2つの月が昇る空
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高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない
アーサー・C・クラーク
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見上げれば夜空には、2つの月が昇っていた。
太古の昔、人々は星を繋いで物語を作り出した。
それはやがて神話となって、今日広く知られる星座となった。
太陽の昇る場所や月の満ち欠けから暦を作り、惑星の不確かな動きから地動説を導き出し、大航海時代には星を目印に海を渡り、ついにはロケットで月へとたどり着き、今ではその更なる深淵を覗きこむために、宇宙望遠鏡を打ち上げるまでになったのである。
どうして、星の輝きはこんなにも人々を魅了するのだろうか。
それは悠久の昔から変わらない、不変の美しさがあるからではないだろうか。
かつて古代の人たちが見上げた星空も、我々が現在見上げている星空も、根本的には何も変わらないのだ。46億年の長い地球の歴史を遡ってさえも、白鳥座が突然羽ばたいて、射手座に射ち落とされるようなことも無かったし、カノープスが南十字星を玉突きすることもなかった。夜空にはいつも同じ方向に同じ星々が輝いていたのである。
だからこそ、我々は夜空にどこか郷愁にも似た懐かしい思いを抱くのであろう。同じ夜空が、いつまでも、どこまでも続いてることに、安心感を得るのであろう。
もし、突然、星空に何か異変が起きたとしたら、一体どうなってしまうだろうか?
星々の変貌に人々は動揺し、冷静さを失うはずである。
例えば、古くから様々な文献に彗星は凶兆として恐れられていたと記されている。日食が起きれば、昔の人々はこの世の終わりを想起したそうだ。後漢の中国では超新星の爆発を見た人たちが、世を悲観し反乱を起こした。今となっては当たり前の、たったこれだけのことで世が乱れたのである。大事である。
ましてや、ある日突然、夜空に2つも月が昇ったら、世界はどうなってしまうだろうか?
きっと大混乱に陥るに違いない。
「ファンタジーだな……おい」
但馬波留は空を見上げたまま、そのあまりの光景に、ぽかーんと開いた口が塞がらなかった。
空が白く埋め尽くされてしまうのではないだろうかと思うくらい、夜空には無数の星が輝いていた。こんなに凄い星空を見るのは、都会育ちのその青年には、生まれて初めての体験だった。
宝石箱をひっくり返したかのような星々の散らばる夜空の向こうには、大星雲をバックに満月が浮かんでおり、そして振り返るように中天の程近くを見上げれば、また別の下弦の月が静謐な光を湛え、そこにあるのだった。
海から吹き寄せる磯の香りが鼻を突く。さざなみの打ち寄せる波打ち際は、真っ暗な海に月光が反射して、まるで真夏のアスファルトみたいにギラついていた。潮騒は心地よく、春のような暖かさを感じさせる。当たり前の海岸のはずなのに、決してありえない風景だった。月がそれを非現実へと変えていた。
二つもある月に照らされているからか、夜だと言うのに辺りは仄明るく、遠くにある島影や海岸線までを、くっきりと浮かび上がらせた。上空はレイリー散乱で、昼間のように薄っすらと青いようにさえ思えた。多分、勘違いじゃない。
見上げた先で気になったのは、月だけではない。
その二つの月に挟まれるような位置に、見慣れぬ青い双子星が煌々と輝いており、それもまた夜空を明るく染める一助になっていた。見比べたわけではないからはっきりとは言えないが、恐らくそれは地球から見た金星や火星よりもずっと明るく見えた。
とすると、あの双子星は惑星なのだろうか? それにしては明るすぎる。もしかしたら、あれもまたこの星の衛星なのかも知れない。
太陽系の中でも、地球の衛星・月のように近い軌道を回り、主星と比較して遜色ないほど大きな衛星は他にない。他の惑星は地球とは違って、衛星を沢山持ってはいるが、どれもこれも主星に比べたら小さいのである。
だから例えば火星から、衛星フォボスやダイモスを見上げたら、案外あんな風に見えるのかも知れない……
そんな風に考えていると、「ふっ……ははっ!」思わず自虐的な笑いが漏れた。
だからなんだと言うのだろうか。今、気にしなければならないのは、そんなことではないだろう。
二つの月? 青い星? 生まれてこの方そんなもの、見たことも聞いたこともない。
ではあれは何だ。自分が眠ってる間に天変地異でも起こったと言うのだろうか?
果たして、こんな宇宙規模の変異が起きて、自分なんかが無傷で生き残ってるわけがない。動植物だって軒並み全滅だ。となれば、変わったのは宇宙ではなく自分のほうに違いない。そして、考えられることはただ一つ、ここが地球上ではないどこかであると言うことである。
気がついたら、地球上でないどこかへ自分は飛ばされていた。
普通なら取り乱してしまいそうな事実であったが、冷静でいられるのは、よほど現実感が無いからだろうか。もしくは現実ではないという認識でいるからか、
「単に、手も足も出ないと言うのが本音だけど……」
但馬は苦笑しつつ、どこか他人事のように思いながら、現状把握に努めた。
自分に何が起きたか分からないが、ともあれ、体に異常は無いだろうか? 手持ちに何か有用な物資は無いか? 近くに人里はないか? ぐるりと見回してみたが、あるのは大自然ばかりで、有益なものは何一つ見つからない。
足元の砂浜をざっと見渡してみる。
先ほど、気がついたばかりのときに、辺りを驚いてうろついた形跡はあったが、他に足跡は見つからなかった。自分がどこから来たのか、せめて方角くらい分かれば良いのだが……残念ながらそんな形跡は見当たらない。どうやら自分は突然ここに現れたのか、もしくは足跡が風に消されるまで、意識が無いままぼんやりしていたらしい。どちらにしてもぞっとしない話である。
両手でペタペタと体に異常がないだろうか確かめる。
服装は着の身着のままといった出で立ちで、デニムのパンツにコットンシャツ、足元は革サンダルと、まるで近所のコンビニまで、ちょっと行って来るといった格好だった。実際そうなのかもと思って尻ポケットに手をやったが、普段ならそこにあるはずの財布は無く、愛用のスマホも無くなってることに気づき、酷く落胆する羽目になった。尤も、仮にそれがあったとしても、アンテナが立つかどうかは疑わしいが。
ともあれ、どれだけ見回してみても手荷物は何も無く、周りに人はおろか生き物の気配も無い。助けを呼ぼうにも、人工物らしきものは一切見当たらず、夜空の星以上に明るい光源も見つからなかった。
あっという間に手詰まりだ……
青年は比較的冷静な性質ではあったが、さすがにそろそろ焦りが生じてきた。
自分がどこに居るのか、何をしていたのか、さっぱり分からない。せめて何か手がかりがあればいいのだが……
あと頼れるのは自分の記憶くらいのものだが、しかしこれといって変わった出来事は何も憶えていなかった。
ここへ来る前、最後に記憶しているのは、バイトの待ち時間で、暇つぶしに独りでソシャゲをプレイしていたというものだった。因みにその時使っていたスマホは手元に無い。他に思い当たる節も無い。迫り来る暴走トラックや、土下座する神様なんかも一切出てこない。お手上げである。
「あとは夢落ちってくらい……かな?」
見上げれば当たり前のように2つの月が浮かんでいるのだ。これを現実と思えと言う方が無理である。ある日、突然地球外に飛ばされました? それも何の前触れも無く? さすがに、そんなことが自分の身に起きたなどとは、馬鹿馬鹿しくて信じられないだろう。
やっぱり、夢なんじゃないだろうか? 他にまともな考えもないし……
「しかし、この生々しい感覚はなんなんだ……」
海から吹き付ける風が頬を撫でてこそばゆい。ギューッと自分の頬っぺたをつねってみると痛みが走った。やけにリアルな感触だった。それでも目が覚めないかしらと、もっと思いっきりやってみたら、あまりの痛さに涙が滲んだ。
ジンジンと痛む頬っぺたを擦りながら、涙目で地面に目を落とす。
「いたたたた……って、うん?」
と、その時、但馬は視界の片隅に奇妙な影を見つけた。
満天の星空ばかり見上げていて気づかなかった。いつからだろうか、それは視界の隅っこの方で、チカチカと点滅を繰り返していた。明らかに、星とは違う赤い何かがである。
なんだこれ? 近づいてみようと、足を踏み出したら点滅も一緒に動き出す。あれ? っと思って後ろに下がったら、それも一緒に戻ってきた。感覚的には、こちらの動きに合わせて付きまとってくると言うよりも、視界に被さると言うか、眼球に直接張り付いてるような感じだった。
おいおい、まさか緑内障にでもかかってしまったのか?
慄然としながら目を擦るが、それでも消えないので、ふと思い立って目をつぶってみた。すると、それは消えるどころか、逆に良く見えるようになった。どうやらこの影は自分の頭の中にあるらしい。
そして、奇妙な感覚に戸惑いつつ、更によくよく観察してみれば、どうも 『NEW!』というアルファベットのように見えなくもない……と言うか、それ以外の何物にも見えない。
「なんじゃこりゃあ……なんかの通知か? メールでも届いたってのか?」
しかし、頭の中に直接届くメールとは一体なんだ。自分はいつから電波を受信出来る体になったのだ? 本当に、変な病気じゃないだろうな? それとも、気でも狂ってしまったのだろうか……?
彼はそんな風に思いながら、腕組みをし、小首を傾げ、やれやれと指先をコメカミに置いた。
……すると、そんな時だった。
「うおっっ!?」
突如、目の前でウィンドウが開くような派手なエフェクトと共に、ギュンッとまばゆい光が走ったのである。
『ACHIEVEMENT UNLOCKED!! FIRST ACCESS
実績解除!! 初めての訪問
..............チュートリアルを開始しますか.[YES/NO]』
そして、視界いっぱいに、そんな文字列が踊り出す。
そう、まるでゲームみたいに……
但馬は生唾をごくりと飲み込んだ。そういえば、自分はここへ来る前、何をしていた? スマホで遊んでいたはずだ……
そして彼は、先ほどまではまったく気にも留めなかった自分の記憶を、改めて思い出していた。