主教は不正を断罪す
翌朝……明け方まで飲んでいたタチアナは部屋に帰ると倒れるようにベッドに入り込んだが、いつも規則正しい生活をしているせいか、まだ頭がふらついていて眠いにもかかわらず、午前中には目を覚ました。
コルフの屋敷にいたら家令が怖くて絶対寝坊など出来ないのだ。せっかくだから、もう一眠りしたいところだったが、いくらベッドの中で輾転反側していても眠れそうになく、仕方なく体を起こして、隣のベッドで寝息を立てるランを羨ましそうに見つめながら、顔を洗って外の空気でも吸いに行こうかしらと部屋から出たら……朝日眩しい廊下の片隅に、品の良さそうな夫人がニッコリと笑いながら立っているのに気がついた。
「あら、ごきげんようタチアナ様。昨晩はお別れのご挨拶が出来ずに申し訳ありませんでしたわ」
「お、おはようございます……スミ……スミ……スミ、ソニアン夫人」
うろ覚えの名前をこわごわ上げてみたが、どうやら正解だったらしい。昨日、必死になって顔と名前を覚えたのだが、ワインのせいですっかりその記憶も抜け落ちつつある。正解を引き当ててホッとする。
夫人はタチアナを見つけると、他愛の無い世間話を暫く続け……かと思うと、ふと思い出した感じに唐突に、姫様と但馬様がご気分を害されていないか心配だと、ほぼ一方的に告げるだけ告げて去っていった。
なんだこれは……恐らく、自分は味方だと言いたかったのだろうが……
タチアナは、何も自分にまでわざわざそんなこと言いに来なくても良いのにと思いながらも、多勢に無勢を覚悟していた手前、味方がいることに少しほっとしながら先に進むと……
「おはようございます、タチアナ様。ご機嫌いかが?」
数歩も進まない内に、別の愛想笑いとぶつかって、タチアナは進路を塞がれた。やばい、この人誰だったっけ? と思っても、相手は待ってくれない。
その後も次から次へと、殆ど行列をなしていると言ってもいいくらいに、偶然を装う貴族の襲撃に遭い、他愛のない世間話と共に、取ってつけたような但馬支持を告げて、彼らは去っていった。
流石にこの流れはおかしいと思い、タチアナは途中で口が軽そうな婦人を捕まえて訪ねてみた。
すると、どうやら昨晩あの後、会場の空気が一変していたらしい。
ブリジットが顔を真っ赤にしながら、但馬の腕をグイグイ引っ張ってパーティー会場から出て行くと、突然の出来事に会場が動揺した。
実は、娼婦を囲っている程度の醜聞などはよくあることなので、言うほど誰も気にしてはいなかったのだ。ヒュライア男爵令嬢としても但馬に対する軽いジャブくらいのつもりだったのだろう。まさかそれがブリジットを怒らせることだとは誰も思わず、会場は瞬時に凍りついた。
なんで急に怒りだしたのだ。この程度のことに目くじらを立てられては……それに、怒るだけならともかく、准男爵とのあの親しげな態度は一体……
貴族たちはハッとした。
もしや彼はブリジット姫の恋人なのでは? という憶測が飛び出すと、会場に残っていたウルフはそれを否定せず、ただ苦笑しながら、
「准男爵はああ見えて慈善家で、気の毒な孤児や亜人を養子に迎えて育てている。実は、カンディアにも家族のためのバカンスに来ていただけで、今日は無理を言って参加させたのだ。だからあまりイジメないでやってほしい」
ウルフがそう言うと、会場にやっちまった感が蔓延して、ヒュライア男爵令嬢の元からは波が引くようにさっと人が居なくなった。
そしてその後、怒って退出する二人の後を親しげに付いていったタチアナのことが話題となって、貴族連中の注目がヒュライア男爵令嬢からタチアナへと移り、今朝の参列に繋がってるようである。
「あわわわわわ……」
タチアナが視線を先に向けると、廊下のあちこちに無意味に屯する貴族の集団が見えた。タチアナは、この中を物語のお姫様みたいに愛想良く受け答えしながら通り過ぎる自信がなかった。
彼女は半べそをかくとクルリと来た道を引き返し、
「ランさん……ランさん! 起きてください、ランさん!」
未だ夢うつつのランを必死になって揺さぶり起こした。
一方その頃、但馬も同じように誰かに肩を揺さぶられて目が覚めた。目を開けると大きなネコみたいな耳がピョコピョコ動いていて、次いでらんらんと輝く大きな目が但馬のことを覗き込んでいるのが見えた。
「お父さん……お父さん……起ーきーてー……」
頭がガンガンに痛む。昨晩はいつ帰ってきたのか分からないが、恐らく酩酊した但馬をエリオスが引きずって来てくれたのだろう。但馬は用意されていたベッドカバーの上に突っ伏すようにして寝ていた。枕にしていたタオルケットがヨダレでドロドロである。
とてもじゃないが起きれるような状態じゃなかったので、
「……お父さん、昨日は遅くまで起きてて大変だったんだ。もうちょっと寝かせて?」
「えー……」
そう言うとリオンは分かりやすいくらい分かりやすくシュンと項垂れたので、但馬は流石に可哀想に思った。
今日は朝から島を散策したり、ぶどう園にぶどう狩りに行く予定だった。昨日、期せずして晩餐会なんかに出席する羽目になったせいで、あんまり遊んで上げられなかったから、別れ際にそう約束したはずだった。
思えば、普段からロクに相手してやれなかったのに、昨日はただ街を散策するだけのことでも、あんなに喜んでくれたのだ。きっとリオンは、今日のことをとても楽しみにしていたに違いない。
リオンは起きてくれない但馬にがっかりして、肩を落として去っていこうとしていたが、但馬は、
「う、うーん……いや、起きる。やっぱ起きるよ。約束を違えちゃいけないよな」
そう言って体を起こすと、ぱっと瞳を輝かせるリオンに、あしたのジョーみたいな格好で、取り敢えずお水持ってきてくれる? と頼んだ。
水をガバガバ飲んで、どうにか復活を遂げた但馬は、まだ地面がフラフラして見える三半規管に鞭を入れて起きだし、部屋から出た。広い廊下には豪華な装飾の施された柱や、高そうな壷、良くわからない絵画が飾ってあったりして、それを眺めるような位置にベンチが置かれていたのだが、そこにエリオスがぐったりしながら座っていた。こっちもリオンに起こされた口らしい。
お互い、子供には甘いなと挨拶しつつ、合流したアナスタシアと朝食を取りにラウンジへ向かう。だが、まだブリジットも、カンディア公爵家も起きていないようだった。
ブリジットを呼んでと言えば、起こしに行ってくれそうだが……彼女もまだ眠いだろうから、もうちょっと寝かしておいてやることにして、そして、せっかく観光するのだし、タチアナも誘ってみようかと提案し、但馬達は朝食後に連れ立って階下の彼女の部屋へと向かうことにした。
広い5階のエントランスを通りぬけて階段を下りる。
と……そんな彼らの前方、階段を下りた先の近衛兵が守る廊下の隅に、但馬は見知った顔を見つけた。
昨日、知り合ったばかりのアナスタシアの旧友、レベッカだ。恐らく、但馬たちが起きてくるのをずっと待ち伏せていたのだろう。
5階はカンディア公爵家のプライベートなスペースなので、近衛兵に止められてここで立ち往生していたようである。何の用事か気になったが、彼女の顔が暗いことに気づいて、嫌な予感しかしなかった……
果たしてそれは正しかった。
彼女は但馬たちが上階から降りてきたのに気づくと……すると突然両手両膝を地面について、近衛兵が止めるのも聞かず、地面に額をこすりつけるように下げると叫ぶように言うのだった。
「昨日は申し訳ございませんでした。但馬様。アナスタシア様」
いきなりの謝罪に面食らったのも確かだが、その言葉はアナスタシアの心をえぐり、彼女は引きつけを起こしたかのように硬直した。どんな間柄だったかは知らないが、かつての旧友に様付けで土下座されるなんて、思いもよらない出来事に彼女は混乱の極みに達したのだ。
何が何だか分からない。微妙な空気が辺りに重苦しく立ち込める。
幸い、周りには誰もいない。だからと言って人目を気にしないわけにも行かず、但馬はエリオスに目配せすると、駆け寄って彼女を立たせた。
その様子に戸惑っている近衛兵に、訳ありだからちょっと上まで連れて行く旨を伝え、返事を待たずにエリオスが彼女を担いで階段を上っていった。
5階のエントランスでは近衛兵たちが、先ほど降りていったばかりの但馬たちがあっという間に引き返してきたことに対し、怪訝そうな顔をしながら遠巻きに眺めていた。
エリオスはレベッカを担いだまま、近くにあったベンチに向かうと、そこに彼女を下ろした。
まだ興奮冷めやらぬといった感じだろうか、彼女は小刻みに震えており、顔面蒼白で血の気が失せて、今にも失神してしまいそうだった。怖がらなくてもいいのに、なんでそんなに怖がっているのだろう……
いや、怖いか……
彼女の行動は、多分主人から命じられたからだろうが、ただの使用人である彼女に貴族のたくさん集まる場所で、王族相手に謝ってこいなんて言われたら、そりゃ生きた心地はしまい。理由はおおかた察しがついたが、自分で謝りに来るのではなく、使用人を遣わせるとは見下げ果てた奴である。
文句の一つも言ってやりたいところだが……だが今、そんなこと言っていても始まらない。そうこうしている内に、突然のことに戸惑っていたアナスタシアがようやく落ち着きを取り戻したようで、
「……ベッキー、どうして……?」
と尋ねていたので、但馬はエリオスと目配せしてから、隠していても意味が無いだろうと、昨晩あった出来事を話して聞かせた。
昨日、アナスタシアと再会したレベッカは、主人に彼女のことを正確に伝えたのだろう。それを聞いていた男爵令嬢は、晩餐会場でアナスタシアのことが話題に上ると面白くなくなり、但馬のことを舐めていたこともあって、周囲に吹聴して回った。
大方、あの成り上がり者はとんだ好きモノで、気に入った娼婦を囲っているとかなんとか言いふらしたのだろう。それ自体、失礼千万な話であるが、ただ彼女の誤算はそれがブリジットを激怒させたことだ。
一晩経ってこうして使用人を謝罪に向かわせたところをみると、旗色が変わったことで慌てているのだろう。
だからと言ってこんな一人で怯えている少女を、自分の代わりに送ってきて何になると言うのか。
但馬は正直腹立たしく思ったが、ここで憤りを表に出しては、尚更目の前の相手を萎縮させるだけだろうと思い、努めて平静を装いながら、彼女に話しかけた。
「えーっと、まずは落ち着こうね。君の謝罪は受け入れた。だから、もう怖がらないでいいから、落ち着いて聞いてほしい」
そう言うと、少女はゴクリと唾を飲み込んでから、
「は、はい……」
「君はアーニャちゃん……いや、アナスタシアの修道院時代の、その、お友達? なんだよね?」
途中からアナスタシアの方を振り返って確認すると、彼女は力強く頷いた。但馬は続けた。
「それなら、君がアナスタシアの過去を知っていても当然のことだし、使用人の君が主人に問われてそのことを話したとしても、自然な成り行きだと思うから、もう気にしないで良い。俺は君のことを許すし、起こってしまったことは仕方ないと思う」
「す、すみません……」
「ただ、俺は君のことを何も知らないから、ちょっと聞きたいんだけど……君は修道院に居たそうだけど、どうして今、貴族の使用人としてここに居るの? アナスタシアが院から抜けたあと、君の身に何があったんだろうか」
それは、もしも彼女の身に何かのっぴきならない出来事があって、イヤイヤご主人様の命令を聞いているのであれば、自分が助けになれないだろうかと思って聞いたことだった。
だが、それに対して返ってきたのは、まったく予想外の言葉だった。
「それは……2年ほど前に、修道院が潰されて……」
「……へ?」
修道院って潰れるような物なのだろうか? 教会とか聖職者が潰れないように管理してるものだと思ってたのだが……但馬が首を捻っていると、更に思いがけない言葉が出てきて、彼は思わず吹き出しそうになってしまった。
「……2年前に主教様がやってきて、修道院の不正の証拠を突きつけ糾弾し、お取り潰しになられたのです」
アナスタシアから軽く話を聞いてただけでも、その修道院が不正の温床だったのは間違いないだろう。だが、そこに主教がいきなりやってきて、水戸黄門よろしく不正を正しただなんて、なんだか話が出来過ぎてるなと但馬は思った。しかし……
「主教様って……あ、ああ! リリィ様かっ」
それを思い出して、あらゆる疑問がストンと腑に落ちていった。
2年前、事件後にアクロポリスへ帰還したリリィは、リディアで出会った少女から聞いた話を覚えていて、不届きな修道院に鉄槌を下したのだ。
その少女の不幸な生い立ちに憤りを覚え、調べて見たらアクロポリスには子供たちの性を搾取するためだけの施設があちこちにあり、自分の管理する修道院が隠れ蓑にされ、貴族たちが乱痴気騒ぎするだけの施設として利用されていた。
リリィは皇都へ帰るなり、あらゆる手段を使ってその手の施設を炙りだし、その一つひとつを全部潰して回ったそうである。その第一弾がアナスタシアの居た例の修道院だったそうだ。
ただ、修道院に限らずそう言った施設を潰して回った結果、行き場を無くした少年少女が溢れてしまい、孤児院だけでは救いきれなくなった。そこでリリィは貴族に命じて、おまえらが悪いんだから、子供たちの面倒をちゃんと見るようにと、命令を下した。
「それで、私はヒュライア男爵様に拾われ、お嬢様の使用人として仕えさせて頂けるようになったのです……」
「そうだったのか」
あのヒステリックなお嬢様に仕える羽目になったのは気の毒ではあるが、それは決してイヤイヤではなく、寧ろ救済措置としてのことだったのだ。
リリィの一連の行動は、彼女の聖人としての名声を更に上げ、皇都で絶賛されているそうである。ただ、周辺国に醜聞を知られることを嫌った皇国は、貴族の間で口にだすことをご法度としたため、遠く離れたアナトリアまでは聞こえてこなかったようだ。
利用していたのが貴族なのだから、そりゃあ口も固くなることだろう。但馬はそれを知ると、苦笑するやら、ため息が出るやら、なんとも微妙な気分になった。
それを聞いていたアナスタシアは十字を切り、神への感謝を口にしたあと、
「……でも、主教様はどうして突然そんなことを始めたんだろう?」
主教と言えどリリィはまだ子供で、とても政治的なことをする人物ではなかった。それに、教会がこっそりと不正を管理していたのだから、本来ならはるか雲の上の彼女の耳にまでは、その話は届かないはずなのだ。
きっとアナスタシアは都合が良すぎると思ったのだろう。それは但馬も同感だったが……彼は今度こそ吹き出した。
「だって、そりゃあそうだろうよ。リリィ様は直接、被害者から話を聞いたんだから」
「……? もしかして、先生が言ったの?」
彼女は恐らく、メディアにリリィと同行した但馬が言ったのだと思ったのだろう。だがもちろんそうではない。
「そうじゃない。そうじゃないって、アーニャちゃん……ルルちゃんだよ」
「……ルルちゃん?」
「ルルちゃんが、リリィ様だったんだよ」
但馬がそう種明かしをしても、アナスタシアは初めは何を言われているのか、まるでチンプンカンプンのようだった。
だがあの当時、店に遊びに来ていた目の見えない女の子のことを思い出し、やがてその女の子が使用人としてリーゼロッテを連れて家にまで遊びに来るようになって……そのリーゼロッテはいつの間にかメディアの女王になったかと思ったら、但馬の会社に就職していたりして……なんであのメイドさんがいきなり偉くなったり、主人を鞍替えしているのか、さっぱりわからなかったが……聞けば彼女は確か勇者の娘であるそうで……
「……あっ」
アナスタシアは呆けたように声を漏らした。勇者の娘がかつて仕えた相手。それは、メディア事件の時にも一緒にいた、リリィだ。
「ああっ」
そして、そんな彼女のことを使用人として紹介した盲目の少女ルルちゃんこそが、リリィだったのだ。
「ああ……そっか。そうだったんだ」
アナスタシアはどうしていいか分からなくなった。ただその事実が戸惑いと興奮と驚きと、そしてどうしようもないほど嬉しい気持ちを連れて来て、感情の制御が効かなくなった。
だから平静を取り戻すためにいつもやるように、彼女は跪き手をギュッと組むと、天に向かって祈りの言葉を口ずさんだ。
「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ……」
アナスタシアが祈りの言葉を口にすると、レベッカははっと我を取り戻し、自分も彼女と共に跪いて神に祈りを捧げた。
そんな二人の姿があまり尊くて、その美しい光景に思わず見惚れてしまいそうになった。
だが、思えば彼女たちの信仰心は、その神様によって一度は踏みにじられたのだ。それでもなお彼女たちは祈りをやめず、こうして今まで生きてきたのだから、信仰とは一体何なのだろうかと但馬は考えないでは居られなかった。
二人の祈りの言葉が辺りに響き渡る。但馬達はそれを静粛に聞き届ける。
やがてアナスタシアは祈りを終え、数瞬の余韻を残したあと、ゆっくりと目を開けてレベッカの方を振り返った。
そして、何も言わずにギュッと彼女を抱きしめると、
「久しぶり。会えて良かった」
と清々しいほどきっぱりと言い切った。
そこに至るまで何があったとしても、もうどうでもいいと言わんばかりに。
レベッカは声を震わせ、
「……ごめんね。ナースチャ。ごめん」
ギュッとすがりつくように彼女の背中に腕を回し、肩をブルブル震わせながら何度も謝罪の言葉を口にした。だが、彼女に謝罪を口にする理由など何もないのだ。その場に居る全員がそれを分かっていたのに、彼女の謝罪の言葉はいつまでも続くのだった。





