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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第四章
128/398

想いあふれて

 翌朝。結局、明け方までエリックたちに捕まっていた但馬は、二日酔いの最悪の気分のまま目を覚ますと、先に起きていたエリオスに、


「今日は護衛いらないから……」


 と、そっけない態度でちら見しながら言ってみた。


 今までも何度かそう言ったことはあったのだが、そうは言っても絶対についてくる彼であるから、今日も無理だろうと思ったのだ。しかし意外にも、


「……そうか。まあ、今日くらいはな」


 エリオスからあっさりと許可が出て、但馬は面食らった。


「なんだ。俺だってそれくらいの空気は読むぞ……それに、相手はアナスタシアなんだろう? だったら問題ない」

「あ、そっすか……」

「だが、絶対に彼女から離れるんじゃないぞ。つかず離れず一緒にいるといい、なんなら手を繋いでいると安心だ。暴漢が来たら守ってもらうんだぞ」

「それ、普通逆だよね!? 立場が思いっきり逆だよね!?」

「社長は脆弱だからな……年端もいかぬ子供にすらやられかねん」


 うわっ……そこまで低評価だったのかと愕然とするやら、逆にそこまで過保護に思われてたのね、道理でどこにでも付いてきたんだと思うやらで、但馬はなんとも言えない気分になて、


「……ちっくしょー!!」


 いつか隠しカメラが無くっても、一人でお使い出来るようになってやると、彼は心に誓った。


 ともあれ、昨日、散々飲んだせいで胃袋と食道が荒れており、吐きすぎてお腹も空いていたので、胃に優しい食べ物でも取ろうと一階のラウンジへ移動した。生姜湯やらハチミツやらがあれば良いのだが、ロクな医療知識もないような世界だからそんなものはなく、仕方ないので厨房から卵と調味料を拝借してプレイリーオイスターなる二日酔い専用カクテルを作っていたら、奇異の目で見られた。本当に効くのに。


 まあ、材料が材料なので仕方ないかも知れない。卵黄とビネガーとケチャップとウスターソースを塩コショウして飲もうだなんて、誰が考えついたんだろう、こんなもの。


 そんな具合に軽い食事を採りながら周囲を見渡すも、流石に晩餐の日から1週間も経てば客も帰っちゃったのか、ラウンジには人っ子一人居なかった。一応、タチアナがまだお茶会に呼ばれてるようだから、ご婦人方はいるのだろうが、領主クラスは粗方大陸に帰ってしまったのかも知れない。


 結局、ウルフの分断工作はどんくらい上手く行っているのだろうか、少々気にはなったが、下手に口を挟んだら、また要らぬ仕事を押し付けられそうな気がしたので黙っていた。少なくとも、タチアナの方はかなり多くのご婦人方と仲良くなっていたようなので、多分、ウルフの方も上手く行ってるのだと思う。


「あら、ごきげんよう、但馬様」


 たった一人を除いて……但馬は飲み込んだものを吐き出しそうになった。見ればにこやかな笑みを湛えたヒュライア男爵令嬢が、出入り口を塞ぐような格好で立っていた。


 おかしい……先ほど周囲を見回したときは誰の気配も感じ無かったはずだ。視界は良好だ。周囲には何もない。恐ろしく素早く他人のパーソナルスペースへ忍び寄ることが出来る女である。


「ご、ごきげんよう……マ、マルグリット様」

「あら。どうぞメグとお呼びください。あなたと私の仲じゃございませんか」


 怖い……


 あんた昨日、メグって呼んだら人を殺しそうな目で睨んできたじゃないか……但馬は生まれたての子鹿のようにプルプルと震えながら退路を確認した。普段ならエリオスがいるのに、今日は一人きりなのだ、心細い。


 そんな但馬のプレッシャーなど知ったこっちゃないと、マルグリットはズズズいっと但馬の座る椅子に詰め寄ってくると、これ入ってるんじゃないか? と言わんばかりに密着して座った。すみません、もうちょっと退いてくださいと言うと、やだあたしったらはしたな~いとか言いながら、彼女はコツンと額を叩いてテヘペロし、気持ち半歩ずれた。


 但馬が死刑宣告でも食らったかのような心境で、何の用だろうと神妙な面持ちで彼女の出方を窺っていると、


「それで、准男爵? 昨日の件は忘れてないわよね。ちゃんとタチアナにナシ付けてくれてんでしょうね」

「え、あ、はい……一応」

「ああ゛ん……一応?」

「うわあああ! しっかりと、確かに、間違いなくお伝えしておきましたっ!」

「なら良いんだけど……あんた、もしあたしがタチアナに会った時に話が違ったら……わかってるんでしょうね?」

「あ、はい、それはもちろん……しっかりと言い含めておきましたから」

「そう……ご苦労……火」

「……え?」

「火よ……気が利かない男ね」

「あ、はい、すみません」


 但馬がビクビクしながらマッチを擦ると、マルグリットは嬉しそうにタバコ(っぽい何か)に火を付けて、スパスパとご満悦の様子であった。


「ふぅ……これで少しは肩の荷が下りたわ。感謝してあげる。あんたこれから用事あるの? 暇ならあたしが相手してやってもいいわよ。そうね、二時間くらいなら」


 その二時間で何するってんだよ、このビッチ。


「いやあ~、残念だなあ~……実はこれから緊急の用事がありまして、どうしてもヘラクリオンの街までいかねばなりませんでしてね」

「あら、そうなの。なんのご用かしら?」


 どうでもいいだろそんなこと……まじめに答えたら邪魔されそうだし……


「いえ、ウルフに頼まれたちょっとした視察ですよ、つまらない視察。でも夜までかかるから、いや、いっそ泊まりだから。いやあ、残念残念」

「ふーん……」


 マルグリットは興味無さそうに言うと、灰皿に灰をトントンと落とした。但馬はその隙にひょいっと身を捩って彼女から逃れると、マッハで彼女との距離を置いた。そして、


「そっちも、ちゃんと約束は守ってくださいね……?」

「……レベッカのことね。あんた、本当にあの子に肩入れするわねえ~……何が良いんだか知らないけど」


 マルグリットはその滑稽な姿を鼻で笑いながら見送りつつ、独りごちるように言った。


「わかってるわ。ちゃーんと、あんたの思惑通りにしてやるから。だから、感謝しなさいよね」


 何言ってるんだ? このビッチ……と再び思いつつも、これ以上係わり合いになりたくないと思った但馬は、それ以上深く考えることなく、足早に宮殿を後にした。




 その頃、アナスタシアは自室で洋服相手に格闘していた。昨日、ジルに着せ替え人形よろしく着つけて貰ったものが、今朝自分で着ようとしてもどうしても上手く着られなかったのだ。


 一体、どういう構造になってるのだろうと、腕を曲げたり足を曲げたりして頑張ったが埒が明かず、結局、待ち合わせ時間に間に合わなくなりそうになって、ようやくジルに泣きついたら、どうしてもっと早く言わないのと苦笑気味に窘められた。


 そうは言っても自分から訪ねて行くのは、やはり場違いのように思えて怖かったのだ。


 言ってしまえば、自分はただの孤児なのだ。偶然、但馬に拾われたことで、こんなに凄い人たちに囲まれているだけで、それがどれだけの幸運なのか、彼らにはきっと分からないだろう。全ての他人が自分を害するためだけに存在するように思える感覚を、彼らは分からないだろう。本当は今でも少し怖いのだ。


 地べたを這う虫よりも劣った立場にまで落とされて、それでも尚、生きていかなければならなかったどん底の過去を思い出すと……アナスタシアは今、ずっと夢のなかで暮らしているような、夢から覚めてしまったら、きっと地獄が待っているような、そんな気がするのだ。


 着付けを手伝って貰って、優しく頭をなでられ、髪を丁寧に梳いて貰いながら、そんな昔のことを頭のどこかで考えていた。今日はいっぱいかわいがって貰いなさいねと言われて、彼の顔を思い出すと、胸が熱くなった。こんな知り合ったばかりの人にまで、こんなに優しくして貰えるのは、全部彼のお陰なのだ。


 アナスタシアはジルに礼を言うと、着飾った自分を姿見でチラリと見てから部屋を後にした。昔なら王侯貴族にしか許されないような大きな姿見の前に立って、お姫様みたいな格好をする自分を見てると、まるで自分ではない他人事のように思えた。


 出かける前にブリジットに会いに行こうかとも思ったが、何を喋って良いのかわからないのでやめておいた。彼女は階段を降りると、誰かに見咎められるんじゃないかなと言う不安を押し隠しながら宮殿から外へ出た。


 但馬との待ち合わせは、ヘラクリオンの街の中心部にある馬車駅の前の予定だった。どうして同じ場所に泊まってるのに、一緒に出ないの? と尋ねたら、そっちの方が雰囲気が出るからと言われ、いまいち納得出来なかったが、今ではその気持ちが分からなくもなかった。


 アナスタシアは、今頃彼が待ち合わせ場所で自分のことを待っていてくれるんだと思うと、たまらなく嬉しい気分になった。


 普段なら歩いて行く距離であったが、今日は借り物の洋服を汚さないように、アナスタシアは車溜まりへ馬車を呼びに向かった。しかし、到着するより先に城門から外へと出て行くレベッカの姿を見かけて、彼女は暫し躊躇してから、結局はレベッカの後を追って城門から外へ出て行った。


 宮殿は小高い丘の上に有り、周囲は宮殿へ続く並木道以外に何もない。だからアナスタシアは、すぐに坂道をゆっくりと降りていくレベッカの後ろ姿を見つけられた。彼女は走って旧友の後を追いかけると、


「ベッキー!」


 背後から何気なく声をかけた。


 振り返ったレベッカは、初め自分を呼び止めた者が何者かわからなかった。何しろアナスタシアはお姫様のような格好をして、かつて修道院に居た頃にはついぞ見せたことのようないような、朗らかな表情で彼女に笑いかけていたからだ。


「……ナースチャ」


 だから、相手が誰か分かった時は、彼女は驚くというよりもものすごい劣等感を感じた。


「ベッキー、街へ用事? 良かったら一緒に行こう」

「……アナ……あなたは、どちらへ行くのかしら」


 思わず、アナスタシア様と言いかけて、彼女はすんででそれを堪えた。


「うん、街で先生がね……准男爵様が待っててね。今日は一緒に遊ぶ約束してるの」

「准男爵様? ……遊ぶ?」

「うん。シドニア行って、たくさん遊んで貰うんだ」


 レベッカはその言葉に戸惑った。遊ぶとは、そのままの意味として受け取っていいものなのだろうか?


 いや、それは絶対にあり得ない。何故なら、彼女は街へ行って、准男爵を誘惑してこいと、主人に命令されてここまで来たのだから……


 主人が言うには准男爵はレベッカに興味があって、彼女を欲しがっているそうなのだ。つい先日、主人の言うことを聞いてやる見返りに、レベッカを寄越せと言われたそうだ。イヤイヤだった。それでも強引な主人に逆らうことが出来ず……彼女は准男爵に自分の身を預けるつもりで、宮殿を出てきたのだ。


 それなのに、アナスタシアはこれからその准男爵と遊びに行くという。もしかして、彼女は修道院から出た後も、男の毒牙にかかってふしだらな生活を余儀なくされていたのだろうか。遊ぶというのも、レベッカも含めて三人でということなのだろうか……


 レベッカは背筋に怖気が走った。そんな屈辱的で非人道的な行為が許されていいはずがない。


 身震いする彼女を見ても、アナスタシアは何も分からず、小首を傾げていた。


「……ナースチャ。あなたは、その……幸せなの?」

「え? うん」

「あの男……准男爵様は、その、どう言う方なのかしら? まさか、あなた……あの方にひどい目に合わされてるんじゃ……」


 アナスタシアはギョッとして目を丸くした。どうして今の話でそういう流れになるのだろう? と不思議に思ったが、


「絶対そんなことないよ。先生は良い人だよ?」

「なら良いんだけど……あなたは、あの人と、そう言う関係なの?」


 そういう関係とはどう言うつもりで言ってるのだろうか……流石に少しカチンと来て、アナスタシアはブンブンと頭を振るって抗議するように言った。


「先生はそんなことしないよ。いつも私のことを大事に思ってくれてるし……」

「本当に、本当なの?」

「当たり前だよ」


 何しろ、馴れ初めはあの水車小屋なのだ。自分はその時、まだ借金でがんじがらめにされていて、娼婦としてそこに居た。


 幼なじみのみんなが助けてくれようと、色々努力してくれていたけど、そんなの焼け石に水で、アナスタシア自身、とっくに諦めていて、毎日がつまらなく、色あせて、そして地獄のような日々だった。


 それを助けてくれたのが但馬だったのだ。何の得にもならないのに、今でこそ大金持ちの彼であったが、その時は全財産を叩いてまで、自分のことを救ってくれた。それはシモンが死んでしまったことによる感傷だったかも知れない、最初はアナスタシアのことを買おうとしていた但馬なのだから、下心が無かったとも言えないだろう。でも、それでアナスタシアは救われたのだ。


「……先生は、慣れない女の子との暮らしで、いつも欲情してたし、私もそういうつもりで買われたんだと思ってた。でも、絶対に手を出さなかった」


 最初は工房を除けば二人で暮らすのが精一杯の小さな家で、意識するなと言うのが無理なくらい近くにいて、二人っきりなのだから、手を出したところで誰にも分からなかったろうに、彼は絶対に手を出さなかった。


 思い返せば、この頃が一番楽しかった。まだエリオスもリオンも居なくって、シモンの両親とちょっとだけ距離を置いていた。


 自分はこの世の全ての不幸を背負っていると思っていて、優しくされるのが嘘みたいで辛かった。それを察していたからか、但馬は必要以上に干渉してこないで、いつも少し遠巻きに接してくれていた。そのくせ、毎日毎晩、水車小屋まで迎えにやってきて、まるで繊細なガラス細工でも扱うかのように、そっと優しく包み込んでくれたのだ。


 毎晩二人で、商店街で献立を考えながら買い物して、二人の家に帰ったのだ。たまに彼が料理を作ると、いつもおかしなことをして、自分を楽しませてくれたのだ。あの頃から忙しかった彼が工房に篭ると、わがまま言って一緒にいさせて貰っても、嫌な顔ひとつすることなく、ソファで寝たふりをする自分に笑いかけてくれていたのだ。


 彼と一緒にいれば、また新しい出会いがあって、その新しい出会いが勇気を与えてくれた。動き出したら自分にもやれることが次第に増えていって、必要とされているということが生きるという実感を取り戻してくれた。


 そうして自分は癒やされたのだ。


 いつから彼のことを好きになったかは分からないが、こんなに色んな物を与えてくれた人を好きにならずには居られなかった。


 彼はアナスタシアが大丈夫になるまで、じっと優しく見守ってくれていたのだ。


「先生は本当に良い人だよ。何か誤解してるのかも知れないけど、私は先生の何もかもが好きだし、一緒に居られることが嬉しい」


 アナスタシアはそう宣言すると、うっとりするような綺麗な笑顔を見せた。きっとその笑顔を見たら、誰もが彼女に好感を抱くような、そんな完璧な笑顔だった。だが、それはレベッカの心を抉った。


 レベッカは胸がズキズキと痛んだ。


 そんなのズルい……


 彼女の言う但馬波瑠は、主人の言うそれとは似ても似つかぬ完璧超人だった。それはきっと彼女の贔屓目もあるのだろうが……


 それにしたって、どうして彼女と自分にここまで差がついたのだろう。


 アナスタシアの着る綺羅びやかな美しいドレスは、日の光を浴びて艶やかな光沢を湛えていた。これだけ上等な生地に、一体どれだけ値打ちがあるのだろうか、想像もつかない。それにひきかえ自分に与えられたお仕着せは、ところどころに穴が空いて、繕い物で誤魔化していて、一着しかないそれは洗濯もままならず、いつも薄汚れていた。


 同じ場所にいて、同じ不幸な目に遭っていたのに。日の当たらない修道院の奥で、自分は最後の日まで見知らぬ男の相手をさせられて……助かったと思っても、どこにも帰る家なんか無くて……預けられた先で、ヒステリックな主人を相手に、家畜のような生活を未だに続けている。


 彼女と自分に、どんな違いがあると言うのか……


 どうして自分だけ(・・)が、こんな目に遭わなければならないのか……


「……お、おかしいよ……」

「……え?」

「ナースチャの言ってることはおかしいよ」


 レベッカの握りしめた手がプルプルと震え、噛み締めた唇から血が滴り落ちた。一体全体、何が起きたのか分からないアナスタシアが困惑の表情を見せると、それを馬鹿にされたと思ったレベッカは、いよいよ怒りで前が見えなくなった。


 顔が紅潮し、こめかみに血管が浮き出ていた。あまりにも血の気が多いせいか、それはもう赤ではなく、どす黒い色をしていた。


「あなたの言ってることが本当なら、あなたのやってることはおかしいよ」

「……ど、どうして?」

「どうして? それは私が聞きたいわ。どうしてあなたは、そんなに素晴らしい人の邪魔をするの?」

「……え?」

「准男爵に、あなたは必要ない。あなたは彼の邪魔をするだけの存在じゃない。思い出しなさい。あなたは薄暗い部屋で、何十人、何百人の男と寝た女よ。そんな汚れた存在が、主人の邪魔をしちゃいけないわ。あなたがどう更生しようが構わない、嬉しかったんなら勝手に喜べばいいわ。でも忘れたらいけないのは、私たちは(けが)れた存在だということよ。それは自分の周りを不幸にする。表舞台に立つ人の汚点になる」

「ベッキー、何を言って……」

「現に、あなたのせいで、あなたのご主人様が苦境に立たされたじゃないのっ!」


 その言葉はアナスタシアの胸を貫いた。


「あなたが汚れた存在だから、あなたのご主人様も同じように思われたんじゃないのっ! あなたのせいで、多くの人達から軽蔑されて、失笑を買って、せっかく彼が積み上げてきた物が、ぶち壊しになりかけたんじゃないのっ! もしもブリジット姫が居なければ、巻き返すことも出来なかったはずよ。それもこれも、あなたが自分の立場を自覚しないで、目立ったせいじゃない。男の気を惹いたからじゃない。あなたが主人の影にちゃんと隠れて、じっと目立たないようにしていたら、こんなことにはならなかった。あなたが、准男爵の足かせになってるのを、ちゃんと自覚しなさいよ」


 アナスタシアは耳を塞ぎたいのにでも腕が言うことを効かなかった。


「これから遊びに? シドニアまで? 二人っきりで? 准男爵様はブリジット姫の恋人なんでしょう? どうして、あなたがその邪魔をするようなことをしてるの? あなたと居る時間をブリジット姫に返しなさい。どう考えても、あなたよりもお姫様と一緒に居たほうが、彼はずっと幸せじゃないのっ!」


 はあはあと荒い息だけが聞こえていた。


 レベッカは自分の内に潜んでいた黒いものをぶち撒けることでストレスが解消されたのか、途中から自分が言ってることが滅茶苦茶で、救いようのない酷いものだと気づいていた。だが、止まらなかったのだ。彼女は自分の中に溜め込んでいたストレスが、嫉妬の炎となって吹き荒れるのを止めることが出来なかった。


 ぶわっと涙が溢れて、前が見えない。アナスタシアがどんな顔をしているのさえ、よく分からない。レベッカは自分の醜さに対する嫌悪感で押しつぶされて、もうまともに顔も上げられなかった。ただ苦しくて、苦しくて、痛みにのたうち回るように、


「ううう゛うう゛う゛う~~~っっ!!」


 っと唸り声を上げると、めくらめっぽう手を振り回してアナスタシアを殴打し、そして転げ落ちるように坂道を駆け下りていった。


「………………」


 普段の彼女なら、そんな攻撃などもらうはずはなかった。だが、その時のアナスタシアは一歩も動くことが出来ず、殴られている手を振り払うことも出来ず、好き放題に顔や頭や腕や胸を叩かれても、何をすることも出来なかった。


 唇が切れて、血が伝い落ちる。


 その真っ赤な血が借り物の服を汚していく。


 それでも彼女は一歩も動けなかった。頭の先から爪先まで、全ての筋肉が弛緩して、自分の体じゃなくなったみたいだった。全身の血が引いてしまって、死人のように冷たくなっていた。


 なのに、流れ落ちる血は真っ赤であって、それがポタポタと、いつまでいつまでも流れ続けるのだ。




 上空でトンビが鳴いた。


 但馬はソワソワと落ち着きのない素振りでそれを見上げた。


 アナスタシアとの待ち合わせ時間まで、もうほんのわずかだった。先程から街を行き交う人々や、やってくる馬車の乗降客を見ては一喜一憂する彼を、街の人々は奇異なものを見るような目つきで見ていったが、そんなことはもはや彼には気にもならなかった。彼女が来るのを今か今かと待ちわびて、胸が張り裂けそうだった。


 人間、幸せ過ぎると胸が痛いんだなと、但馬は生まれて初めて気がついた。さっきからずっと、心臓がバクバクと音を立てては、走ってもいないのに汗が吹き出るわ、息が荒いわ、会いたくて会いたくてたまらなく、不審者も真っ青なくらいに浮かれていた。


 彼女が来たらどんな顔をして迎えて上げよう、なんて言って褒めてあげよう。まずは髪型を褒めるべきか、洋服を褒めるべきか、好きなところがいっぱいありすぎて、どれを選べばいいのか分からない。


 ああ、早く来ないかなと待ちわびて、彼は往来は少ないとは言えそれなりに人の目がある街の中心部で、うろちょろうろちょろ行ったり来たりを繰り返していた。


 と……宮殿の方から人影が近づいてきた。背格好からアナスタシアのように思えて、一瞬ドキンと心臓が鳴ったが、よく見ると見覚えのあるお仕着せを着ている姿は、アナスタシアではなく、その旧友であるレベッカのように見えた。


「おや? あの子は……おーい!」


 但馬は彼女の姿を見つけると、マルグリットがちゃんと彼女の扱いを悔い改めてくれてるのかを確かめたくて、近づいていった。


 レベッカはにこやかに近づいてくる相手が但馬だとわかると、ビクリと全身をうち震わせて、その場に立ちすくんだ。そして誰が見ても気の毒なくらいに真っ青になって、唇を震わせ、目には涙をにじませた。


 但馬は初め、彼女の様子がおかしいことに気づかず、のんきに鼻歌交じりに近づいていったが、やがて彼女が顔面蒼白にして怯えている姿に気づくと、


「……一体どうしたの? 何かあったの? 助けが必要かい?」


 彼女に駆け寄っていって、怯える彼女の手を取って、じっと彼女の目を見つめながら真剣に尋ねた。


 彼女の顔は真っ青で血の気が無く、唇まで紫だった。目元は明らかに涙の跡があって尋常でない。


 これは明らかに変だ、おかしい。きっとマルグリットにまた無茶なことを言われたんだなと思うと、但馬は舌打ちして宮殿の方を睨んだ。


 すると但馬が怒ったと思ったのか、それが切っ掛けになってレベッカが動いた。彼女は但馬の胸に縋り付くと、


「准男爵様! ……主人に言われて参りました。どうぞあなたのお好きなように、私をお使いください。私の全てをあなたに差し上げます」


 その言葉に但馬は激怒した。


 あの女……やっぱり何か勘違いしてやがったんだなと思うと、相手構わず怒鳴り散らしてやりたい気分になったが……目の前で怯える少女のことを思うと、そんなことが出来るはずもなく、但馬は懸命に怒りを抑えると、胸にすがりつく彼女の肩を抱いて引き剥がし、じっと彼女の目を見て優しく問いかけた。


「……ご主人様にそうしろって言われたんだね? あの馬鹿が何を言ったか知らないが、君がそんなことをする必要は、もうないんだよ。君はつらい思いをしてもめげずに頑張って、ようやく自由になれたんだ。そんなやりたくもないことをしなくても、もう良いんだよ。そうだ……やっぱり、君もこのまま俺のうちにいらっしゃい。もう、あんなご主人様のところへ戻ることなんかないよ。俺がなんとかするから。無理だと決めつけないで、最初からリリィ様にお願いすればよかったんだ。彼女とは知らない仲じゃないんだし」


 但馬がそう言うと、彼女の顔色が一層悪くなった。


 レベッカは目の前に居る男の顔をまともに直視する事が出来なかった。


 目の前の男の真剣な顔と、さっきまで一緒にいたアナスタシアの言葉が脳裏に過る。


 (……先生は本当に良い人だよ。何か誤解してるのかも知れないけど、私は先生の何もかもが好きだし、一緒に居られることが嬉しい……)


 自分は、一体、なんてことをしてしまったのだろう……


「うわ……うわわ……うわわわああああああああ!!!!」

「ちょっ!? どしたの!!?」


 驚いて目を丸くした但馬をドンと突き飛ばすと、レベッカは絶叫しながら去っていった。その反応が、あまりにも激烈だったから、但馬は彼女を追いかけるべきかどうすべきか悩んでしまった。


 結局、彼女が何に怯えて逃げていったのかが分からず、自分が追いかけても良いのか判断がつかなかった彼は、彼女をそっとしておくことに決めた。そして、宮殿に帰ったら、あのアホのご主人様ときっちり話を付けねばなるまい……そう決意したら、それ以上はもう考えないことにした。


 そんなことよりも、アナスタシアだ。


 もうまもなく、彼女はここへやって来るはずだ。きっと精一杯のおめかしをして、それを褒めたら、いつもの困ったような上目遣いでありがとうと言ってくれるはずだ。今日は一日、彼女は自分だけの物になってくれるのだ。そうしたら、いっぱい自分のことを話そう。話して、自分のことをいっぱい知ってもらおう。これからの長い人生、彼女とずっと一緒に歩んでいけたら、これ以上素晴らしいことはないのだから。


 そうして但馬はその場に立ち尽くして、アナスタシアが来るのを待った。しかしいつまで経っても彼女は待ち合わせ場所へやってくることは無かった。日が暮れて、真っ暗になって、やがて雨が降ってきても、アナスタシアはやって来なかった。


 様子がおかしいことに気づいたエリオスが探しに来るまで、彼はその場にじっと立ち尽くしていた。

 

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なんてこったい
[一言] アナスタシアと離れないように言われたのに何故現地で待ち合わせ?
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