三十三話 釣銭
「いやいやいやいや」
『何を慌てふためいとんねん』
そら慌てるわ。むしろお前はなんでそんなに冷静なんだ。ここは僕の知る世界とは異なる世界。魔法と竜と魔物とその他なんやらが蠢く、異なる世界。
その異なる世界に……な・ん・で! ”ワイファイ”が繋がってるんだよ!
『んなもん……繋がってるんだよ! 言われたかて』
『ほら、ネットの大御所が言うてたやん。”光繋がる響き合う”って』
それは光回線の方だろ。少し懐かしいCMを持ち出しやがって。しかしまぁ何だろうが結局は同じだ。この三本の放射線がしっかりと表示されてる以上、それは回線が”繋がっている”と言う事に変わりはない。
『よかったやん。これでエロ動画が存分に見れるで』
「こんな所で見てどーすんだよ……」
『大丈夫やて。しっかり拡散しとくから』
「すんな!」
このクソ笑えない冗談が、拡散できるだけの環境へ本当に繋がっていると言う事実をわからせてくれる。ダメ押しついでに通知欄には、しっかりと下矢印のマークが表示されている。
それは何かを落とした時に表示される、ネット機器特有の機能。所謂”ダウンロード通知”だ。
「本当に……落としてきたのか……」
『だから言うたやん。いつまで同じ話繰り返すねん』
「え……でも……ええ~?」
『も~ええやんけ~。くどいリアクションはウザキャラ認定されるでて』
「んな事言われてもだな……」
スマホの言う通り、くどいようだがこの現実がいまだに受け止めきれない。ここへ来ていろいろ衝撃的な話を目の当たりにした。
しかし今新規で飛び込んできたこのイベントは、この異世界驚愕ランキング堂々のトップ3に入る事態なのだ。
『はよ山賊探しに行けや』
「……その前に、ちょっと! ちょっとだけいいか!?」
『もうええて……』
もう見飽きたと食傷気味のスマホは、僕のよすぎるリアクションに呆れつつなんだかんだで付き合ってくれる。そこはさすが、一人に一台総ネット時代の申し子「スマートフォン」
こいつの場合少々口は悪い物の、困ったユーザーには優しくヘルプページを立ち上げてくれる、顧客満足度ナンバーワンの精密機器なのだ。
さすが有名メーカー製、その辺のマナーはばっちり叩きこまれているようで助かる。僕はそのマナーに存分に甘える形で、サッっと慣れた手つきで指を動かした。
いったん地図を消し新たに立ち上げたのは、ネットが繋がっている事で最大限の効果を発揮する、これまたスマホには必ず入っているアプリ……
「たたた、立ち上がった!」
『ああ、”ブラウザ”立ち上げたかったのね』
そう、ネットブラウザ。すぐ起動できるように、わざわざアイコンを移動させてスタートメニューに放り込んどいたお気に入りのブラウザだ。
しかもこれは既成ブラウザじゃない。僕の日々休む事なくネットの海を漁り続ける事で知った、とっておきの”カスタムブラウザ”だ。
これらは全て僕が直感で動かせるよう入念にカスタムされている。指の癖、よくやる動作。わざわざタップせずとも一振りで思いのままに動かせるよう、練りに練られたカスタムジェスチャー機能付きブラウザなのだ。
『何? またまとめサイトでも見るん?』
「ちげーよ! おい、ブクマに”アレ”あっただろ」
「出せ。今すぐに」
『あーはいはい、あれね――――ほい』
「おおおおおーーーーッ!」
奇跡だ。奇跡が起こった。そう、今こいつに出す用指示したのは――――
「無事だったか……無事だったかァァァア!」
『このページ嫌い。ダサイしこう、全体的に、キモイわ』
「どこかだよ! こんな素晴らしいページ、未だかつてあったか……」
このベタ褒めとこき下ろしの狭間に揺れるこれは、そう。僕が自作で作った”マイブログ”なのだ!
再会できてよかった。本当に良かった。この心境は生き別れになった子供と母親の、数年越しの感動の再会に近い。
だってそうだろ? これは僕がお腹ならぬ指を痛めて産んだかわいいかわいいマイサンなのだ。
この再会に薄らと涙すら浮かび出す。そりゃそうだ。このマイブログは、有名サイトから借りたレンタルブログ程度のもんじゃない。
これを作る為にわざわざ、お年玉を全てはたいて購入した高い高いHP製作ソフト。それをふんだんに使って”イチから”作った、それはそれは思い入れのあるブログなのだ――――
『友達おらんからこんなんばっかやってたもんな。お前』
「マイブロォゥグ……オオ、ブロォクンマイブログゥ……」
『それ壊れとるやんけ』
もはやスマホの悪態も耳に入らない。入った所で全てを許してむしろかわいがってやりたい。それほどまでに今、僕の心は深い深ぁーい、慈愛の心で満ちているのだ。
「ブログ……ごめんよお……今……”更新”してあげるからね……」
『ほんまきっもいわ……アクセスなんてほっとんどないやんけ、こんなクソブログ……』
『……ん?』
感動の余韻に浸る僕とは対極に、この関西弁スマホはどこか淡々としている。
関西弁の癖にノリの悪いと少し思ったが、むしろ正しいのはこいつで、冷静さを完全に失っていた僕はこいつの一声が無ければ――――気づかなかった”かもしれない”。
「ログインログインっと……」
『おい待て! そのリンク、なんかおかし――――』
「えっ」
『って踏むなボケェーーーーッ!』
警告が、少しばかり遅かったようだ。こいつが止めに入る頃にはもうすでにログイン用のリンクを踏んでしまっていた。
かもしれないと言ったのは訂正しよう。やっぱりなんだかんだで持ち主は僕。だからこそ、スマホの一声があろうとなかろうと、どっちにしろ”気づかなかった”だろう。
――――セキュリティが、設定されてない事に。
【!】
「えっえっ」
【不正なプログラムが実行されています】
「えっなにこれ……え!?」
『あっかんああもう……どけ! 触んな!』
『死ねッ!』
「……」
――――オラァァァ……猛虎セキュリティのお通りじゃぁぁい……
――――……
『ハァ……ハァ……めっちゃ疲れたわ』
「……なんか、ごめん」
『ごめんちゃうわボケ……話聞けや……』
「ごめんって……てか、今の何?」
『お前のログイン情報がごっそり持ってかれそうになったんじゃ。アホ』
『得体の知れへん野良ワイファイでログインすんな。セキュリティの常識やろがい』
まさにその通り。ネットが繋がった驚きで忘れてしまっていた……ここは異なる世界。なればこそ、そんな場所にあるアクセスポイントなど怪しさ満点の電波だと言う事を。
この僕ともあろうものがこんな初歩的なミスを犯すとは。野良ワイファイは繋がないのが基本。それをこともあろうにスマホから教えてもらうなぞ、誰が思っただろう。
「危なかった~」
『危なかったちゃうわ。もはや手遅れじゃ』
「なんでだよ。お前が防いでくれたんだろ」
『まぁ最善は尽くしたけどやな。なんぼなんでもすでに送信してもうたもんは消せんわ』
『お前アホやからパスワードに誕生日とか入れてるクチやろ? お前の個人情報、ごっそりもってかれたかもしれん』
「……ええぇえ!?」
全て、寸分違わずスマホの言う通りだ。さすが、電子機器の王……
そう、僕はパスワードを設定する際、めんどうだから基本全て同じ物を使っている。それも忘れると後々面倒なので、忘れる事のないパス。つまり誕生日を。
そしてさらに嬉しい事に今ログインしようとしたのは僕の超個人的なブログ。住んでる場所、生年月日はもちろんの事、近所のおすすめスポットから自宅にある物まで、特定材料は山ほど載せているのだ。
『お前確か自撮り画像も載せてたな? スタンプで隠してるつもりかもしれんけど』
『あんなもんちょっと詳しい奴がいじれば一発でどけれるで』
「おーまいが……」
テンションが上がってふざけて撮ったあの写真も、安価に乗せられやったあの動画も、個人情報付きで全部漏えいしてしまったと言うのか。
いや、まだ可能性は残っている。何も全て漏れてしまったわけじゃない。こいつがある程度は塞き止めてくれたはず。
黒歴史確定のあの画像はまだ漏れていない。その可能性に一縷の望みをかけよう……全力で。
『ほんま、アホにスマホ持たすとロクな事しよらんな!』
『お前のようなのがいるから、未成年飲酒自慢したり喫煙画像載せたりする奴が出んのじゃ!』
「めんぼくねえ……」
『まあ祈っとけ。呟く所で晒し上げられてへん事を』
『そしてお前はおとなしくパズルでもやってろ』
「……」
こうして、異世界初のネットサーフィンは僕の大敗で幕を閉じた。別に何と戦ってたわけでもないのだが、この異世界に置いて現代人代表のこの僕がこのような失態を犯すなど、敗北意外の何物でもないのだ。
スマホの関西式お説教はこの後もまだまだ続く。あの悪意しかないトゲだらけの愛のムチを、全身がただれるまでバシバシと叩かれ続けるのだ。
その内容は今しがたのミスから始まり、見た目がきもいだ服がダサイだ関係ない所まで十分火を通し、涙目と言う肉汁が滴る頃になった所でようやっと止まった。
ネットリテラシー。まさかこの授業をこんな所で受けるハメになるとはな。よい子のみんな、知らないおじさんと知らないワイファイには着いて行かない様にしよう。僕との約束だぞ!
『もうええから。さっさと山賊迎えに行けや』
「ふぁい……」
『地図開くで。ナビもちゃんとやったるから』
『後、わいの許可なくアプリ立ち上げられん用にしたからな。お前、次世代炎上第一候補やし』
「ちくしょー……ブログが炎上しないように今まで細心の注意を払ってたのに……」
『つか今時ブログて……今はSNSの時代やっつーの』
半泣きで歩きはじめる僕の姿は第三者から見たら完全にいじめられっ子だ。纏う雰囲気は、学校の帰りにランドセルを大量に持たされる奴のオーラに近い。
良くも悪くも心強すぎるスマホの案内は、実に合理的で一番速い道を、一瞬の間もおかずサッサッサッサと表示してくれる。
これでこのオーマとはまた違う、ドギツイ悪態が無ければ便利そのものなのだが……
『おもろ。お前のフォルダ九割エロ画像やん』
「勝手に見んな!」
『もっとこう、スチューデントメモリーズ的な画像ないんかい。ていうか、それブログに貼れや』
「……そういうブログじゃないんだよ!」
『はいはい。あ、言っとくけどわいに逆らったら、これ全部インペリオゥルシティ全土にばら撒くからな』
『ネット、繋がってるしな』
「ぐぬぬ……」
まさかスマホと主従関係が逆転する日が来るとは思わなかった。この余裕を現す英語の発音が実に腹立たしい。今の心境を一言で言うと、「悔しいです」その一言に尽きる。
無事元の世界に帰れた暁には、こいつは即座に叩き割り、新規割引の効く他キャリアの最新機種の乗り換えるとしよう。
――――
……
『もうちょいもうちょい。後200mくらい』
「とお……」
『気張れや。やんちゃ盛りの中坊やろが』
「僕そっち系の人種じゃないから……」
「……あ」
随分長い距離を歩かされゼエゼエと疲労困憊の僕は、目の前の光景を辛うじて認識する事が出来た。少しだけ見慣れた場所にある、立ち入り禁止の柵が張り巡らされた”レール事故現場”。
ついた。やっと着いたんだ。僕の目的地。この長い徒歩の栄光のゴールが――――
「つい……たぁ~~~!」
『お疲れさん。まぁお前にしてはよおやったわ』
「水玉! 水頂戴! 水!」
「コポッ!」
差し出された水を勢いに任せ、ゴキュゴキュと豪快なのどごしで一気に飲み込む。水のひんやり感が流れる汗を吹き飛ばしてくれそうな爽快感を感じさせてくれる。
こんな達成感を感じたのはいつぶりだろう。あれは小学校の頃の体育の授業。マラソンの授業だかで校庭十周をやらされた時、一周減らして自己申告をしたのがバレてもう十周追加されたあの時振りだ。
当初その追加分もサバを読む予定だったが、教師がみっちりと見張っていたのでできなかった。そして放課後をフルに使いヘトヘトになりながらついにやり遂げた。あの時の感覚だ。
何かを成し遂げる。それがこんなに気持ちのいいものだったなんて。努力の素晴らしさを体感し、これを機に何か新しい事でも始めようか。そんな気になったその時――――
『じゃあ、それ飲んだら始めるか』
「えっ」
『えっ。じゃなくて。お前ここに何しに来てん?』
『今から聞き込み調査の”スタート”やろがい』
(――――ぬぅおおおおおお!)
この達成感は、終わりではなく”始まりの合図”であった。街の住人に冷たくされ、駐在に不審者呼ばわりされ、個人情報を抜かれさらにバカだカスだと暴言を吐かれた、挙句の果てにたどり着いた目的地はまだ”始まってすらいなかった”。
心の芯が崩れる音が聞こえた。持ち上げてからのドーン! と言った具合にこの達成感からの落胆は、ただ落とされるよりも何倍の効果があった。
「もぉぉぉイヤだぁぁぁぁァ!」
『ぬおっ! なんやねん急に!?』
「もう駄目だァァァァーーー! もう一歩も動けないィィィィ!!」
『ちょ、騒ぐなや! また通報されるて! オイ! オイて!』
「ふァァァァぬォォォォォッ!」
――――なんだぁ……?――――またなんかあったのか……――――なんだあいつ――――
心の柱が折れた僕は本能のタガが外れた獣のように、それはそれは声高らかに雄たけびを上げた。周りの視線はまた頭のおかしいヤツを安全圏から伺うやじうまのそれに見えた。
しかしそれがなんだ。僕はその視線を感じつつ、わかった上で叫んでいる。だってそうだろ。こうでもしないとやってられないんだよ――――
「もーーーおーーーいーーーやーーーだーーー!」
『このガキほんま……えろうすんまへん! ちゃいまんねん! ちょっと今アレなだけですねん!』
「あああああーーーーーッ!」
『うっさいんじゃボケェッ! おい水玉、手伝えや! こいつどっか人気のない所連れてくで!』
「コポッ!」
「ひぎぃぃぃぃぃぃぃァァァァアア!」
――――ァァァァァ……
……
『このガキほんま……お前! どれだけ世話焼かせたら気が済むねんッ!』
「コポッ!」
「あ”~~……聞こえなーい……」
スマホの指示の下水玉の力で強制退場させられた僕は今、文字通り人気のない所にいる。
スマホが導きだした”人気のない所”の答え。それは路地裏でも地下のマンホールを降りた下水道でもない。
なるほど、確かにここなら人気はない。なおかつ荒ぶる人の心を落ち着かせる事が出来る一石二鳥の場所。
こんな所を即座に導けるなんて、やはりさすがスマホ、二年契約した甲斐があると言う物だ。
「ふぎゅう……」
『も~こいつほんまめんどいわ……ほら、来たで』
「――――へいッ! お待ちィ!」
スマホが導きだした人気が無く心落ち着く場所。それは客がおらず閑散とした”食堂”であった。
この帝都の大都会に似合わず昭和の雰囲気を漂わせるこの食堂は、開発区の隠れ家的なスポットとして有名……なのかは知らない。
だがそれを知った上で案内したのかは知らないが、確かにその答えは正解だ。僕の心が折れた理由の一つに、耐え難い”空腹”の二文字も含まれていたのだ。
「はふっはふっ、ガツガツ……」
『お前……何食うてるねん』
「これな、この世界で唯一僕が知ってる料理なの。食材はわかんないけど、食ったらこれがうんまいのよ」
『……解析する限り、どう見ても”チャーハン”にしか見えんけどな……』
折れた心と空いた胃袋を同時に満たすこれ。これはバフールの街で食べたチャーハンもどきだ。
米の代わりに小麦”っぽいの”で炒めたこのもどきメシは、これはこれでちゃーんと調理法が確立されており、この魔法と竜となんやらかんやらが跋扈する異世界の、この世界にしかない具材と調味料により、がっつくに値するクオリティに仕上がっているのだ。
スマホは横で「エセ中華」だの「中身のわからない物をよく食べれるな」だの客としてあるまじきいちゃもんをガンガンに言っているが、そんな程度のネガキャンでは僕の食欲は抑えられない。
僕の食欲を無くしたくば、横で吐くかオーマレベルのネガキャンを捲し立てるか。二つに一つしかないのだ。
「ごっそーさん!」
『まぁ、ええんちゃう? 好きなんやったら』
「お前は食の楽しみがわからないもんな。哀れになるよ」
『うっさいボケ。わしらに取ったらデータがメシ代わりじゃ』
「そこは充電だろって……おっし、じゃあ行くか!」
やる気と活力が回復した僕は、ついに聞き込み調査を開始する。ここに来るまで長い道のりだった。しかしもう大丈夫。スマホが声掛けを手伝ってくれると言っているし、むしろわざわざこちらから話しかけなくても、水玉で大道芸でもやれば向こうから人はやってくる。
僕に足らない物。それは人海戦術を用いたコンビネーション要素であった。厳密に言うと人ではないのが玉にキズだが、この完璧な布陣によりついに天才中学生探偵江浦光治が誕生――――
「ちょちょちょ、ちょっとお客さん。”おあいそ”!」
「……なんて?」
『おあいそ。要するに”お勘定”って意味や』
――――の前に、乗り越えるべき壁が一つあるようだ。全く、歴史を塗り替える偉人にはいくつもの壁が立ち塞がる物だ。
水玉が心配そうにこちらを見ているが、大丈夫。言いたい事はわかっている。僕はもう中学生だ。バイトこそしてないものの、メシ代を払うくらいの金は持ってる。
「いくらですか」
「6”モーン”ね」
「……なんて?」
――――すいません今よく聞き取れませんでした。もう一度お願いします。
「一品だけだから6モーン。うちは安さが売りでね」
『モーンって何?』
「……お客さん、はやくお勘定してくんないかねぇ」
「……」
全身から、イヤな汗が噴き出してきた。さっき長々と歩き続けたせいか背中が汗でびちゃびちゃだ。そしてその汗で湿った背中を、冷たい筋が二本、三本”ダラダラ”と滴ってくる。
今、額からコミカルな三本線が伸びてないか。誰かちょっと、こっちきて確認してくれ。
「お客さん、6モーンだよ」
「は……い……」
そう言って僕は財布を取り出し中身を確認して見た。財布を漁る手がプルプルと震えて持ちにくい。すざましい緊張が手にまで伝わっている。おかげで小銭が取り出せない。仕方ない。少々大きいがここはこれで……
「ど……うぞ……」
「……なにこれ?」
「……千”円”札です」
僕が取り出したのは立派なヒゲの中年男性が乗った、日本銀行発行の千”円”札。大衆食堂の支払いは贅沢しなければ大体この値段に収まるのが相場だ。
それは苦肉の策だった、何故なら、6モーンの”円換算”の仕方が、僕にはわからなかったから……
「……」
『釣りはいらんって言えや』
「お客さん……ちょっと”裏”こようか……」
(――――やばぁ……)
店主の顔が明らかに怒気に満ちた表情になっている。巻き舌混じりに話す店主のそれは、お客様に対する態度ではなくどちらかと言うと”不届き物”に出来わした時の態度だ。
また一つ、失態を起こしてしまった。王宮のタクシーに乗る時、あの時運転手にまず”銀行”に向かってくれと言うべきだった……
『アカンムードやこれ……』
「ああああの! その! 今ちょっと手持ちがなくて――――その……」
「だったらお金取って来てからくりゃいいでしょう……ええ?」
「金を持たずに店に入るバカがどこの世界におりますか」
「……はい」
「私は何か間違った事言ってますかいねぃ……”お客さん”?」
(ごもっともです)
ごもっとも。まさに正真正銘百パーセント店主が正しい。だが僕の言い分も聞いてほしい。小腹が空いたから適当なメシ屋んでちょっと一息……その時についうっかり”財布を忘れてしまった”そんなお客もごく稀にいるだろう?
そう、これはただのうっかりミスなんだ。今から王宮と連絡さえ取れれば、情けない話だがメシ代くらいは立て替えてくれるはず――――
『水玉、こうなりゃやるしかあらへん。イチニノサンで”食い逃げ”実行や』
「コポッ!?」
「く、食い逃げ!?」
「――――!」
食い逃げ。そのド真ん中犯罪宣言についうっかりリピートしてしまった。そしてそれが、この店の主の怒れる炎をボォウ! と着火するキッカケを与えてしまった。
この天才名探偵どころか自分の事務所にすらたどり着けない僕は、店主の言う通り”金を持たずに店に入るバカ”そのものだ――――
「――――させっかよ! オラ! ちょっとこいおめぇー!」
「あだだだだ~~~! すません! まじすませんっした!」
『あーあ、食い逃げなんてしようとするからや』
(お前が言い出したんだろ――――!)
店主の鋭い手が僕のTシャツを鷲掴みにし、力強くひっぱる事で瞬く間に伸びていく。ダサイから崩れても構わないとかそう言う話じゃない。
まさかこんな、オーマの与り知らぬ所で前科者の仲間入りを果たそうとは露にも思わなかった。店主は「こいオラ!」と捲し立てる。その声はプロレスラーの挑発みたいだ。
だがしかし僕はその挑発には乗れない。僕はレスラーじゃない。技をかけるまでもなくチョップ一発でリング外まで吹っ飛んでしまうからだ。
「ひぃぃぃ~~~~!」
今この場にオーマはいない。スマホは役に立たない。店主に技をかけるわけにはいかない。
不意に訪れた絶体絶命のピンチ。この場をどう切り抜けようか、必死になって考えていると――――
「へい大将! ちょっと待ちな!」
――――英雄は、現れた。
『ん? ダレ?』
(……?)
「はええ話がよぉ……金、払えば問題ねえんだろ?」
「だったら……これでこの場はまるっと解決だ!」
「そら!」
――――突如現れた謎の男。男は机を勢いよく叩く。そして男が手をどかすと、あら不思議。机の上には見たことのない”お金”が、見たことのない量で置かれていた。
そう、どこかで会った事すらもない全くの初対面の男が、事もあろうに僕のメシ代を”立て替え”ようとしているのだ。
「こんなに……!? いえいえいえ! お食事代だけで結構ですから!」
「いーやそれじゃ大将。あんたの対価に釣り合わねえ。だってあんたは今、食い逃げの危機に見舞われていたんだからな」
「ここは大将一人で切り盛りしてる店だろ? 食い逃げなんてされた日にゃあそれだけで店の経営は大ダメージだ」
「だからこれは……大将の背負ったリスクに対する対価!――――って事で、どうよ?」
「そ、そこまでおっしゃりますか……」
「ま、簡単に言うと迷惑料だな」
男は白く輝く歯がキラリと見えるくらい、爽やかな笑顔で店主を説き伏せた。あの積み上げられたお金の量、明らかに食事代の何倍もある。
男はそれを”迷惑料だ”と言って何の惜しみもなく爽やかに差し出すのだ。
『な、なんじゃあいつ? 高利貸しか?』
「……」
「いえ、でも……お気持ちはありがたいですが、やはりこんな大金。受け取れないですよ……」
「なーに言ってんだよ大将。大将のおかげでこの地区が発展してんだからよ」
「これはその分配金。大将が受け取るべき当然の金よ」
「それが……”俺の意思”だ!」
「ああっ! あなた様は!」
男は何やら臭いセリフと共にまた爽やかな笑顔を一つ、ニカっと見せると、ここから先は言葉は不要と言わんばかりにウィンク一つで納得させてしまった。
スマホじゃないが本当に、何だコイツは……ナンパか? 店主を口説こうとしてるのか?
「壁ドンならぬ机ドン……」
『しッ! ちょっとだあっとれ!』
突然の食い逃げ未遂犯に突然の大金。この不意の事態にさすがの店主も茫然としている。男はそんな店主を気に掛けるでもなく、ふと背中を見せ、そして店の入り口に手をかけた。
そこでふと動きが止まり、イチニノサンの間を置いたとこで、男は首だけを振り向きこう言い放つ。
男の言葉に、この場にいる全員が、満場一致で”痺れる”程酔いしれた――――
「――――釣りは……いらねえぜ?」
『 か っ け え ー ー ー ー ! 』
つづく