当たり前の生活
ブリジットがやって来たので、仕事を早引けすることを部下の店員に告げると、アナスタシアは彼女と共に外へ出た。
夕刻にはまだまだ早い頃合いで日は高く、二人共、店の制服を着ているせいでかなり目立ち、通り過がりの通行人がジロジロと遠慮なしの視線で見てきた。そのため、ブリジットは顔がバレないようにコソコソと目深に帽子を被って、アナスタシアの背中に貼り付いた。
アナスタシアは彼女に背中を貸しながら、目立つのが嫌なら、家についてから着替えれば良かったのに……と思ったが、言わぬが花であると黙っていた。
正体を明かしてから、ブリジットの生活は一変した。人間の記憶力なんて不確かなものなのだから、普通ならばちょっと顔バレしたところで、さして変わらないはずなのだが、但馬がカメラを作ったせいで、ブリジットの顔は一般人にも良く知れ渡ってしまった。
周知のために、皇帝と兄の3人で記念撮影をしたからだ。
それは暫くの間インペリアルタワーのエントランスに飾られ、誰でも拝むことが出来た。元々、市街のあちこちをうろつき回っていたブリジットは、但馬の護衛としてそこそこ顔を知られており、そのためどこへ行ってもすぐに正体がバレて騒ぎになった。
そんなわけで、護衛としての役目が果たせなくなった彼女は会社を辞めさせられ、王宮に閉じ込められて、滅多に但馬に会えなくなってしまったわけである。但馬自身も忙しくしていたので尚更だ。
おかしい……どうしてこうなった? と彼女は嘆いたが、人生ままならないものである。
但馬が帰ってくると連絡が入ったのは昨日のことだった。領地経営を始めてからは、首都と領地とを行ったり来たりする生活になり、たまに帰ってきても市内を忙しく飛び回り、すぐにとんぼ返りしたりで、あまり家に寄り付かなくなった。
そのため、連絡が入ること自体が稀であり、今回めずらしく予定を伝えられたから、そのことをブリジットに伝えたら、ぜひ日頃の苦労を労わなくてはと、それを口実にして家で会食する提案をしてきた。
但馬を出迎えるために、メイド服に身を包み、ウキウキしながら料理の手伝いをするブリジットを見ていると、なんだか微笑ましくて、言ってよかったとアナスタシアは思った。でも、代わりに自分がやることが無くなってしまって、手持ち無沙汰だった。
ブリジットは、シモンのお袋さんに料理の経験を問われて、料理は殆どしたことがないと言っていたくせに、刃物の扱いだけがやたらと上手くて逆に怖かった。お袋さんを質問攻めしつつ、真剣に料理に取り組んでいる彼女を見ていると、本当に但馬のことが好きなのだなと思って、応援してあげたいような、そうでもないような、なんとも複雑な思いがした。
もし、但馬がブリジットと結婚でもして、王様になってしまったら、自分は一体どうなってしまうのだろうかと、捨てられてしまうんじゃないかと、絶対そんなことは無いだろうに、嫌なことを考えてしまうのだ。
いつからか但馬は故郷に帰ると言わなくなった。
以前、自分の帰る家を探してると言っていた但馬に、もしも帰る方法が見つかったら連れてってと、お願いしたアナスタシアは、イオニア海を一周してきたり、熱心に星を見上げたりしてたはずの彼が、いつの間にか全然その話をしなくなり、仕事に没頭していることが気がかりだった。
どうしたのだろうかと思って尋ねてみたが歯切れが悪く、のらりくらりと交わしながら、場所は分かったけど帰り方が分からないとかなんとか、尻すぼみなセリフを吐いては、言いたく無さそうにしていた。目が泳いでいた。
だから、それ以上無理には聞けず、おかしいなと思いながらも放置していた。
それ以来、但馬は根を詰めて働くようになった。市街の電化を進め、新しい発明で暮らしを良くしたり、帝国になったアナトリアのために様々な助言をした。領地を得てからは、そこに作った街を大きくするために、毎日忙しそうに飛び回り、首都と領地を行ったり来たりするようになり、次第に家に寄り付かなくなっていった。
彼は一体何をそんなに焦っているのだろうか。何もかもを置き去りにしてしまいそうなスピードで、どこへ行こうとしてるのだろうか。
それとも、もしかして自分たちの知らないところに家でも建てて、新しい生活を始めてしまったのではないだろうか。もしもあっちに女性でも作って、自分が置いてけぼりにされたとしたら、どうすればいいんだろうか。
そんなことは無いはずだ……そんなこと考えちゃいけないと、そんなことを考えていたら、玄関の呼び鈴が鳴った。
これも但馬の発明で、電気を使った来客用の呼び鈴なのだが、彼は自分の家なのに帰ってくると必ずそれを押してから入ってくるのだった。そんなよそよそしいことしなくてもいいのに、どうしてなのか、そうしないと落ち着かないそうである。
「帰って来た」
と、少々頬を赤らめたブリジットがいそいそと玄関へと向かい、アナスタシアもそれに続いた。
恐らく、工場に寄ってから帰ってきたのだろう、親父さんと仕事の話をしながら玄関の扉を開けて入ってきた但馬は、いきなり二人のメイドが出てきて面食らった感じであったが、ともあれ、久々の再会に喜びを露わにしたブリジットを相手に、満更でもない様子で答えていた。
ただ、リビングに入って食卓に豪勢な食事が用意されてるのを見ると、
「うわっ、これ全部、ブリジットが作ったの? マジで!? ……どうしても食べなきゃだめ?」
「うっ……どうせ、私なんかの料理はお口に合いませんでしょうが」
などと口走っては、お袋さんにひっぱたかれていた。
その後、食事の席では非礼を詫びるつもりか、頻りに料理の出来栄えを褒めていたが、嬉しそうな彼女とは裏腹に、但馬は少しやつれていた。
多分、ブリジットの作った料理が不安だったわけじゃなく、つい口に出てしまったが、どんな食事もあまり取りたくなかったのだろう。最近の但馬はとにかく小食なのだ。
たまにしか帰ってこない但馬であったが、それでも家にいる時は、色々と用事を言いつけてもらおうと、アナスタシアは彼の周りをうろちょろしながら、手伝いの機会を窺った。
しかし、家に居る時の但馬は基本的に書類仕事しかせず、書斎に篭っては何かを書いているだけなので、積極的にお手伝いをするというわけにもいかなかった。
だから、せめて美味しいものでも食べてもらおうと、奮発して色々作ってみたのだが、彼はご飯ができても書斎から出てこようとはせず、夜食を持って行っても、
「ごめん、物を食べると眠くなっちゃうからさ」
と言って、固形物は食べたがらなかった。
朝、寝起きに何か口に入れるが、夜は殆ど何も口にしない。そして、仕事に集中するために眠らないようにしているのは本当らしく、深夜、街中が寝静まっても、彼は書斎でずっと一人で仕事をしていた。
ごはんを食べず、毎日殆ど眠りもせず、仕事に埋没している但馬を見てると心配になったが、その姿がかつての自分の父親と重なってしまい何も言えなかった。彼の体が心配なのだが、もしも言って邪険にされたらと思うと怖いのだ。
新しい発明をすると何日も帰らないこともあった。領地へ出張に行くことが多くなると、ちゃんと食べてるのか、ちゃんと寝ているのか心配になった。
でもそれを確かめるすべも、聞く勇気もなく、せめて以前のように、仕事をしている部屋で一緒に居られたら少しは安心できるのだが、最近はリオンの目を気にして甘えづらくなった。自分は今はもうお姉ちゃんなのだ。
リオンは、たまにしか帰ってこない但馬によく懐いていた。多分、誰が一番えらいのか分かっているのだろう。但馬の膝の上に座って、気を引こうとする姿を見ていると、本当の親子のように思えた。
『すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、
「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」
女は言った、
「主よ、だれもございません」
イエスは言われた、
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」』
聖書の一節をリオンが読み上げると、但馬は感嘆のため息を漏らした。
「はぁ~……暫く見ない間に、もう、こんなに読み書きできるようになったの? 子供の成長は早いっていうけど、これはすごすぎやしないかい」
褒められたリオンは嬉しそうに頭を撫でられていたが、何故かそれ以上に親父さんの方が誇らしげに、
「本当だなあ。まだまだ小さいのに、こんなに賢いだなんて……はっ!? もしやこの子、天才なのでは!?」
デレッデレになりながら、小さいリオンを褒めちぎっていた。なんでこんなに好きなの? と、逆に心配になるくらいリオンが大好きな親父さんは、ジジ馬鹿が加速していた。最近では但馬が居なくても、休日には玩具を持って遊びに来る。
そんな彼も目の下にクマを作って、あまり眠っていないように見受けられた。
この人は、もう仕事が楽しくて楽しくて仕方ないといった感じで、お袋さんもついに諦めて何も言わなくなった。男の人は子どもと同じで、何かに夢中になると言っても聞かないんだと、彼女は呆れながらそう言っていた。
もしかして、但馬もそれと同じことなのだろうか……だとしたら、やっぱり邪魔してはいけないのだろうかと、そんなことを考えながら、食後の団欒を遠巻きに見ていたら、同じく入りづらそうにしていたブリジットが話しかけてきた。
「あの聖書はアナスタシアさんが作ったんですよね」
「うん」
「凄いですね」
「ううん。凄いのは、先生だよ」
自分が聖書の内容を覚えていたのは、覚えていなければやってられなかっただけなのだ。それを書き起こしたのは、聖職者がやっていたのを真似ただけなのだ。それが人のためになるなんて、これっぽっちも考えたことはなかった。
アナスタシアが頑張っていたのは、単に但馬を見習っていただけだ。
メイドカフェはあんなのだが、S&H社のれっきとした直営店であり、今では市内に5店舗まで増えていた。アナスタシアはその統括マネージャーであり、全ての直営店を束ねる責任者として一生懸命働いた。
それから護衛として。エリオスは護衛長として常に彼に付き従い、離れに住んではいるが、家の中には入り込んでこなかった。だから、アナスタシアは自分が最後の砦なのだと思って、必死になって剣の腕を磨いた。
そんな時、活版印刷という技術を開発した但馬が、アナスタシアに仕事を持ちかけてきた。薄く丈夫で生産性の高いパルプで作った紙は、羊皮紙よりも本にするのに適しており、聖書みたいな分厚い本こそこれで大量生産した方がいいんだとのことだった。
仮に何を作るのだとしても断ることは絶対にしなかっただろう。アナスタシアは但馬の提案を受け入れると、すぐに自分が書いた聖書のコピーを元に、活字を並べる仕事を始めた。
そうして、朝はトレーニング、昼はカフェ店員、夜は植字の仕事という生活を続け、ついに世界初のパルプ紙による聖書が完成した。
活版印刷によって作られた聖書は、それまでの高価なものとは違って非常に安く提供され、国内の敬虔な信者を喜ばせた。そしてアナスタシアはその作者として、いろんな人から感謝された。
彼女は、自分がこんな風に他人から感謝されるような日が来るなんて、夢にも思わなかった。
だから、聖書を暗記し、それを描き起こしたアナスタシアを、みんな凄いと言ってくれるが、凄いのはやっぱり自分じゃないと、彼女は思っていたのだ。
ブリジットが一生懸命料理をして、みんなに手料理を振る舞ってくれた会食は、和やかなムードで成功に終わった。最近はまるで修行僧みたいに食事を避け、働き詰めていた但馬も珍しくたくさん食べて良くしゃべって、本当に楽しそうにしていて、アナスタシアは心の底からホッとした。
しかし、長旅の疲れが出たのだろうか、食事を終えて、リオンや親父さんたちと楽しくやっていた彼が、いつの間にかソファでウトウトとし始め、やがて眠ってしまい、パーティーはお開きになった。
こんな機会でもない限り、滅多に会うことも出来なくなったブリジットは、きっともっと一緒に居たかったろうに、そんな素振りは一切見せず、
「今日はとても楽しかったです。先生が帰ってくることを教えてくれて、ありがとうございました」
と言うと、王宮へと帰っていった。
玄関を開けると家の外には近衛兵たちがズラリと並んでおり、彼女の行動は全部お見通しだったことが窺える。その数の多さたるや、改めて彼女がお姫様なのだなと思うと同時に、そんなお姫様と普通の友達みたいに付き合ってる自分を客観視して、夢でも見てるんじゃないかとアナスタシアは思った。
でも、但馬と一緒にいればこれが当たり前の生活なのである。
親父さんとお袋さんを通りまで見送って、離れに住んでいるエリオスに挨拶してから家に戻ると、但馬と一緒にソファの上で、リオンがネコみたいに丸くなって眠っていた。起こさないようにそっと抱き上げて部屋まで運び、ベッドに寝かしつけてからリビングに戻っても、彼はまだ眠っていた。
このまま朝まで目を覚まさないのだろうか。眉間には深い皺が寄っていて、悪い夢でも見ているかのようだった。その皺は自分の専売特許だったはずなのに、いつの間にか、但馬のほうがそう言う顔をすることが多くなっていた。
じっとその皺を見つめていたら、但馬が急にうなされて、何かを探すかのように手をバタつかせた。宙を切るその手を握ると、ギュッと握り返してきて、それで安心したのか唸り声は鳴りを潜め、穏やかな寝息に変わった。
手を握りしめられて身動きが取れなくなった。でも、それで彼が安心して眠れるのであれば、それでいいだろうと彼女は思った。
活版印刷で大量に刷られた聖書は、物珍しさも手伝って、すぐにベストセラーになった。但馬は、その儲けを印税という形で、アナスタシアに入るようにした。
だから、もう間もなく、借金が完済できてしまう。
そうしたら、彼との関係はどう変わってしまうのだろうか。もしそうなったら、自分は彼と居てもいいのだろうか。いつか言っていたように、彼の故郷へ連れて行ってはくれないのだろうか。
もうすぐ自由になれるというのに、アナスタシアはそれが解放とは感じられず、逆に不安で仕方がなかった。