カンディア旅行
カンディアはエトルリア大陸南西部にある離島で、イオニア海で最大の島だった。東西100キロ、南北30キロほどの細長い島で、リディア首都ローデポリスからは直線距離にして500キロもあり、当然、お互いの土地からは対岸が見えない、海の彼方であった。
以前はこの何もない大海原を一日100キロずつ、人力のガレー船で渡海していたのはクレイジーとしか言えず、それは沿岸部を通ってコルフ経由で行こうとしても、海流と風に邪魔されるがゆえの苦肉の策だった。
恐らく、世界で始めてリディアに流れ着いてしまった人は、海流に阻まれ帰ることが出来ず、文字通り死ぬ気で船を漕ぎだしたのではないだろうか。
ともあれ、そんな険しい海であったが、帆船による往来が可能になった今では、日に何本もの航路が引かれ、巡航する他の貨物船などと何度もすれ違うほどの、イオニア海航路のメインストリートと呼ぶべき海域になっていた。
カンディア行きが決まると但馬は領地へ連絡して船を寄越させ、それに乗って海を渡った。同行者は但馬とブリジット、アナスタシア、リオン、エリオスの計5名であり、あとは船のクルーが20名ほどで、戦闘要員は少ない。カンディアでは、知名度の低さを生かして大人しくしているつもりだし、きっと大丈夫だろう。ブリジットも居るし……
ブリジットと海辺で散歩をしていてカンディアへの家族旅行を決めた但馬は、その晩に王宮へ参内すると、皇帝に彼女も招待したいと伝えた。多少は渋られるかな? と思っていたが、全然そんなことはなく、皇帝は好好爺のように目を細めると、是非行ってきなさいと即答し、逆にブリジットに但馬の補佐を命じ、但馬には普段からもっと息抜きをしないと駄目だと窘めた。
アナトリア皇帝は、リディア建国時こそ勇者の下に集った各地の豪傑やら冒険家がいて、彼らが王国の基礎をつくる諸将として活躍したのだが、その後エトルリアに従属してからは主家に遠慮して大っぴらに配下は持たず、政務に関わる文官以外に臣下らしい臣下は居なかったらしい。
その諸将も皇帝と同じく老齢の者が多くてとっくに隠居して家督を譲っていたり、他界していたりで、今となっては皇帝直属など、数えるほどしか居ないそうである。戦争に関しては皇太子が、その彼が死んだあとはその配下のマーセルが引き継いだので、但馬は皇帝にとってすごく久々の、そして恐らく最後の臣下になるそうだ。
だからとても期待しているし、期待以上に大切に思っていると言われ、但馬は鼻がツンとすると同時に猛省した。
但馬の記憶の中にあるお祖父ちゃんは既に他界していたが、お祖父ちゃんお祖母ちゃんっ子だった但馬は、その死をすごく悲しんだ。生きているうちに、もっと祖父孝行してあげればよかった。せめて但馬が給料を貰えるくらいの歳まで生きていてくれれば、家族旅行の一つでもプレゼント出来たのに……
但馬はその思いを胸に秘め、今度こそ悔いを残さないようにと心に誓った。
何はともあれ、皇帝陛下の許可が出たので、その日からみんなで旅行の計画を立てて、但馬の船が港に着いたらすぐに旅だった。
船は基本的に夜間航行で進んで、昼間、大海原で停泊。2日目の朝は、日光浴したり魚釣りをしたりして過ごし、また夜間航行で3日目の朝に現地に到着するというプランだった。
生まれて初めての旅行に興奮したリオンは、船に乗り込んでからはハンモックが気に入り、用もないのに寝そべっては、ブランコのようにわざと揺らしてはしゃいでいた。
ハンモックは元は南米熱帯雨林の原住民が使っていた寝床で、恐らく湿気を嫌って生み出されたものだったのだろうが、大航海時代にヨーロッパに広まると、帆船での寝具に使われた。帆船は風向きによって、どちらか一方に傾いて航行しているのが常だったので、固定式の寝床では寝てる間に転げ落ちてしまう。そのため、水平航行出来る蒸気船が登場するまで、ハンモックは寝床を水平に保つのに役だったのだ。
だからわざと揺らすのは本末転倒なのだが、子供が大喜びしている姿には勝てず、ねだられるままにエリオスと左右に別れて、キャッチボールするみたいにブンブン振り回していたら、初めこそ気でも触れたかと言わんばかりにキャッキャしていたリオンも、暫くしたら気持ち悪くなったらしくグッタリしはじめた。
こりゃヤバイと血の気が引いて、ヒール魔法をかけてもらおうと思い、慌てて女部屋にブリジットを呼びに行ったら、こっちも似たようなものだったらしく、二人してグッタリと倒れていた。船酔いはヒールでは治らないらしい。
それにしても、ブリジットは正直やらかしかねないと思っていたが、アナスタシアも一緒だとは思わなかった。普段から感情をあまり表に出さない彼女であるから、落ち着いて見えたのだが、実際にはみんなとの旅行でウキウキしていたのだろう。船の上で食べるのだと言って、2日も前からお弁当の仕込みをしているくらいだった。
以降、グッタリする三人をハンモックに固定して、夜中ずっとエリオスと二人で介抱する羽目になった。船旅に慣れてないのだから、もっと警戒してあげるべきだったが、それにしてもはしゃぎ過ぎだろう……
翌朝になると辛うじて復活した3人を連れて、停泊中の船から小型船を下ろして釣りを行った。泳いでも平気かと尋ねたら、サメが出るかも知れないから確かめると、乗組員が一人で大海原に飛び込んでいった。暫く潜水したあと、上がってきてオーケーサインを出すので、おっかなびっくり海に入り、浮き輪に乗ってプカプカ浮いてみた。
何もない大海原を浮き輪一つでプカプカ浮いていると、気持ちいいというよりもずっと怖い気持ちが勝ってきて、ほんのちょっとで但馬はギブアップした。ブリジットもリオンも殆ど泳げないので船に残り、意外だったのはアナスタシアがこう言うのがへっちゃら平気で、乗組員に潜水メガネを借りると、スイスイと海深く潜っていった。
二年前、観光客相手にシュノーケリングが流行った時に、いつかスクーバも流行らせようと思っていたが、仕事にかまけてすっかり忘れていた。技術的にはもうとっくに出来るだろうし、旅行が終わったら早速試してみようと思う。アナスタシアも喜んでくれるだろうし。
その後、エリオスが釣り上げた魚を乗組員が捌いてくれて、海の上でバーベキューを行った。まるで絵に描いたリア充のようで気が引けてきたが、そんなことを考えてるのは但馬だけでみんな本当に嬉しそうにしていた。
やがて、日が暮れてくると、みんなで甲板に寝そべって星を見上げ、そうこうしている内に出航準備をするからと船室に戻された一行は、昼間の疲れが溜まっていたのか、泥のように眠った。
翌朝、陸地発見を知らせる鐘の音で目が覚めた。
大あくびしながら顔を洗いに行ったら、潮風で大爆発したブリジットの髪の毛を、アナスタシアが一生懸命梳かしていた。当の本人はまだ眠いらしく、寝ぼけ眼でヨダレを垂らしながら、
「おあやうごあいまふっ!」
と、酔っぱらいみたいにフニャフニャの挨拶を返してくる。ダラしないと言うか、やはり、こうやって見ると、とても一国のお姫様には見えない。
苦笑しながらエリオスと共に顔を洗って船室に戻っても、リオンはまだ熟睡していた。子供はどんな環境でもぐっすり眠れるからすごい。そろそろ起こしてやらないと、港に着いてしまうのだが……眠りこける少年の顔を見ていると起こすのも可哀想で、もう少し寝かせて置いてやろうかと思ったら……
バンッ!
っと、船室の扉が開いて、ズカズカとアナスタシアが入ってきたかと思えば、ハンモックをゴロンとひっくり返してリオンを床に落っことした。まだ半分寝てて目をシバシバさせている彼を無理やり立たせると、
「ほらっ、もう起きてちゃんとするの」
と言って、アナスタシアは強引に引きずっていった。
普段、別々の部屋で寝ていたから知らなかったが、ちゃんとお姉ちゃんをしているのだなと思って感慨深い。
カンディアには二つの大きな街があり、州都のヘラクリオンと港町のシドニアがそれにあたる。州都には軍港があるので、一般船舶はシドニアに回らなければならないのだが、今回はブリジットが乗っている関係で、船は直接ヘラクリオンへ向かった。
お台場の大砲が歓迎の空砲を撃つ中、船がゆっくりと港に近づいていく。到着すると、慌ただしく兵隊が駆け寄ってきて、桟橋には赤絨毯が敷かれ、ブリジットが姿を表すや否や、軍楽隊が盛大に演奏を開始した。
軍港に勤務する軍人が整列する中、きっちりとしたアフタヌーンドレスに身を包んだブリジットがにこやかに手を振る。彼女は兄であるカンディア公爵の元へ表敬訪問するという名目で、公務のためにやってきたということになっていた。
それにしても、ここまで大事にしなくていいのに……実は、ただの家族旅行のついでですなんてバレたら殺されるんじゃなかろうか。
盛大な軍楽隊の演奏を聞きながら、但馬が引きつった顔をしていると、同じく落ち着かない素振りをしていたアナスタシアが、ソワソワしながら聞いてきた。
「先生……どうして軍隊って音楽が好きなの?」
好きなの? ってのは要するに、一見関係無さそうな軍隊と音楽の結びつきを聞いているのだろうか。
「まあ、元々は軍隊を指揮するための太鼓の音だったようだけど……ほら、戦場だとみんなワーッと鬨の声を上げるでしょう?」
戦場で大人数が一斉に声を張り上げては、命令の声も聞こえなくなってしまうので、代わりに音が通りやすい打楽器で命令を伝えたのが始まりのようだ。だが、それ以上に大事なのは、移動の際にテンポを取ること、行進を助けることだった。
古代ギリシャのファランクスに始まり、近世の戦列歩兵戦術に至るまで、軍隊は密集陣形を好んだが、この密集陣形と言うものは移動している時が一番脆く隙が生じやすい。
例えば、ファランクスという陣形は、右手に槍を持ち、左手に盾を持った兵隊が、お互いに肩がぶつかり合うくらいの距離で密集しながら行進したのだが、それは盾で自分を守ると同時に、隣の兵士もカバーする意味があった。そのため、ファランクスの一番右端は盾で守られていないから、無くても自分の身を守れる最精鋭を置く習慣があるくらいだったのだ。
故に、もしこの密集陣形が、バラバラに移動したらどうなるかは、想像に難くないだろう。突出した列の側面は常に無防備に晒されるので、敵にそこを突かれて、あとはドミノ式に隣の兵士もやられて、中央突破、分断、各個撃破の餌食にされる。
そうならないよう、行進を助けるために太鼓でリズムを刻んだわけである。運動会の入場行進や、二人三脚で1・2・1・2と掛け声をかける、まさにあれ式だ。人間は不思議と、リズムを刻むと団体行動を取りやすい。ただ隣の人と歩幅を合わせて歩くだけでも、リズムがあるのと無いのとでは大違いなのだ。
そしてリズムを刻むと、そこにメロディを乗せようとするのも、また人間心理なのだろう。やがて太鼓の音は音楽と結びつき、オスマントルコ軍による世界最古の軍楽隊が誕生した。それは太鼓のリズムだけでなく、楽器による演奏と歌を用いて行進し、戦意高揚と威嚇のために行われた。
そんなメフテルハーネはスレイマン一世による欧州遠征にも随行し、ウィーン包囲にも参加した。街を包囲されたウィーンの市民は、取り囲むオスマン軍の大合唱に夜も眠れぬ日々を過ごした。きっと当時の人々に強烈なインパクトと恐怖心を植え付けたことだろう。
それは、やがて宮廷音楽に影響を及ぼし、王族に伝わり、ルイ14世が軍楽隊を組織したことが切っ掛けで、欧州各国に続々と広まっていった。因みにモーツァルトやベートヴェンのような名だたる音楽家たちが、こぞってトルコ行進曲という名前の曲を残しているのは、当時それが流行していたからだろう。
そしてそれは丁度オランダ軍が活躍した時期と重なり、各国の軍隊が傭兵から徴兵、つまり国民兵へと切り替わっていく時期だった。国民兵とは、ただの農民や町人なのだから、これをすぐ戦場に送れるように軍隊行動を訓練するのには、行進曲を奏でるのが理に適っていたわけだ。
ナポレオン戦争や南北戦争を描いた映画で、当時の軍隊が砲弾飛び交う激戦地で、整然と行進曲を奏でながら歩いて行く姿は奇異に映るかも知れないが、彼らはそれによって隊列を維持し、士気を高めていたのである。
ヘラクリオンの軍港で歓迎の演奏が終わる。
ブリジットが笑みを絶やさず赤絨毯の上を進み、居並ぶ海兵たちに礼の言葉を述べると、彼らは一糸乱れぬ動きで海軍式の敬礼をし、ついで皇帝陛下万歳と唱えた。
いやー、すげえな、軍靴の音が聞こえて来ちゃうな……と当たり前のことを思いながら、若干引き気味に彼女のあとに続き、お付きの人の振りをして港に降りると、式典は終わり、海兵たちがさっと散っていった。
流石に、姫さまをこんな場所で立たせたまま式典を長々続けるわけがない。そのへんは心得ているようで大いに助かった。代わりに、元々ブリジットはリディア軍の軍曹で、その剣の腕前は音に聞く天才である。当時の同僚たちが集まってきて、ちょっとした同窓会のようになっていた。
一部の上官は知っていたようだが、彼らもまさかあのブリジット・ゲール軍曹がこの国のお姫様だとは知らなかったようで、懐かしさと同時に色々とやらかした過去を思い出したようで、顔を真赤にしながらしどろもどろに会話を楽しんでいた。
但馬は邪魔しちゃ悪いと思い、エリオスと一緒に荷物を運びながら港の端っこへと歩いて行った。アナスタシアと、指を咥えながらブリジットを置いて行っちゃっていいのかな? と後ろ歩きするリオンが続く。
もちろん、置いていくつもりはなく、ここで待つわけだが、
「エリオスさんも懐かしい顔あるでしょ。行ってきたら?」
「いや、俺は傭兵だったからな。見知った顔もあるが、昔話に花を咲かせるような間柄でもない」
「あ、そうなの」
それはそれでちょっと寂しいなと思いつつ、ブリジットの姿を眺めていると、
「……おーい……おーい! おぉおお~~~いっ!! せんせぇ~!!」
っと、どこからか声が聞こえてきた。
なんだろ? と思い、キョロキョロと辺りを見回していると、
「あ……エリックとマイケル」
ぼそっと、隣に佇むアナスタシアが呟いた。
その言葉にドキッとして、目を凝らしてよく見ると、ブリジットを取り囲む人混みの向こう側に、ぴょんぴょん飛び跳ねながら手を振っている二人の男たちの姿が見えた。
「おおーい! せんせー!」「せんせー! おひさしぶりっすー!!」
「おおっ!! エリック! マイケル!!」
かつてのブリジットの321小隊の隊員で、アナスタシアの幼なじみである二人が嬉しそうにこちらに向かって手を振っていた。但馬はそちらに向かって手を振り返すと、思いがけない再会に自然と顔が綻んでいくのを感じた。