ですが……」

「もう勘弁してくれ……エリオスさん」


 但馬がエリオスを促すと、彼は黙って頷いてからブリジットの腰をガシっと掴んで持ち上げた。無理にでも連れて行くぞという姿勢を見せると、彼女も意地になったのか、普段からは想像も出来ない癇癪を起こして大暴れした。


 これにはエリオスも堪らず、彼らは二転三転ともみ合ってから、バランスを崩したエリオスがブリジットを離すと、着地しきれなかった彼女は前のめりに倒れて、目の前にいた但馬にタックルした。


 腰だめにタックルを食らった但馬が吹き飛ばされ、尻もちをついてゴロゴロ転がる。


「っ! ……すみません! 大丈夫ですか、先生? ……先生?」


 押し倒してしまったブリジットは大慌てで駆け寄った。そして力なく倒れてる彼を抱き起こして……異変に気がついた。


「……ただの風邪だと思ってたんだけどね……こないだ、雨に打たれたし」


 抱き起こした但馬の体が異様に熱く感じた。うつむき加減の彼の顔は心なしか赤く染まっており、暑苦しそうにハアハアと荒い息を吐いている。


「さっき、港で患者を見て、続けざまにウルフが倒れて……ヤバイって思った。今朝は本当に調子悪くって、なんか、胸のあたりに変なしこりがあったし……」


 ブリジットを見上げるように顔を上げた但馬の目が真っ赤に充血していた。熱で浮かされているのか、全体的にボーっとした表情をしており、そして抱きとめた体は力が入っておらず、弱々しく感じた。


「これで分かったろう? 俺にもどうしようもないんだ。出来るんなら、とっくにどうかしてるよ。死にたくないもん」


 ブリジットは息を呑んだ。体が弛緩して、まともに動きそうにない。


 そんな彼女をエリオスがヒョイッとつまみ上げると、有無をいわさず船に乗せた。


 これ以上は待ってられないと、すぐに綱が切られ、船がゆっくりと動き出す。


「……いやだ……」


 ブリジットはその甲板で腰を抜かしていた。


「こんなの嫌だ……嫌だぁ~……!!」


 だがもう動けそうになかった。


「降ろして……降ろしてください! こんなのってないですよ。こんなの……一人だけ助かっても、何の意味もないじゃないですか! 嫌だ! 嫌だ、先生! 兄さん! こんなのってないよ、酷すぎるよ……」


 船はゆっくりと岸から離れていった。ブリジットの声はドンドン弱々しくなって風がかき消していった。船は間もなく、その風を受けて速度を増し、大海原へと旅立っていった。


 但馬はそれを堤防に座ったまま見送ると、自分のやれることは全てやったと安心したのか……そのまま地面に横たわって、意識を失った。


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