駄目かも知れない
その昔、居眠りしたまま終着駅まで運ばれて、うっかり田舎の駅で一晩を過ごすはめになったことがある。虫とかが凄くて、とても衛生的とは呼べないようなその駅のすぐ傍を流れる生活排水垂れ流しのどぶ川が、夏の暑さのせいか独特な色に染まり、なんとも言えない臭気を辺りに撒き散らしていた。
ケミカルな臭いというのは中々慣れないもので、一晩中その臭気に晒されていたくせに、その臭いのせいで目が覚めた。硬いベンチに寝転がり、体がバキバキに痛む中、鼻を使わずに寝ていたのだろうか、喉がカラカラに渇いており、口を閉じればどぶ川の臭気と歯糞と唾液とで、何か得体の知れない化学物質が生成されてるような気分になって涙が出た。
今日の目覚めはその日に匹敵する。
但馬はガンガンに痛む頭を抱えながら、硬い寝床で上半身を起こすと、暫くぼーっとしてから自分の置かれた状況を思い出した。そういえば昨日、わけのわからないゲーム世界にいきなり放り込まれて、紆余曲折の末に知り合った兵隊と一緒に酒を飲んでいたような……あれ? その後どうなったんだっけ?
そういえばさっきからトンカチで叩かれたようにズキズキと頭が痛むし、波に揺られているかのように絶えず体がフラフラするし、今にもこみ上げてきそうな吐き気といい、もしやこれが世に言う二日酔いと言う奴だろうか……
口の中は寝ゲロでも吐いたのだろうか、やけに酸っぱい。寝不足のなのか瞼がトロンと重たく、寝起きだと言うのに最悪な気分だった。気持ち悪い……ただただ気持ち悪い。
それにしても、まさかこんな異常事態に巻き込まれておきながら、たった1日足らずで前後不覚に陥ってしまうとは……しかも飲み会で。どこのサークルの新歓コンパだ。ここは新宿駅前じゃないんだ。ぶっちゃけ、命の危険だってあったんだぞ……反省しつつも、とりあえず、ここがどこなのか調べなきゃと、但馬はうめき声を上げながら周囲を見回してみたのであるが、意外や意外、そこは良く見知った場所であった。
「つーか、二日続けて営倉入りかよ……とほほ」
良く見知った場所ではあったが、全然ホッと出来なかった。
これはなんだ、酔っ払いが留置所にお泊りするとか言う、伝説のあれだろうか。聞くところによると、急アル患者が寝小便を漏らす危険があるから、ぶちこまれた人は例外なく紙おむつを装着させられると言われている。
但馬はドキドキしながら自分の下半身を覗きこんだ。
別に紙おむつなど履いておらず、漏らしてもいなかったので、今度こそホッとした。
しかし、現状認識がある程度済んだので、とにかく、ここから出してもらわなきゃと腰を上げた瞬間……
「……いたっ……いたたたたたたたたっっ!! なにこれ、痛いたい!?」
突如、腹部に刺すような痛みが走って身を捩った。硬いベッドに寝かされていたから、腰が痛んでるとか、そういう感じじゃない。純粋に、おなかの中で何かが大暴れしている。内臓が引きつるような感覚がして、腹筋がビクビクしていた。いま、ケツからビュッと、何かが発射しかけたような……必死になって菊門を絞める。間違いない、これは10年に1度カリフォルニアの海に現れるというビッグウェンズデーだ。
「あ゛あ゛あ゛あぁあ゛ぁ~~~!!! いたたたたたたた、いたたた、いたああああ!! 看守さん! 看守さんはいずこ!?」
寒くも無いのに冷や汗が出る。いつの間にか額にびっしょりと汗をかいていて、それが目に入ってじんわり染みた。但馬がのた打ち回っていると、看守の代わりに詰めていたのだろうか、ブリジットがひょっこり現れて、
「あ、起きたんですか、勇者さん……何やってるんですか。床に寝っ転がって」
「ヨガでもやってるように見えんのかよっ!? いたたたたたっ!! おなか、おなか痛いから、鍵開けて……」
「え?」
「うんちっ! うんち漏れちゃうから、出して!! うんち出すから、出して!!」
「ええ!? ……えーっと、その、あの、トイレならそこに……」
すると、ブリジットは顔を真っ赤にしつつ、若干戸惑いながら、営倉の片隅を指差した。見ると部屋の隅っこに、底が深めの丼みたいな物体がある。最初に営倉にぶち込まれたときから、その存在には気づいていたが、形状といい大きさといい、タンツボにしか見えなかったのだが、どうやら違うらしい。
もしやこれがかの名高きUMR……もといOMRであろうか。名前は知っているが、実物を見るのは初めてだった……って言うか、え? これに出すの? 身がはみ出ちゃうよ?
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ、こんなの使えないよ! 大体、ここ丸見えじゃないか」
「そりゃ営倉ですから」
「良いから、ここを開けてくれっ! ちゃんとしたトイレに連れてってっっ!!」
「仕方ないですねえ……」
肛門の辺りを揉み揉みしながら、へっぴり腰で営倉から出ると、但馬は立っているのもやっとの様子でブリジットにしがみ付いた。
さすがにこれはただ事ではないなと感じたブリジットは、それ以上は何も言わずに但馬を引っ張るように詰所に連れてきてくれた。良かった、助かった。しかし、ほっとして腹筋を少しでも緩めたら間違いなく死亡だ。あとちょっとの辛抱だ、頑張れ……自分に言い聞かせながら、但馬は必死に腹痛に耐えた。
しかし、異世界は無情である。彼女は部屋の片隅の衝立を指差して、
「トイレはあそこです」
と言った。
「え? あ、あ、あそこ?」
「?? そうですけど?」
キョトンとした顔で彼女が言う。トイレと言ってるが、間仕切りは衝立一つしかなく、そもそも部屋が別れているわけでもないのだ。これじゃ、さっきの営倉に衝立がくっ付いただけの違いしかないでは無いか……但馬は信じられなくて眩暈がしたが、ブリジットの顔を見て、からかわれている訳では無いのは分かった。
そういえば、一昔前の中国とかも凄まじかったと聞いたことがある。これが生活レベルの違いか……泣きそうになりながらも、もはや一刻の猶予も無い。但馬は諦めて腰をプルプル震わせながら、内股で間仕切りの中へと足を運んだが……
「トイレって……これ?」
そこには、先ほど営倉の中にもあったOMRが置かれているのであった。
『異世界に あると思うな 水洗便所』
頭の中で心の俳句が響き渡る。今は亡きお爺ちゃんの顔が浮かぶ。ああ、お爺ちゃん……小さいころ、良く遊んでくれた、やさしいお爺ちゃん……今、そっちへ行くよ……
但馬は一瞬、意識を失いかけたが、刺すような腹痛に我に返り、泣きながらズボンを下ろすと、もはや一刻の猶予もなく押し寄せてくる便意に抗いながら、OMRの上でウンコ座りした。
ブリュッ!! ブリリリリリッ! ブリョッ!! ズボボボボボ! ドボン!!! ブリュリュリュリュリュリュドボドボドボドボドボドボドボズボンズボン!!!!
「ああ゛あ゛ああ゛ああ゛あ゛あ~~!!! らめっ! 聞かないでっ! 私の恥ずかしい音っ! 聞かないでええええぇぇぇっ!!!」
「はいはいはいはい……」
呆れた素振りを隠そうともせず、ブリジットが部屋から出て行った。
但馬は腹の中身が全部出ていってしまいそうな、強烈な便意に晒され、脂汗を垂らしながらOMRに便をぶちまけた。それはもはやただの便意ではく、激痛を伴う急性胃腸炎とかそんな感じのもので、何度も意識をもってかれそうになった。
そして、ちょっとこれはタダの下痢じゃないな……と思ったところで、待ってましたと言わんばかりに胃が痙攣しだして、今度は猛烈な吐き気に襲われた。
息も絶え絶え、但馬は向きを変えると、自分の便の上に大量の嘔吐を浴びせかけた。そのあまりにグロテスクな吐しゃ物と下痢便のハーモニーに、胃袋も第二射待ったなしである。
「お゛ええ゛ぇぇ~~!!! おええ゛えぁあ゛ぁあ゛~~~!! お゛ええぇえ゛~~……!!」
間違いない、これは食中毒か何かだ。
迂闊だった。昨日、PXでシモンに勧められるまま、何も考えずに飲み食いしていたが、よくよく考えてもみれば、そんなの自殺行為だ。海外旅行でまず真っ先に気をつけねばならないのは、現地の水であるなんてことは世界の常識であったろう。
しかしここは異世界、ゲーム世界、良く分からない世界。そんな常識など、すっぽり抜け落ちていた。
水か、酒か、サラダか、料理か……思い当たる節が山ほどある。
結局、その後、但馬は30分間に渡って、上から下から大洪水の悲劇に見舞われ、OMRから離れることが出来なかった。これ以上中身を出してしまったら、OMRの中に入りきらないのではないか? と、朦朧とする意識の中で、危惧していたところでようやく収まった。恐らく、体の中の物をOMRの中に全部出し切ってしまったのだろう。OMRは今、但馬のものでグチョグチョになっていた。
ブリジットは時折、詰所に帰ってきては、え? まだやってるの? と言った感じでドアをバタバタさせていたが、さすがに20分くらい経つと、但馬の様子が尋常でないことに気づき、心配する声を度々かけてきたが、ロクに返事すら出来なかった。
体の中身を全部ひり出すと、疲労困憊の但馬は壁に持たれかかるのがやっとであり、もはや尻を拭く余裕も無くなっていた。ケツ丸出しのまま体力の回復を待つ……何しろOMRには便座がついていなかったので、体を落ち着ける余裕が全く無かったのだ。
完全に消耗しきった但馬が、荒い息を吐いていると、ブリジットが何度目かの帰還を果たし、
「あの~……大丈夫ですかあ?」
と、呑気な声で聞いてきた。
大丈夫と言えば大丈夫だし、駄目と言えば駄目だろう。もう出すものは何も無いから、詰め所の床的には大丈夫と言えよう。但馬の肛門的には手遅れだ。それより、今大変なことに気づいた。グロッキーになりながら但馬は呻くように言った。
「紙が無い……」
「え? 紙?」
さっきまで、出すことばかり考えていたから、周りを見回す余裕がなかった。トイレ……と言うか、衝立の中には、OMRがポツンと置かれている以外には、あとは観葉植物と、変な棒切れがぶら下がっているだけだった。
「紙が無いんだ。すまないんだけど、ブリジット、トイレットペーパー持ってきてくれないだろうか」
「トイレット……ペーパー? って、なんですか?」
「紙だよ、紙。ケツ拭く紙が無いんだよ」
イライラしながら但馬が言う。しかし、帰ってきた言葉は、よもや想像すらしていなかった、実に無情なものであった。
「紙って……あの紙ですか? 何言ってるんですか。そんなものを使う人、聞いたことありませんよ?」
但馬は絶句した……
『異世界に あると思うな 便所紙』
心の俳句が聞こえる。おじいちゃんが手招きしている。いけない、意識が持っていかれる……
「いやいやいやいや、あり得ないだろう!? じゃあ、おまえら一体、どうやってケツ拭いてるわけ!? ウンコしたあとそのままパンツ履くわけ!?」
「そんなわけ無いじゃないですか」
ブリジットは明らかに困惑しきっていたが、暫く考え込んだ後、仕方ないと言った感じに答えた。
「そこに、ヤツデの葉っぱがありますよね? それ、使っていいんですよ?」
「……は?」
葉っぱ? 何言ってるんだ、そんなものどこにあるって言うんだ……と思ってよく見たら、片隅に鉢植えが置いてある。もしかして、これ、観葉植物じゃなくて、ケツ拭くための葉っぱだったの? って言うか、ケツを葉っぱで拭くってどういう世界だ。あり得ないだろう。とあるドライバーが高速道路の渋滞で野糞してうっかり紙を持ってくるのを忘れ、仕方なくその辺の葉っぱで拭いたらなんかやばい奴で、肛門がありえないくらい腫れあがって入院したと言う話を思い出した。
いやいやいや、無理無理無理、出来ない出来ない出来ない!
「それか、そこに掻きだし棒が立てかけてありますよね? それで拭ってください」
「掻きだし……棒?」
もの凄く不穏な響きの言葉である。その棒で一体、何をどう掻きだすと言うのだろうか……考えるだに恐ろしい。そんな棒が、今、但馬の前にぶら下がっていた。
長さはおよそ50センチくらいの、耳かきというか孫の手のような形状をした棒である。先端は角を落として丸みを帯びており、やすりがけをしてあるのか表面はツルツルとしている。しかし先へいくにつれて色が段々黒ずんでくるのが、但馬の心を不安定にさせた。
ちょっと待ってくれ。これはマイケツ掻き棒じゃないのだろう? みんなのケツを掻いた棒なのだろう? こんなものでケツを掻いてしまったら、誰かの大腸菌と但馬の大腸菌が渾然一体となって、どんな化学反応を起こすか分からないではないか。
「あ、あ、あ、アホかああああ!!! こんなんでケツ掻けるわけ無いだろうが! 誰が使ったか分からないのに、汚すぎるだろうがっ!!」
すると、むっとした声でブリジットが返すのである。
「汚くないですよ。さっき使った後、ちゃんと洗いましたもん」
「なん……だと……?」
何を言ってるのか分からなかった。事実に理解が追いつかない。
え? うそ、これ、使ったの? ブリジットさん(17)使ったの? 今さっき使ったの?
この世界は狂っている。どうかしている。
この、先がほんのり黒ずんだ棒に、今、花も恥らう17歳の排泄物が、微粒子レベルで存在する……
いや、微粒子が存在するのだ。
ビターーン!!!
と音を立てて、但馬は便所の床に突っ伏した。
「勇者さん……? 勇者さん!? 大丈夫ですか? 勇者さん!?」
衝立の向こうからブリジットの声が聞こえる。
駄目かも知れない。
あの魔法の威力からして、この世界で自分は、強くてニューゲームくらいの軽い気持ちで余裕ぶっこいていた。この世界で身を立てて、勇者の謎を解き明かし、元の世界に戻るんだと思っていた。それが何たる人生ハードモードだ。まさか、こんな落とし穴があるとは思わなかった。
心がぽっきりと折れた但馬は薄れ行く意識の中、焦点の合わない視線で掻きだし棒を見つめていた。
間もなく自分は意識を手放し、糞のついたケツを晒したままブリジットに救出されるのだろう。そして意識が戻った暁には、もの凄い軽蔑の眼差しで見下されるに違いない。何たる屈辱、それを思うと今から興奮……もとい、胸が苦しくなってくる。だがその前に、しゃぶるべきか嗅ぐべきか、それが問題である。
そして但馬は便所の床に轟沈した。





