軍医のお仕事②
軍医は物知りな准男爵に舌を巻いた。
考えても見れば、こうしてメモを取っている紙も彼の発明品である。一体、これだけの知識をどうやって獲得したのだろうか。軍医が訝しそうに但馬を見ていると……彼は、ふーんと、何か一人で納得した感じに続けた。
「軍隊の食事については、俺からも言っておきますよ。これは早めに改善しておいた方がいい」
「はあ……」
但馬は前々からこの世界にはヒール魔法があるのに、なんで軍隊に医者が必要なのだろうかと思っていたが、軍医と話をしてみて納得した。集団生活には健康状態や生活状況をチェックする人が必要なのだろう。
新選組の屯所を視察した幕府の蘭方医・松本良順は、そのあまりの不潔さに一喝し、隊士達の尻を叩いて大掃除をさせたことがあったらしい。泣く子も黙る人斬り集団も、高名な医者を前にタジタジだったようだ。
男所帯の集団生活など、放っておけばどこまで不潔になるか分かったものじゃないから、こういった生活面の面倒を見る人が必要なのだろう。但馬はそう予測したが……
しかし、実は軍医の仕事はそれだけではないようで、
「ところで、先生は薬草を摘みに来たんでしたっけ……これは、ヤナギですか」
「はい。鎮痛効果がありましてね。痛み止めに使っております」
「へえ……」
確かに、ヤナギの葉や枝の成分には鎮痛作用がある。だからおかしな事はないのだが、但馬はふと違和感を覚え、
「あれ? もしかして駐屯地にはヒーラーは居ないんですか?」
「……? 居ますよ??」
「なら、なんで痛み止めなんて要るんです? 傷はたちどころに治っちゃうでしょう」
「はあ……傷は治りますが、風邪は治りませんからな」
「……はあっ?」
但馬は素っ頓狂な声を上げた。軍医は馬鹿にされたと思ったのか、露骨に顔をしかめた。
「風邪ですよ。准男爵は風邪を召されたことが無いのですかな?」
「いや、ありますけど……」
ただし、リディアに来てからは一度もない。だから考えもしなかったのだが……言われてみれば確かに、この世界でも風邪っぴきなどの病人を見かけることはあった。
それじゃ、あのヒール魔法ってのは一体何を治していたのだろうか。但馬はリディアに来た初日に盛大に腹を壊したが、ヒーラーであるはずのブリジットはそれを見ているだけで、治してはくれなかった。
そう言えば、しょっちゅう二日酔いにかかってはヒール魔法で緩和してもらっていたが、胃のムカツキはそれで収まったが、根本的な気持ち悪さとかは解決したと言えなかった。
そこで但馬はピンときた。
ヒール魔法は裂傷や骨折などには効くが、病気には効かないのだ。その理由は多分、外傷と病気とでは、その完治までのメカニズムが違うからだ。
裂傷や骨折は、その傷んだ組織が修復されたり、入れ替わって新しくなるのを待たねばならない。病気はその原因となるウイルスや細菌を体の中から追い出したり、栄養失調症であるならそのバランスを改善しなければならない。
つまり極端な話、傷は自分の体が勝手に治すが、病気は原因次第ではそうはいかず、その種類も豊富だ。
いまいち仕組みが分からないから、聖遺物同様にただのファンタジー要素だと思って、今まで脇においておいたが、こうして出てきた違和感を突き詰めてみると、ヒール魔法というもののカラクリが見えてくる。
ヒール魔法は人間の体組織の、新陳代謝を早めているのではないだろうか。人間はトカゲじゃないのに、エリオスの指が生えてきたところを見ると、恐らくそれは幹細胞に働きかけて、体を再生させるといったような仕組みを持っているのだ。
但馬の持っている21世紀の記憶では、全身の幹細胞の特定はまだ未知の分野であったが、亜人やエルフのような生命体を作るほどにまで進化していた先史文明ならば、人体組織の全てを把握していてもおかしくない。
そして、幹細胞に命令を下しているのは、恐らくは魔素と呼ばれるナノマシンと、世界樹を中心とした惑星自体に仕掛けられた、何らかの仕組みなのだろう。考えても見れば、亜人は試験管から『発生』していたわけだから、幹細胞やらES細胞やらを弄るのは、先史文明の人からしてみればお手の物なのだ。
更に、そのスイッチがキリスト教を題材にした呪文と言うか祈りなのは、出来過ぎているから、多分この憶測は正解であるに違いない。傷をたちどころに癒やすキリストの奇跡を見れば、誰もが神の存在を疑わないだろうし、その教義で世界をまとめ上げるには、よほど都合が良かっただろう。
これは一体誰が描いた構図なのだろうか。やはり千年前に現れたと言う、聖女リリィなのだろうか。エトルリアの世界樹は彼女が残したと言われてるそうだし。
ともあれ、ヒール魔法に弱点があると言うことは、この世界に医学の発展する余地はまだあると言うことだ。なら、軍医が今集めている薬草をプランテーションして、商品として売りだせば、きっと儲かるに違いない。但馬は興味をもって尋ねた。
「それにしても、ヤナギですか……もしかして、お腹壊したりしません?」
「よくご存知ですね」
ヤナギの薬理作用については古今東西枚挙にいとまがない。古くはギリシャのヒポクラテスの書物に登場し、日本でもその鎮痛作用は知られており、歯痛には柳楊枝と言う格言が残っている。
西洋ではその後一度失われた知識だったのだが、産業革命期に古い文献からヤナギの効能を再発見した当時の化学者たちが、その薬効成分だけを単離することに成功し、商品として売りだした。
ヤナギの属名(salix)に因んでサリシンと名付けられたその薬は、体内で分解されるとサリチル酸となり、それが痛みや炎症の元となる酵素の働きを止めるのであるが、困ったことにそのサリチル酸は強酸であり、胃腸が荒れると言う強い副作用があった。
そこでドイツのバイエル薬品はサリチル酸を改良し、副作用の少ないアセチルサリチル酸にして売りだした。このバイエル社によって売りだされた薬品が、かの有名なアスピリンで、発売されると僅かな年月で世界中に広まっていくこととなる。
因みにアスピリンは商標であるから、製薬会社ごとにその呼び名は違う。日本ではバファリンの名前で親しまれているが、バファリンの半分は優しさで出来ていると言うが、その優しさとは胃腸に優しい成分なのである。
「と言うわけで、その副作用はなんとかなるかも知れませんよ」
「本当ですか?」
軍医は目を丸くしてそう言った。
但馬はうんうんと頷くと、ふと、かつてトーが言っていた事を思い出した。
「そう言えば、戦前メディアは薬草の輸出で儲けてたって聞きましたが、本当なんですか?」
「ええ、本当によくご存知ですね。直接の取引が有りませんでしたから、一般には余り知られておりませんが、ティレニアやコルフ経由で我が国も輸入していましたよ」
そうまでして輸入するのがどんな薬草なのかと興味が湧き尋ねてみると、
「非常に苦い粉末で、元は何か分かりませんが、木の皮を煎じたものだと聞いております。他国では解熱剤の他に、薬味や調味料として使われてるものですが……リディアにはリディア熱と呼ばれる風土病がありましてね。実は、これがその特効薬でして。ヤナギでは効かないのです。あるとき、それに気づいてからは、メディアからの供給を絶たれると非常に困るので、国家機密扱いでした。それで何事もないように振る舞いつつ、他国経由で様々な薬草を輸入していたのです」
「へえ、元は調味料ですか……リディア熱ってのは?」
「症状は風邪に似ておりますが、とにかく強烈で、一度発症すると高熱に繰り返し襲われます。治ったと思っても何度もぶり返し、吐き気や頭痛にも見まわれ、最悪の場合、意識が混濁して死に至ります」
「なんだろう……何かの感染症みたいだけど……」
「感染症とは何でしょうか?」
薬の正体がなんだろうかと首を捻っていると、感染症という言葉に軍医が食いついてきた。
「壊血病みたいに、必要な栄養素が足りなくてなる病気もありますが、微生物が体内に侵入してかかる病気もあるんです」
「……微生物?」
「ああ、そうか……」
ここから説明しなければならないのかと、但馬は後頭部をポリポリとかいた。ほんの一年前まで、拡大鏡はあっても望遠鏡は無かった世界である。顕微鏡なんてものは、今でも但馬の研究室くらいにしか存在しないし、そうなるとこの世界には目に見えない生物がうようよと蠢いていると言っても信じられないだろう。
微生物研究は17世紀の商人、レーウェンフックの活躍によって花開く。彼は普通の籠職人の家に生まれ、別段高等な教育を受けた科学者でもなんでも無かったが、顕微鏡を使ったミクロの世界に魅せられ、湖の水を観察して微生物を発見したりして、後の微生物学の発展に貢献した。
その微生物学が発展する過程で、人間の皮膚や体内にも常在菌として様々な細菌がウヨウヨしていることが判明し、これが感染症の原因であることを突き止めたことが、現代医学の始まりだと言われている。
感染症の殆どは、人間のもつ本来の免疫力により、栄養と水分補給をしっかりとして安静にしていれば完治するが、中には結核のような不治の病に近いものも存在する。現在では、様々な抗生物質によって完治が可能であるが、人類がようやくそれを手にしたのは第二次大戦直前のことであり、それまでは特効薬もなくお手上げ状態だった。
世界で初めて発見された抗生物質は、細菌学者のフレミングが偶然シャーレに飛び込んだアオカビの成分から発見したペニシリンであるが、日本人ならドラマや漫画でお馴染みの南方仁先生の貢献で、名前くらいなら知っているだろう。
ドラマでは、そのペニシリンをコレラの特効薬として扱っているが、実際のペニシリンは大戦直前に開発されたという時期的なものから、戦場で様々な感染症の特効薬として扱われ、特に破傷風からものすごい数の兵士を助けたと言われている。戦後もペニシリンは多くの人間を助け、実際、1950年台から60年台にかけて、人類の平均寿命は著しい伸びを見せた。
因みに、日本で有名になった切っ掛けは、このペニシリンが、南米訪問中に肺炎にかかったイギリスのチャーチル首相を助けたという新聞の記事によるもので、もしペニシリンが無ければ歴史が変わっていたかも知れないのにという恨み節があるのだが、実はこれ、ペニシリンではなくサルファ剤であったらしい。戦時中も、かの大新聞社は元気にアサヒってたのかと思うと感慨深い。
ともあれ、ペニシリンが破傷風から数多くの兵士を助けたのは本当で、
「……それでは、准男爵は破傷風の特効薬があるとおっしゃるのですか?」
「え? ええ。っていうか、破傷風もやっぱり存在するんですか……」
破傷風は破傷風菌による感染症であるから、ヒール魔法で傷口が塞がれたところで、その前に入りこんだ菌が潜伏していたらお手上げである。あとになって急に苦しみだすわけだ。
元々、ヒールをかけてもらえなかった一部の奴隷や下級兵士の死により、破傷風という病気自体は知られていたらしいが、ヒールをかけても同じ症状で苦しみだすわけだから、戦場にある一種の呪いか何かのように思われていたようである。
もちろん、そんなことは無いので、
「じゃあ、今度特効薬作って持って行きますよ。流石にすぐってわけにもいかないから、一月くらい待ってください」
と但馬は気楽に言って、その日は軍医と別れた。
軍医は駐屯地に帰ってから、但馬の話をノートにまとめて食事の改善計画を上層部に提出するため、作業に没頭していた。但馬が特効薬を作ってくると言ってたが、流石にそれは信じられず、さして期待もしていなかったのであるが……
それから暫く経ち、サンダース軍医が上層部に直談判するまでもなく、そちらの方から彼に食事改善計画をまとめるように命令が来た。准男爵はどうやら約束を守ってくれたらしい。
おまけにそれに気を良くして仕事に邁進していた彼のもとに、もう一つの約束である特効薬を持って、本当に但馬がやって来たのである。
「本当なら難しいことなんですけどね。テレビ局のホームページに書いてあるようなものだから。いや、南方先生は偉大ですよ」
と、なにやら謎の言葉を残しつつ、彼はペニシリンと名付けられた薬を置いて去って行った。
薬効はちゃんと確かめてあるが、効くかどうかは自分の目で見て確認してくれと言い、彼はそれを量産するつもりの工場を、領地に建てるために帰っていった。
後に軍医はフリジア戦役でその効き目を実際に確認することになるが、街の通行の自由を許可していたフリジアで、その噂はアナトリア軍だけでなく、エトルリア諸侯にも届いては、但馬波瑠の名声を更に高めることになった。
かつての勇者と同じ名前を持つ男が組織する玉葱とクラリオンの旗は、戦場に翻り多くのアスタクス人を殺したかと思えば、それと同等の数の人間を新薬でもって助けた。その相反する出来事に、エトルリア大陸の人々は怒りと感謝が綯い交ぜになった、なんとも複雑な思いを抱きつつ、この男が世界にどのような影響を与えるのか、人々は目が離せないのであった。