三十七話 壁
「こ~わ~……」
『不気味な所やな……』
足取りが重い。これほどまでに弱弱しい徒歩が未だかつてあっただろうか。今僕は、この若様の案内によりこの通称”貧民区”と呼ばれるスラム街のど真ん中を歩かされている。
帝都とは思えないボロく汚い建物。泥とヒビに塗れた地面。そして所々から鼻を覆いたくなる臭いがする。何の匂いかは知らないが、とにかく臭うのだ。
これらの要素が混ざり合い、この場所は、それはそれは独特かつ不穏な空気を醸し出している。
(帰りたい……)
何故こんなハメになったかと言うと、貧民区におけるタブー。ここの住人に手を出したからに他ならない。
手を出したと言っても大部分はこの若様のせいであり、こっちとしては手を出されたのは僕の方でむしろ被害者なのだが、そんな一般的な理屈が通用しないのがこのスラム街の恐ろしい所。
ヤクザしかりギャングしかり、この手の連中は往々にして”群れる”。そして群れの力により、反社会性集団のデメリットを補っていると言う訳だ。
故に彼らにとって、群れの中のルールが絶対であり、それは法律よりも優先されるべき事なのだ。
『あ、誰かおる』
ここへ来てゴーストタウンのような街並みに、やっと住人らしき人影が見えた。進路上に見えるまばらに点在する人々。彼らに共通するのは、全員妙に”小汚い”と言う事。
壁にもたれかかりずっと下を見ている老人。何やら独り言をブツブツ言っている中年。そして明らかにそっち系の格好をした目つきの悪い三人組など、この貧民区に見事に馴染む貧民区民達が、歩を進めるごとに少しずつ現れ始めた。
そして彼らは僕らが通りがかるのを見つけた瞬間、何をするでもなくただじっとこちらを見つめてくる。
声を掛けるでもなく、濁った眼をこちらに向けて、ただひたすらに――――
「なんか……めっちゃガン見されてるんすけど」
「むやみに目ぇ合わすなよ。今度はスリだけじゃすまねえぞ」
「……ひぐっ!」
とりあえず目が合ったらヤバイと言う事だけはわかった。若様の忠告を必要以上に聞き入れ、ぎゅっと両の目を閉じる。しかしそのままでは前が見えないので、苦肉の策として目を閉じてるように見える程度に薄くそっと、前が見える程度に目を開く。
「あ、歩きにく……」
『スマホでよかった。だってわい、瞼ないし』
「目つむっとくから手引っ張ってよ、若様さん」
「それは自分で歩けよ~」
若様曰く、見るからにビビってるから大丈夫だろうとの事。貧民とてバカではない。この街を外部の人間が明確な目的を持って闊歩すると言う事は、何かの用事で仕方がなく訪れたと言う事。そこはちゃんとわかっている。
問題は、わかっていてそれでも危害を加えるか否かは”別”と言う事――――
「なっさけねえな。俺よか年上の癖に道歩くだけでビクビクしちゃってさ」
(こ、このガキ! 誰のせいでこんな目にあったと思っている!?)
『落ち着け。このガキンチョがお前の命綱を握ってるんやで』
この一行は若様、スマホ、水玉、僕の他にもう一人いる――――さっきのガキである。
事の発端はガキが僕の財布を盗んだ事に起因する。もちろん誰だってスられたまま放置しているはずもなく、取り返すべく盗人を追いかけるのは僕だけに限らない。
貧民区と言えどそこは同じで、ただスリを捕まえるだけではこうはならない。
しかしこのケースの場合、ただの取物とはちょっとだけ違う。今問題になっているのは貧民区の”中”で貧民区の”住人”に向けて危害を加える貧民区で使ってはいけない”魔法”を使ってしまった事。
そんなの知るか! と言ってやりたい所なのだが……この説明を受けた時、思い出してしまったのだ――――開発区は”魔法禁止”だと言う事を。
「まぁ、条例違反っちゃあ条例違反だわな」
「子供に向けて魔法ぶっぱかよ。ねえ若様、この人サイコキラーなんじゃないの」
「だからそれはお前が――――!」
『だーから落ち着けっちゅーねん!』
ガキのこのふてぶてしい態度が最高にムカっぱらが立つ。しかし何よりムカツクのが、今僕が解放されるか否かはこのガキにかかっていると言う事だ。
今から会うのはガキの(ある意味で)親。その親に、ガキがちゃんと自分に非があると説明しなければ、晴れて僕はジ・エンドなのだ。
「ねー若様ー、なんでこんなダサイ服着た奴とつるんでるの?」
「ん? まぁちょっとした縁でな」
『食堂で金なくて困ってる所をおごっていただいたねん』
「はぁ? メシ代すらねーのかよ」
「はーあ、とんだハズレ引いちまったわ。あーやだやだ。これだから貧乏人は」
(ぶん殴りたい……)
ガキはお仕置きに髪の毛を引っこ抜かれると言う憂き目にあった。だが、ガキのこの反省のそぶりが見られない口ぶりが、それはむしろ生ぬるい刑だったと思わせてくれる。
頭頂部だけとは言わず全ての毛根を死滅させるべきだったのだ。上から”下”まで、永久に生えてこないよう、全部。
「ギネス級の若ハゲの癖しやがって……」
「あ、てめーバカにするのか? 若様の六門剣の力!」
『そういやなんで、刀の形だけキレイに刈り取られんの?』
「ん、これか? これはな……」
六門剣はどうやら、ただの剣ではない追加効果があるようだ。乗せるだけのフリして実は超振動で毛根を刈り取っていた。そんな種明かしを予想していたのだが、それではピタリと磁石のようにくっついていたことが説明できない。
「ちょっと水玉くん、こっちきて」
「コポ?」
若様は再び剣を装備し、その内訳を説明してくれた。水玉を呼び寄せ、刃先をゆっくりと水玉に近づけていく。
近づく刃先に心なしか水玉が震えているように見えた。何をビビる必要が……お前は水だから刃物は問題ないだろう。と心の中で突っ込んだが、それは間違いだったとすぐ気づくハメになる。
そしてそうこう考えているうちに、六門剣の刃先がそっと水玉に触れた。
――――その時だった
――――ズリュリュリュリュゥ!
「おわ!」
『な、何事や!?』
水玉が、剣に向けて勢いよく”吸い込まれていく”
大きな音を立て、まるでコップの中の飲み物を、ストローで思い切り吸い込むかのように。
水玉の表面にゴボゴボと泡が無数に立ち上る。立ち上った泡の行きつく先は、若様の触れた”刃先”。
「ゴボボッ!?」
『うぉーーーい! 水玉ァ!』
「ほいっと」
そして若様が刃先を離すと途端に吸い込みは収まり、吸い込まれた分の水分が刃先にべったりと滴り落ちている。
水玉は相当驚いたのか、炭酸のようにまだゴボゴボと泡を立てている。それと同時に僕の喉もゴボっと詰まった。驚きがてら勢い余ってタンが絡んでしまったのだ。
「こーゆーことっ」
「ゲホ……ど、どーゆーこと!?」
『今の……もしかして』
「ゴポ!」
「スマホ君は察しがいいな。そう、これはただの剣じゃなくてだな」
「お前さんと同じように、”持ち主を選ぶ”剣なのさ」
「……え?」
持ち主を選ぶ剣。それは剣に意思が宿っていると言う事だろうか。元々は岩に突き刺さっていて、選ばれし者だけが抜けるとか言う類のあれか。
実際にデモンストレーションを見せてもらってまだわからない僕の為に、若様が細かい解説をくれる。横のハゲガキが「察しが悪い」と悪態をついて来る。どうやらガキも知っている用だ。
「はは、六門剣に意思なんてねーよ」
「ないのかよ」
『あったら魔剣やろ、それ』
「いいか、これはな」
「一言で言うと――――持つ者から莫大な魔力を”吸収”する剣なのさ」
「吸収……?」
吸収……ちょっとよくわからないな。持つと血を啜りたくなる感じの奴か? ってそれは魔剣だな。
じゃあ何を吸収すると言うのか。魔力と一口に言われても、まずそもそも魔力の事をよくわかってないから。
『ほら、あれや。ゲームでようあるやろ』
『MPを攻撃力に変換する奴。あれ見たいな感じや』
「……ああっ!」
スマホの実にわかりやすい例えが、僕の脳裏に鮮明なイメージを植え付けてくれる。要はこっちで言うダメージと引き換えにMPを消費する剣の用だ。
しかしその手の剣は、持ち主の意思とは無関係に吸収してきたと思うのだが。ボス戦の時だけ能力を使う。そんな器用なマネができるシロモノではなく、装備している限り”常に”吸い取り続ける仕様だったはず。
故にどうでもいい雑魚戦でも、物理攻撃をするたんびに無駄にMPを減らしてくると言うひっじょ~~に扱いに困る剣だったと記憶している。
「急に詳しくなったな、オイ」
そりゃそうだ。その剣、名前こそ違えど同じのを僕も”持ってる”のだ――――データ上での話だが。
「あー……じゃあこいつがいきなりハゲ上がったのって」
『剣に”触れた”からやな』
「んだよハゲハゲうっせーな。こんなもんすぐ生えてらぁ」
「髪の毛はすぐ生えるけどな、お前の財布の中身は何年経っても増えねーんだぜ?」
「う、うぜえ!」
『さすが悪ガキ、人を傷つける言葉がポンポン出てきよる』
「コラ、んな事言うんじゃねっての」
(ん……でも……)
ここで一つ疑問が浮かび上がる。六門剣の力はよーくわかった。ざっくばらんに言えば、要はただの人では持てないを言う事だろう。
ちょっと触れただけで髪がごっそり持っていかれたこのガキを見れば、両手で力強く握りしめればどうなるかは想像に難しくない。
しかし、この若様が腰にぶら下げている剣は”一本”ではなかったはず。最初に会った時に見せてもらった、”三本”の剣が――――
(ふふん、いいだろ。この世に三つしかない”宝剣”だぜ?)
『てー事は』
六門剣は装備者から莫大な魔力を吸収する。故に少々魔力に覚えがある程度では、持つ程度なのがやっとだろう。六門剣を装備できる有資格者は一握りしかいない。それはこのガキの頭を見ればわかる。
「いつかオイラもその剣が持てるようになりたいな」
「ナッハッハ、じゃあ速い所”盗み”は卒業しねーとな」
『それ三本ありますけど、そんなんどうやって持ちますのん』
「ん、構え? まぁ、別に……普通に……こうやって?」
「若様かっけー!」
そう言って若様は三本の六門剣を易々とその手に取った。右手に一本、左手に二本。左手の六門剣は指と指の間に挟み込み、器用に二本。まさにそのままの意味で剣を”装備”している。
「ちーっと持ちにくいな……ほっ!」
「おおっ、クローみたい!」
「これもなんか……こっちならどうだ!?」
『器用ですなぁ』
「これなら……こっちは……よっほっは!」
「おお~」
スマホとガキが若様に向けて拍手を送る。それは、若様の器用さに対して送る賛辞である。若様は本当に器用に、あの手この手で三本とも同時に装備する。
握力に任せ片手で一気に三本。バランスを取りつつ足の甲に一本。よたつきながらデコの上に一本。ちょっと下品に股に挟んだ一本。汗の匂いが気になる時に脇に挟む二本、等々……その装備の仕方は剣士と言うより、大道芸人のジャグリングに近い。
「ほ……とと!」
「……」
触れるだけで髪がごっそり持っていかれる程、強い吸着力を持った六門剣を”三本同時”に……一体どれほどのMPがあればそんな芸当ができるのだろう。
この若様に出会えたことは、ある意味幸運だったのかもしれない。その行いが意味するのは、この若様が相当な実力者だと言う事を確かに示している。
つくづく、自分は魔法に縁がある人間だと思った。僕がこっちに来て最初に出会った女も、ちょっとカチンと来ただけで森を簡単に吹き飛ばす、魔王気取りの大魔女様だったから――――
『すごいなぁ~』
「あーだめだ! なんかしっくりこねえ!」
「若様が三本同時に使った所、オイラ見たことないや」
「俺もねーよ。大体なんかあった時でも一本で事足りるしな」
「二本まではいけるんだが、こう、三本目がなぁ~」
「……」
宝の持ち腐れ――――この言葉が脳裏に浮かんだ。宝剣を三本も所持しているにも関わらず、もったいない事に一本しか使った事が無いらしい。これを宝の持ち腐れ、もしくはブタに真珠と言わずなんと言う。
しかし器用に試行錯誤を繰り返す若様を見て、賛辞の意味も込めて一つ。三刀流の構え方を教えてやろうと思った。三本を同時にどうやって構えたらいいのかわからない若様の為に、僕の知る限りで世界一の剣豪の構え方を。
「口にくわえたらどっすか」
「へ? 口?」
「だから、こう……両手に一本ずつ持って、残りの一本を口に……」
「ほぉ、ほうら……?(こ、こうか?)」
「このダサ男! 六門剣になんて事さすんだよ!」
「へっははへりひふにんふふぁれお(めっちゃしゃべりにくいんだけど)」
「宝剣を口に!? まずその発想がきもちわりぃよ!」
「……ふぁふぁふぃふぇふぃぃ?(離していい?)」
「若様、こんな奴の言う事聞かなくていいよ! 宝剣を口に咥えるとか、こいつ絶対頭おかしいって!」
「ぺっぺっ……ん~、構えにしてはちょっ~とお行儀がよろしくねーかな」
「あ~もう、宝剣がよだれに……若様に変な事言うな! このダサ男!」
『非難轟々やんけ』
――――僕の伝授した三刀流は、非常にウケが悪かった。
「……ダメ?」
「持てるっちゃあ持てるけど、実践的ではないかなぁ」
「こんなんで戦ったら、あっという間に総入れ歯になっちまうよ」
「考えたらわかるだろ。脳みそまでダサイのかよ」
「まぁ、そのうちなんとかなるって。ナハハ」
おかしいな。僕の知る三刀流はその構えでバッサバッサと強敵たちを討っていくのだが……
と、ひとしきり否定をされた所で一つ思い出した。あの三刀流は、フィクションの中の剣豪だったと言う事に。
『とりあえずお前、アニメの見すぎな』
「……んなもんどうでもいいんだよ! さっさと行こうぜ!」
「逆切れかよ」
「ナハハ、発想はおもしろかったけどなー」
「ったく、何が三刀流だよ……」
――――
……
「着いたぞ」
「うわぁ……」
そんなこんなで無駄話をしつつ、荒れ果てた街の中を潜り抜け、恐怖と身の危険に怯えながらなんとかたどり着いたこの場所は、この貧民区におけるヤの人の親分の屋敷。つまり悪の総本山である。
開発区や中枢区の高層ビル程ではないにしろ、ボロボロの建物が並ぶこの貧民区において明らかに一つだけ浮いた、一人で済むには広すぎる程度の立派な”屋敷”が目の前に広がっている。
あの地震が来れば一発で崩れそうな建物達とは違い、このヤの人の屋敷。親分宅だけあって”強固な”設備に囲まれている。
『たっかい塀やなぁ~』
「ここ、監獄?」
「ちげーよ。親分ちだよ」
通常の住宅と親分宅の違い。それはこの高い塀に代表される、明らかに外敵の侵入を意識した構造になっていると言う事だ。
もう、大体の想像がつく。ここに住む人物はこんな物を作らねば身の危険が及ぶ事が”日常茶飯事”に起こる。それはこの住宅にしてはあまりにも要塞チックな塀がイイ証拠だ。
そこはさすがヤの親分。つまり常日頃から”タマ”狙われてると言う事か。
『討ち入りとかあんのかな』
「宅急便に扮した暗殺者とか着そうだよな」
「ねーよ。ほらいくぞ!」
そして若様が威風堂々と、マルボウの親分宅の扉を両の手で力強く開く。扉に鍵がかかっていないのは、僕らが来ることはすでに話が通っているかららしい。
無論それは若様のようにガラケーでポチポチっと伝えたわけではないのは明白だ。マルボウの情報伝達法。それはさっきからどこかで僕らを監視している、見えない監視者の手によって――――
「へぇ……ここが」
『おー、結構ええやん』
扉の中と屋敷の間の中庭に当たる場所。そこから見えるマルボウ宅は、さすがヤの人の家だけあってどうして中々悪くはない。
全体的に古びた感じの木造の屋敷なのだが、これをボロい家と蔑む奴はいないだろう。これを一言で言うと、どこかノスタルジックな感じがする”古き良き時代の住宅”と言った感じか。
明治時代のお屋敷のような雰囲気のする屋敷が、この大都会帝都における癒しスポットと化している――――家主がヤの親分でさえなければ。
「入っていいんだよな? 開けるぞ」
「ひ、引き戸……」
『田舎のばあちゃんちみたいやな』
「おーい大将~、いるか~?」
ガラガラと開いた引き戸の奥のだだっぴろい玄関から、とんちのお題にされそうなでかい屏風がデンと置かれている。そこに出迎えの人間はだれもおらず、無人の玄関が広い空間をさらに広く感じさせてくれる。
木製の靴棚の上に伝統工芸品っぽい陶器。その中に小さな花が少々。隣には角の取れた丸い石と、やや和風な感じが目立つ雰囲気になっている。
そして若様が再び「おーい」と大きな声でここの家主を呼びつける。願わくば、このまま誰も来なければいいのだが……
『なんかこの光景、似てない?』
「何と?」
『ほら、あのめっちゃでっかい声だすおっさん』
「ああ……」
スマホの一声をキッカケに、この状況に少しばかりのデジャブを感じた。妙に魔力が強い若様と共に訪れたヤの親分のお屋敷。これは王宮に立ち入った際の光景とちょっとだけ似ている。
あの時はやたらいかつい風貌の王がそこにおり、オーマがなめた口を聞いた直後、すざましい怒号が耳を貫いたと記憶しているのだが。
『王様ですらあれやで? ここのヤっちゃんともなればそらぁもうお前』
「耳塞いどくか……」
「っかしーな……誰もいないのか?」
「親分はこの時間ここにいるはずだけど」
「だよなぁ……お~~~~い! 大将ってば~~~~!」
そして、若様の呼びかけから遅れる事数分後――――ついに裏の王は姿を現した。
「おぉ、おぉ、すまんすまん。ちーっと便所に行ってたもんでよ」
「大将おせえぞ。折角顔見せに来たってのに」
「親分~~~~!」
親分が現れるや否やガキが子供の用に親の元へと駆けつける。実際の親子関係は知らないが、まぁ親代わりのような物なのだろう。ガキの慕いっぷりから以下に可愛がられてるかを教えてくれる。
「ん……おう? なんだぁこの頭?」
「ちょ~っとした”お仕置き”をな」
「あー……おめえ、まぁたなんかしでかしたな?」
「へへ……」
(あら?)
そして意外や意外。その実の息子の用に可愛がっているガキがこんな目に合っていると言うのに、親分は悟りを開いたように穏やかな表情を崩さない。
やや細身の体系に白髪の角刈り。酒やけしたようなだみ声。そして甚平風の着物を部屋着に着こなすその姿は、確かにまんまそっちの人だ。
なのだが、目じりが著しく下がった顔をしており、こうして子供をあやしている姿も相まって、そっちの人とは思えない程どこか優しそうな印象を受ける。
「ったくおめえさんわよ……ちゃんと反省したんかぁ?」
「うん、もうしないよ。若様と約束したんだ」
『なんか、意外やな』
「いきなりぶん殴られるの覚悟してたんだけど」
「んで、そちらのおめぇさんは……」
「あ、ども」
殴る所か「よくきなすった」ともてなしの言葉をかける親分は、この場所も相まって”ヤ”の人と言うより高級旅館の板長のような雰囲気を醸し出している。
その雰囲気に乗せられついつい軽い会釈をしてしまうほどに親近感を感じた僕は、誰に頼まれたわけでもなく自発的に、この屋敷の立派さやさっきまで怒り心頭だったガキ、はたまたこのスラム同然の貧民区におべっかを使ってしまうくらいお行儀よくしてしまう。
なんとなく、大人な対応を求められている気がした。親分の優しそうな雰囲気が、恐怖からではなく素直な気持ちで、礼儀には礼儀を見せねばと、そう思わされたからだ。
「これはこれはどうも、ご丁寧に……」
「いえいえ、こちらこそ……」
『新卒かお前は』
ヤの親分は物腰柔らかく実に紳士的であった。事前の情報とは全く違うこのギャップに。つい親分がイイ人に見えてきた。
これはアレか。ヤンキーがちょっといい行いをすると途端にヤンキー全体がイイ奴に見えてくる現象と言う奴か。
なるほど、こういう事か。確かに僕は今、このヤの親分の少々の親近感を抱いている――――そしてその親近感は、ものの数秒で崩壊した。
(――――オラァ! てめえ、ちょっとこっちこぉー!)
(うちのシマでこんななめたマネして、ただで済むと思ってんのか!? ああ!?)
(うあっ! クソ、離せ! 離しやがれェーーーーー!)
「……なんか騒がしいっすね」
「おうおう、すいやせんね。うちの若いのは血の気が多いのが多くって」
物腰柔らかな親分と相反するまんまイメージ通りな怒号が、屋敷の奥から聞こえてきた。
なぁに気にすることはない。ここには親分とほんのちょっとヤンチャな奴が大多数いるだけだ。この方は言っても本職のトップ。そんな部下の一人や二人全然いてもおかしくないさ。
と、小さく芽生えた恐怖心を無理矢理心に押し込める。しかしそんな自己暗示は無駄な抵抗だと言う事を気づかされたのは、これまた怒号が聞こえたその直後――――
(ひぃぎゃぁぁぁぁぁ………………)
「はは、どうやらうちのシマで”粗相”働いた奴がいたようで」
『どう考えても断末魔やな』
「……」
親分は”そんな事より”と前置きをした上で「どうぞおあがりください」と物腰柔らかな口調で案内してきた。あの断末魔を”そんな事”と言える価値観は、僕が仮に少々。いや、かなりキツイ目に合っても特に問題なく感じるのだろう。
屋敷の中には親分の他に舎弟と呼ばれる人物が複数名いるようだ。血の気の多い青筋立てた若いのが。
靴を脱ぎ屋敷へと一歩、入ろうとする足が実に重い。芽生えた恐怖が膨れ上がり、重石のように僕の足に絡みつくのだ。
「どしたの? 速くいこうぜ」
「はやくしろよダサ男」
「……」
一歩踏み出す勇気が持てないのは、先ほど聞いた断末魔の他にもう一つある――――親分だ。
物腰の柔らかい好印象な親分が、どういうわけか誰よりも一番僕を躊躇わせる。
理由は簡単だ。親分の召し物の裾から、それはそれはご立派な”アート”がチラリと見えたから――――
『う~わ~……立派なモンモン』
「どうなすったんでぇお客人。さ、案内しやすのでどうぞ」
『行くしかあらへんでこれ。断ったらむしろやられる』
「う……」
好印象な態度に対して立派な”刺青”がフィルターとなり、僕と親分との間に一枚に見えない”壁”を作る。折角の親分のお誘い。スマホの言う通り、この状況断っては逆にマズイ。
この数秒の間に僕は脳をフル回転させ、そして脳内の保守派をなんとか説得できた頃。意を決して一歩を踏み出す決意を固める。
「では、こちらへ……」
そう言って僕らを案内せんと、親分は振り返り背中を見せた――――事態は、急展開を迎える。
――――コロン
「親分、なんか落ちたよ」
(――――うわっ!)
親分が振り返り様に落とした物。それはポケットに収まる程度の小さな物。そう、小さいを意味する漢字の入った”人体”の一部。
「おっと、こいつは失礼しやした」
「それ、親分の?」
「いえ、こいつぁこないだ下手を打った若いのの”ケジメ”でさぁ」
『こ、こここ、ここ』
(小指――――!)
――――気が付くと、僕も振り返っていた。親分動揺皆に背中を見せ、親分の進行方向の”真逆”へと向けて足早に歩を進める。
最初に気づいたのはよりにもよってあのガキだった。ガキはデカい声で「どこいくんだよ!」と僕の行動を皆に知らせてくる。
ガキめ……どこまでも余計な事を言う。お前が僕に何の恨みがあるのか知らないが、後生だからここは放っておいてくれ。頼む、ガキよ。僕はもう限界だ――――
「おいおいおいおい精霊使い、どこ行くんだよ!」
「は、はなせ! イヤだ! 無理無理無理! 絶対ムリ!」
「なーにが無理なんだよ! ほら、親分待ってっぞ!」
「こい!」
「ヤーーーーダーーー!」
「……どうしたんで?」
転がる小指を拾う際にまたチラリと見えた、立派な刺青に備わった、親分のギャップがあるにも程がある柔らかな顔つきが、逆に恐怖を倍増させる。
脳内の保守派共は再び異議申し立てを立ててきた。それはもうものすごい勢いで。
小指、悲鳴、刺青と立てつづけに見せられては、この親分の第一印象がいかによかろうと、所詮蛇の道は蛇。ヤの人はヤ。僕の命の左右をこのガキに託すには、あまりにも無謀過ぎた。
それならいっそ一か八か隙を見て、水玉の全面協力の元全力で逃げた方がまだ勝機はある。保守派の強行採決の結果、そう結審がついたのだ。
「うわっぷ! こら、人んちで暴れんな!」
「ノォーーーー! ヤダーーーー! 帰る、帰るゥーーーーー!」
『どこにやねん……』
つづく