はじめての領地経営
戦争には公正と不正がある。戦争に至る十分な理由と不十分な理由がある。戦争について間違いなく言えることは、それは戦争を行う双方が、自分の方が絶対に正しいと思っていることだけであり、それが正しいかどうかを決めるのは、戦争当事者ではない。
その戦争が正当かどうかを判断するのは、それじゃ一体誰なのかと言えば、それは中世のヨーロッパ社会においてはローマ教皇だった。教皇が間違っていると言えばそれは間違いであり、戦争当事者は即刻戦争をやめなくてはならない。さもなければ四方八方から袋叩きに遭っただろう。
5世紀末、度重なる蛮族の侵入と異教徒の襲来によって西ローマ帝国が崩壊すると、ローマ・カトリック教会も危機に瀕した。だが、その頃には侵入してきたゲルマン人がキリスト教に感化されており、教会は彼らを正当なヨーロッパの支配者であるとお墨付きを与えて自分たちを守ってもらった。
この時期、教会にお墨付きをもらったキリスト教国家がポコポコと生まれ、これが中世封建社会の始まりと言われている。彼らは信仰を得たため、教会の言うことは何でも喜んで聞き入れたのだ。
教会はヨーロッパから敵を追い出すために、蛮族や異教徒ならいくら殺しても、どれだけ奪っても罪にはならないと説いた。すると、戦争をすればするほど儲かったため、やがて戦争は興業と化し、国王達は金儲けのために好んで戦争を行うようになった。
例えば有名な十字軍と言うものは、建前上異教徒に不当に奪われた土地を奪還するのが目的だと言ってはいたが、実際には国王たちが談合して、略奪を行うのが本当の目的であったのだ。
なにはともあれ、こうして自分たちの安全を取り戻した教会であったが、ついにヨーロッパから外敵を全て排除することに成功すると、逆に困った事態が起こり始めた。
国王達はその頃になると、戦争がなければ国が成り立たないほどそれに依存しており、何かにつけて戦争の口実を探していたのである。だが教会はその性質上、同じキリスト教国同士で争うことを禁じねばならなかった。
そこで教会は、自分たちに反抗的な国家を見つけては、彼らは同じキリスト教徒だが異端であると断じて、異教徒や蛮族のように殺してもいいことにした。
これがいわゆる異端者狩りと言うものの始まりで、ヨーロッパの国王達は戦争をしたいがために、知らず知らずのうちに教会にその敵を選ぶ権利を与えてしまったわけである。
これ以降、ヨーロッパでは他国に侵攻をする場合、教会にその正当性を認めてもらわねばならず、そのための大義名分を必要とするようになっていく。その戦争に至る理由が十分でなければ、教会に戦争をしちゃ駄目だと言われてしまい、逆らえば異端者であると言われて、ヨーロッパ中からフルボッコにされてしまうと言うわけである。
それにしても、軍隊も持たない教会が口先だけで介入してきたところで、そんなの無視すればいいだろうに、どうして国王達は黙って言うことを聞いたのだろうか。
現代でも国連は軍隊も持たず、なんの実行力も持っていないのに、我々はそれを無視することが出来ない。それと同じことで、本当のところ大国であればこれを無視することは可能であるが、実際にそうしてしまうとリスクを伴うから、なかなか踏ん切りが付かなかったと言うわけである。日本もかつては朝廷が同じような役割を担っていたから、なんとなくイメージが湧くのではなかろうか。
ヨーロッパではカノッサの屈辱と言って、教皇に対して屈辱的な謝罪を行うはめになった皇帝の逸話が残っていたり、日本では幕末に朝敵にされた長州軍や幕府軍の顛末が伝わっている。
さて、大昔の話はここまでにして、この世界においてローマ・カトリックに相当するのがエトルリア皇国だった。
皇国はこの世界では、聖女リリィが建国したとされる人類初の国家であり、世界樹を擁し、そこから産出する聖遺物を与え、貴族化した領主たちを各地に封じた。そんなわけで、この世界の殆どの国家は、エトルリア皇国の臣下から始まっているわけで、いざ鎌倉と言われてしまうと弱いわけである。
リディア王国も独立国家だったとは言え、元を正せばやはりエトルリア皇国の系譜に連なる地方領主から始まっていたため、皇国を主家と仰いでいた。王国時代は本国という言葉が示していた通り、最大限皇国に遠慮をしていた。
そもそも、リディア王は国王を名乗っていたが、実際にはエトルリアから伯爵位を賜っていた爵位持ち貴族であったのだ。
そのため、リディア王には騎士以外の爵位の叙任権が無く、リディア貴族は基本的にみんな騎士だった。爵位を相続させたり、それ以上の爵位を得ようとしたら、皇国の首都アクロポリスまで行かねばならなかった。
ただ、アクロポリスは遠すぎて、それじゃ面倒なので、国王は臣下に領地を与える場合に限って、准男爵という爵位を新設して与えていたのであるが……しかし、帝制アナトリア歴元年、アナトリア皇帝ハンス1世は、直系の孫であるウルフ・ゲーリックを結婚させると、公爵としてカンディアへ封じた。
通常、公爵位は王族に与えるものであり、これによってリディアは皇国からの独立と、カンディアの領有を世界に示したわけである。以降、局面は新興帝国アナトリアとエトルリア皇国の、カンディア領有を巡った争いへと発展する。
これにより、世界はエトルリア、ティレニア、アナトリアに三分される。エトルリアの影響が及ばない国家がまた誕生したのである。
こうなったのは、度重なるエトルリア諸侯の挑発が原因であったが、狡猾な外交手腕や相手を孤立させる作戦は見事であったが、しかし、エトルリア諸侯は完全にアナトリアを見誤った。
カンディアという島はエトルリアにとってそれほど重要な土地ではなく、無理をしてまで奪還する必要は全く無かった。それなのに執拗な嫌がらせと挑発を続けたのは、ひとえにアナトリアの暴走を招いて、エトルリア諸侯全体でこれを懲らしめようと言う目論見があったからに違いない。
近年のイオニア交易の発展は著しく、アスタクス方伯は、きっと多大な賠償金をふんだくれると思ったのであろう。または、コルフを乗っ取ろうとした者が描いた策略だったのかも知れない。
が、結果は見ての通り、アスタクス地方のエトルリア諸侯が束になってもアナトリアには敵わず、方伯は現在、この事態を招いた理由を躍起になって探していた。一体、誰が虎の尾を踏んだのか。
本来ならば、度重なる嫌がらせにうんざりしていたリディア王は、鎖国政策を取ろうとしていたところだったのだが、事態は逆に強行に大陸へと触手を伸ばすことになっていた。
フリジア戦役での圧勝劇は、国内外へのアナトリアの独立を確固たるものにした。
それにしても、アナトリア軍が強かったのは確かだったが、ここまで完勝できた理由は間違いなく、ただ一人の人間に集約していた。フリジア戦役ににおける装備も、作戦も、兵站に至っても、その全てがたった一人の人間の立案だったことは、現在、あまり知られていない。
その何者かとは言わずと知れた但馬波瑠であったが、この頃の彼が何をしていたのかと言えば……
ある日、会社の工場予定地を街の外に……つまり領地を欲しがった彼は皇帝に願いでた。皇帝はこれを快く許可し、慣例に従い彼に准男爵の爵位を与えると、好きに切り取らせることにした。
メディア、カンディアを手に入れたアナトリア帝国は、今や広大な土地を領しており、開拓者の手によって尚もその版図を広げている真っ最中であったのだ。
移民が増え、スラム街が広がると、国は景観の保護からそれを排除し、代わりに新たな集落を整備して人口増に備えた。あの、狭かったリディアの国土は、今や大国にも引けをとらない広さに変貌しようとしていたのである。
但馬はそんな中、はるか西方に領地を得ると、その経営に勤しんでいた。新たに出来た街は瞬く間に成長し、やがてローデポリス、カンディアに続く、アナトリアを象徴する第三の都市へとなろうとしていた。





