ツノ ――中編――
――――!
「ぬ……ぐぷッ……!」
【水牛】――――のしかかる先の尖った”水の大渦”により男の体は着々と穴の奥へと沈んでいく。
以下に怪力を持った男とてどんな重しより遥に大きく、そして身を包む程の”水の重し”には耐えられないのか、這い上がるどこかその場で踏みとどまるのが精いっぱいの用だ。
そして問題は”重み”だけではない。今この場に置いて男を包むのは、不意に開けられた狭い”土壁”ではない。空気の届かない”水の中”なのだ。
故に当然戦わねばならない。水の重みと、自身の”肺活量”とを。
「~~~ガボボッ!」
怪力溢れる男の巨躯も、それが最大限に発揮されるのはあくまで平常における環境下。それは男だけが例外ではなく、人間の持つ身体パフォーマンスは病気やケガ。そしてメンタル的な理由等様々な条件で弱体化する。
そのほとんどを意にも介さない男の気力はさすがと言うべきだが、しかし生命が生命活動を続けるに当たって、常に接種し続けねばならない”空気”を奪われてはどうか。
――――刻々と沈んでいく男の体がその答えを示している。
「ガボッ! ボボッ! ~~~ガボボッ!」
男の大きな口から次々と乱れた気泡が浮きあがる。人間の最も苦しい死に方は溺死だといつかどこかで知った気がする。
呼吸を強制的に防がれ、苦しさに耐え兼ねもがけばもがくほど、逆に体力が奪われていく状況はまさに”蟻地獄”と形容すべきだろう。
水と言う名の死神が男を地獄に続く穴へと突き落さんしているこの状況は、死神らしくそれはそれは残酷な処刑方法なのだろう。
こうなればもう詰み。後は男の息が切れるのを待つだけだ。
しかし残念ながらそれを悠長に待っている暇はない。僕はできるなら今すぐ、一刻も早く男に溺れてもらいたいのだ。
――――何故なら。
(ま、まじで……くる……し……)
(~~~~ガハッ! んぐぅ――――!)
水は、僕の息をも止めているから――――
「~~~~~!」
(~~~~~!)
こびりついたガンコな汚れのように中々力尽きない男に比べ、僕の意識は漂白剤のように着々と薄れていく。
この大渦のど真ん中にいる僕にも水の死神は容赦なく降りかかり、あろうことか自身の発生させた”渦”のせいで、自分の息継ぎもままならない。
大渦の壁が僕を監獄の様に閉じ込め、シャバの空気を吸いに行くのを全力で防いでくる。この苦しさから逃れるには【水牛】の解除しかない。
しかしそれをやってしまっては最後。水の重しから解放されたこの男がまた……ここへ来て飛んだ誤算だ。男がここまで粘るとは一体誰が思ったか。
そしてそれは男の目線でも同じ事。双方共に手は出し尽くした。お互い相手がここまで粘るとは思わなかっただろう。
もはや作戦も減ったくれもない。戦いとすら呼べない。体重も身長も年齢も関係ない。
これはただの、殴り合いよりももっと原始的で、もっともわかりやすい勝敗判定方法。
――――単純な
『我慢比べ……!』
絶え間なく溢れる水の渦が両者の意識をすり減らしていく。僕から見れば男はチーターに襲われもがき苦しむ草食動物にしか見えないが、向こうから見ればエサが落ちてるからと自分から底なし沼にダイブしたアホ小動物にしか見えないのだろう。
苦しい……この苦しさから一刻も早く逃れたい。しかし相手の存在がその決意を許してくれない。
この個人的究極の選択に置いて僕がこんなに苦しんでいるのは、どっちを取るでもなく、ただ優柔不断に決めかねているだけだからだ。
”正念場””ターニングポイント””分岐点”――――今まで僕にはなんら無縁だったこれらの言葉が今、僕の脳裏を高速ローテーションで回っている。
知らなかった。みんなの言う”ここ一番”って奴が、こんなに辛かったなんて。
知らなかった。みんながそんな辛い思いを乗り越え今まで生きていたなんて。
知らなかった。乗り越えた経験があったからこそ、ここまでやってこれたんだって。
あの普段アホそうにしてる運動部員も放課後やかましい吹奏楽部員も逆に静かすぎる美術部員も、熱い言葉が大好きな担任教師も、そして――――
(芽衣子――――)
芽衣子は成績優秀で運動もできて人柄もいい。まさに完璧超人にしか見えない芽衣子だって……そうなるまでにいくつの壁を乗り越えたんだろう。
一日どれだけ勉強しているのか、一日どれだけ練習しているのか、一日にどれだけ愛想を振り向くのか。
内心嫌いな奴、きもいヤツ、ムカツク奴もいるだろう。しかし芽衣子は悪口一つ溢さず、全員に平等に、この僕にすら、あのまばゆい笑顔を振りまいている。
だからこそ、芽衣子の為に動く事が出来た。あの笑顔をもう一度見たいと思ったから、何も考えずに、モノクロの言われるがままに追う事が出来た。
それは芽衣子が与えてくれた、初めての経験――――
(努……力……?)
しかし遅すぎた。人ならば生まれてから今までいくつ積み上げてきただろう努力を、事もあろうに僕は、たった今。中学生にもなって、初めて行ったのだ。
今まで乗り越えてきた人たちは、過去の経験から何をどうすればいいか、どういう心構えで臨めばいいか。漠然とした感覚でなんとなくわかるのだろう。
でも僕はさっぱりわからない。積み上げてきた物がなにもない。”一生懸命頑張る”そんな小学生の感想文みたいな答えしか湧いてこない。
だからこの、終わりの見えない我慢比べで、一体何をどう頑張ればいいのかが――――
(わから……ない……)
――――直後、ゴボンと大きな泡が口から這い出てきた。苦しみは臨界点を超え、あれだけもがいていた手足が糸の切れた人形のように、だらんとただ水中を漂っている。
思考が薄れているからか、水玉に解除の命令を出す事もできない。僕はさっきまで男を倒す事しか考えていなかった。水玉はその思いにリンクしている。
術者が命の危険に瀕していても止まらないと言う事は、男はまだ粘っているのだろう。あの暗い穴の底で。
「グブッ! ガババッ! ガボォ……!」
案の定、男は耐えていた。苦しみからか顔の筋肉を全て使った、それはそれはすざましい形相をしているが、それができると言う事はまだ猶予があると言う事だ。少なくとも、”僕よりは”。
(……)
死んだ……完全に死んだ。今まで受けるべき苦しみを、あの手この手で逃れ続けてきたせいだろうか。その反動なのか、こんな、最も苦しいと言われる死に方をするなんて。
これが所謂因果相応と言う奴だろうか。正直そんな悪い事をした覚えはないが……いや、そう思う事がすでに悪なのだろう。自覚がないと言う事がすでに”悪い事”なのだと。
ふいに、体が仰向けになった。力が抜けたからか、体が水中を浮く感覚がする。日の光が水面に反射してキレイだ。その光はまるで、天からの迎えの用に思えた。
今思えば、芽衣子の笑顔もこれに負けないくらい眩しかった。脳裏に浮かぶのは、あの時偶然話す機会があったあの時。それは、心が芽衣子に落ちた瞬間。
キレイな瞳が蛍光灯に反射してキラリとしていたのを覚えている。そうそう、ちょうどこんな感じだったっけ。
水面の光と芽衣子の笑顔がリンクする。段々と想像の芽衣子が鮮明に浮かび上がってきた。
それは死に際の幻覚なのだろうか。はたまた走馬灯と言う奴なのだろうか。ハハ、だったら僕には芽衣子しかいなかったのか。
今まで思い出なんてロクになかったもんな。それは、僕が全てから逃げ続けてきたから――――
(……ん?)
芽衣子の幻影は実に眩しい。本当に眩しい。
目が、口が、耳が、花が、所々がキラキラと、幻影とは思えないくらいそれはそれは鮮明な光で――――光が――――
――――光の――――光で――――
――――!?
(――――ホントに光ってる!?)
『アニキを助けろォーーーーッ!』
(んんッ!?)
異変に気付いたのは、直後聞こえた大声だった。渦の音をも突き破る、外からの声が次から次へと僕の耳に届く。
そして見上げれば、”光”。水面の反射……にしては妙に現実的な光が、一つ、また一つと僕の目の前で増えていく。
『あの少年を助けるんだ! じゃんじゃん持ってこいッ!』
薄れ行く意識の中、最後の力を振り絞り首を外へと傾けた。――――そして気が付いた。僕はちゃんと今まで”積上げていた事”を。
『なんでもいい! 投げろ投げろ! 』
『全部”放り込め”ーーーーッ!』
声。その正体は先ほど男にやられ、地に伏せていた兵士達であった。
帝国の維持か、山賊のプライドか、それとも一矢報いたい復讐心か、彼らは大声を上げながらこの大渦を巻く【水牛】に、次から次へと”モノ”を投げ込んでいく。
(おわっ! 危ないな!)
光の正体が今僕のすぐ横を掠めた。道理で、妙に現実的な光だと思った。
光の正体――――それは、”金属の反射光”彼らが所持している金属――――つまり、”武器”をこの大渦に向けて次々と投げ入れていたのだ。
投げ方が少々雑なのはご愛嬌。投げ込まれた武器は直ちに渦に巻き込まれ、そして円を描きつつ重い部分。すなわち刃を下に、男のいる方へと向きを変え、そのまま渦の流れに従って”落下”していく。
(ま、まじかよ!?)
と言う男の心の声が聞こえた気がした。ああ、お疲れの所済まないが、マジだ。
剣に、槍に、弓に、それが無くなればついには鎧を脱いで投げ入れる者まで現れる始末。この場にいる男以外の全員が、自身の所持品をゴミ箱のようにこの渦に投げ入れるのだ。
それらは渦の向かう先。男の方を向けて一直線に降り注ぐ。水と重みと渦の加速を付け、隕石の群れの様に――――
(お、おァァァーーーーーッ!)
――――ふと、思い出した。僕がとっさに名づけたこの【水牛】
特に何も考えず、「重いからまぁ牛だろ」と言う単純極まる連想だった。
意味なんかなかった。なんでもよかった。
でも、今はこの名にしてよかったと思ってる。思い出したんだ。よく考えれば……
『武器が無くなった! じゃあその辺の門片っ端からつぎ込みやがれェーーーーッ!』
――――水牛は、”群れ”で生息する。って……
(ガハッ! ウゴゴッ……あだだだだ!)
渦から放たれる無数の刃はその全てが男に向けて放たれる。放たれた刃は瞬く間に男の体を掠め、傷付け、水を赤く染め上げていく。
数の力を烏合の衆とのたまった男が、最後は数の力にやられるとはなんたる皮肉か。
これではさすがの男もたまらないだろう。堪える力が見る見る内に弱まってく様子が、ハッキリと見てとれる。
刃の群れは次第に減っていき、かと思えば入れ替わりにさっき男が破壊した木材、柵が現れた。
よく見ると中に混じってトンカチや釘などの工具品。しまいには皿やコップなどの日用品まで入っている。ハハ、どれだけ適当に投げ込んでいるんだよ。
しかしこの場に置いては随分有効なようで、たかがコップでも勢いよく投げられれば結構痛いからな。
その証拠に、男が頭を押さえ痛がっている。”角”の部分にでも当たったか?
――――ズリュリュリュリュル……シュシュシュシュ!
(う、うわっ! いでで、いでェぇ~~~~ッ!)
そう言えば、彼らと知り合ったのって元々オーマのおかげだったっけ。
山賊はオーマのハッタリで。山岳隊はオーマの事故で。彼らと知り合い、彼らと苦楽を共にした”積み重ね”が、水牛の群れの様な仲間意識を芽生えさせたのだろうか。――――オーマと言う共通の敵の存在で。
(……)
みんなが僕を助ける為に一丸となっている。ここまでずっとお荷物だったのに。何度も足を引っ張ったのに。――――嬉しい。こんなに、今までこんなに嬉しいと思った事はない。
『オーライ! オーライ!』
(ん……?)
「我が神聖な帝国の民を汚す者は、重き天罰がその身に降りかかるのだァ!」
堅い口調のおっさん……真っ先に伸びてたと思ったら、いつのまにやら復活してたのか。ありがとうおっさん。あんた軍人らしくやっぱり”堅い”ヤツだったよ。
所で声高らかに決め台詞を言ったのはいいが、おっさんは何を投げるんだ? 見た所鎧も剣も装備したまんまだが。
「狼藉者、食らうがよい! 自身がしでかしたその罪の重さを!」
……おっさん、またえらいもんを持ってきたな。
確かにこいつは派手に暴れたが、それはさすがに、ちょっとカワイソウって言うか……重すぎるっていうか……オーバーキルっていうか……
――――グオオオオオッ!
どこに消えたかと思えばいつの間にか地竜とタッグを組んでいたのか。堅い物同士気が合うのだろうか。
そしておっさんが指示したんだろうな。地竜はその口にこれまたどえらい物を咥えて持ってきた。
それは両端がシカの”角”のように無数に枝分かれした、この基地の作る上での原料となる物――――
「ゆけーーーッ! 大地の怒りじゃーーーッ!」
――――グオオオオオッ!
ご愁傷様。今度こそ終わりだ。これは以下にこの男でも耐えられないのは明白だ。
そろそろ意識も尽きそうだ。お前の断末魔が聞けないのは心残りだが、安心して沈め。
『食らえェェェーーーーッ!』
――――ズブゥ!――――ギュル――――ギュルギュルギュル――――!
今し方投げ込まれた、兵達の武器と比べはるかにデカい”それ”は、その大きさゆえに大渦に巻き込まれる事無くその場で強い回転を描く。
無数に枝分かれした先端が回転の影響でドリルのような軌道へと変貌していく。ふいに、水が茶色く濁り出した。それはこのでかいのに着いた”土”が零れ落ちたからだろう。
この大穴に負けないくらいのサイズのこれは、きっと山にのほほんと”生えていた”所を不運にも選ばれてしまったのだろう。
この不運の穴に色んな意味で相性のいい”それ”は、この不運を終わりを告げる鐘を鳴らすのにぴったりだ。
この大穴と一緒に大地の肥料となれ。
――――この巨木で。
(おぁぁぁぁーーーーッ!)
ァァァァ――――
ァ――――……
(――――)
――――ィ……っか――――え!
(……ん)
――――ニキ!――――しょうね――――ろ!
(な……んだ……うるさいな……)
『アニキィ!』
『少年!』
(声……?)
――――起きろ。
「ハッ!」
独りでに、目が見開いた。さっきまでの暗闇がウソのように、まばゆい光が目の中へ飛び込んでくる。
寝ていた……いや、気絶していたのか。
『アニキィ~~~~!』
『少年! 無事だったか……!』
「……」
ふと、辺りを見回した。そこには僕を取り囲む人の列が寄り集まっていた。
僕を取り囲む人々は歓声を上げ、口々に僕を労っている。どうやら本気で死んだと思っていたらしい。
僕の寝顔、そんなにひどいのか? 少しだけ心が傷ついた。しかし彼らの体に比べればまぁましか。
――――グオオオオオ!
彼らの歓声に当てられ地竜も、声高らかに咆哮を挙げる。ビリビリと体に伝わる振動が、”まだ生きている”と言う実感を感じさせてくれる。
生の実感を感じた所で、ふと口の中からこみ上げる物が沸いてきた。それは僕の意思に関係がなく、コップに溢れた水のように。
「ウプッ!」
――――オェェェェ……
また、やらかしてしまった。個人的”禁忌”ランキング上位に入るこの行為を。
口から出てきた吐しゃ物は、文字通りの”水”であった。どうやら結構な量を飲みこんでしまっていたらしい。
僕の目覚めと共に胃袋も目覚めたのか、溢れる水が蛇口のように止めどなく湧いて出来る。
「あ、アニキ大丈夫ですかい?」
「せ、背中さすって……誰か……」
毎度ながら、何をやってもどうも閉まらないな。僕がお笑い芸人ならこれは立派なオチになろうモノなのに。
背中を擦られながら一通り水を吐きだした僕は、その反動でまた頭がフラフラしつつ、ぼんやりとした視界からもう一度周りを見渡した。
僕の周りにはやはりみんなが輪の様に取り囲んでいる。僕が寝ている間にかごめかごめでもやっていたのだろうか。
「後ろの少年だぁれ」ではないが無意識に後ろを振り返ってみた。すると、後ろにも僕の無事を祝うみんながいた。
この僕の周りいるみんなは、僕が生まれて初めて”積み上げた”結果集まった人達。
僕に向けられた視線の一つ一つが、今までたまたま目が合っただけの通りすがりではなく、確かに”僕”と言う存在を認識した上での視線であった。
「みんな……」
ふと、彼らに感謝したくなった。僕なんかの為にここまで集まってくれて。僕を人として見てくれて。
その目線に、上っ面ではない心の底から、ありきたりで何度も聞いた、この言葉が溢れてきた。
「ありが……とう……」
少し、気恥ずかしかった。本心ではない全くのお世辞なら、何べん言おうが何も感じないのに。
心をさらけ出すと言う事がこんなにも恥ずかしかったなんて、今まで知らなかった。「ありがとう」この一言がこんなに重い言葉だったとは。
――――そして彼らはこう答えた。それが本心なのかただのお返しなのかは知らないが。
「何を言うか少年。君のおかげで我々は助かった。礼を言うのはこちらの方だよ」
「アニキ、さすがでした! こうして無事でいられるのは、アニキのおかげでさあ!」
『こちらこそ、ありがとう』
知らなかった。「ありがとう」この一言がこんなに重いなんて。
僕は再び倒れ込んだ。体力の消費もさることながら、今はただ……なされるがままに。
「ありがとう」その言葉の重みに潰されて。
「……ちかれた~」
見上げると空には虹がかかっていた。水をそこかしこにばら撒いたからだろう。
なんとなく、七つの色が僕に向けて「お・つ・か・れ・さ・ま」と労ってくれている気がした。
しかし僕は返事を返さない。返事をしてしまえばこれまたなんとなく、この積み上げた時が、永遠に続いてほしいこの時が、瞬きをしてる間に、終わってしまう気がしたから……
「へへ……なんか、頑張った後の一休みっていいなぁ……」
さっきまで命のやり取りをしていたとは思えない程の、緩みきった感情が身を包んだ。こんな経験生涯においても数える程度しかないだろう、と言えるくらいの地獄の苦しみを味わったんだ。
命を賭けたモグラ叩きの後、気絶するまで溺れかけたのに。学校をさぼって二度寝するより心地いいのは何故だろう。
ああ、そうか。これが所謂”仕事後の一杯”って奴か。なるほどなるほど、確かにこれは癖になる。
今ならブラックコーヒーも飲めるかもしれない。普段は口に入れた瞬間吐き出すくらいだけど。
――――ズゥン……
「わっ!」
「ん……?」
ふと、重い音が前から鳴り響いた。音に釣られ前を見ると、オーマの開けた大穴に大きな木が一本そびえ立っている。
ああ、そう言えば地竜がどっかから引っこ抜いてきた木をそっくりそのまま突っ込んだんだったな。全く、派手な植栽な事で。今回最も割を食ったのは、あの無意味に引っこ抜かれた樹木だろう。
そしてそのかわいそうな木は、これまたかわいそうに今にも倒れそうなくらい傾いている。じゃあさっきの音は木が傾く音か。
ちょうどいい。これを機にこのままここに根付かせて、宿舎のモニュメントにでもすればいい。この木何の木気になる木とでも名付けてな。
「……」
ただでさえボロボロの宿舎がさらにボロくなってしまった。軍の宿舎と言うよりもはや廃墟に近い。
このまま放置してればいずれ尾びれ背びれが付き、二、三か月もすれば立派な心霊スポットになるだろう。
そうなる前に、改装ついでにガーデニングでもするといい。花をたくさん植えれば、ひょっとしたら軍の堅いイメージも和らぐかもしれない。
「ハッハッハ! 我が帝国の繁栄に木々もよろこんでおるわ! なぁ、竜よ!」
――――グオオオオオ!
……あいつさえいなければ。
「あの木、あのまま倒れたらちょっと危ないな。おーい、ロープないか」
「お、軍人さんらよ。工事なら手伝うぜ」
「すまないな。恩に着る」
「へへ、水くせえ。俺らとお前らの中じゃねえか」
山賊の癖に共に釜の飯食った感覚で進んで奉公するこいつらに違和感を覚える。そしてそれを甘んじて受け入れる軍側にも。元々お前らはドロケーの関係だと思うのだが。その辺は気にしないのだろうか。
まぁ、これだけ助けて貰っといてその場で逮捕ってのも酷な話か。彼らは軍人の前に人間だ。恩くらい感じるさ。
とりあえず、後はオーマ待ちだな。そういえばあいつどこまで行っているんだ。こっちはこんな大変な目に合っているって言うのに……
全く。トップがワガママだと下っ端は振り回されるって部分は、軍も僕らも一緒だな。いやまぁ、軍のトップがどんなヤツなのかは知らないんだけどな。
「ふぅ……」
――――
『うわぁーーーーーッ!』
「ぬえっ!?」
突如、誰かの叫び声が聞こえた。あの木の方からだ。
声に驚きおもむろに前を見る。すると傾く木を立て直すべく向かった連中が、顔面蒼白の状態でカタカタと震えている。
どうしたんだ一体。もしや、穴から温泉でも湧いたか? いや、だったらもっと喜ぶな……
「う……あ……」
穴と樹木の間には、わずかな隙間があった。樹木に比べ穴の方がわずかばかり広い為である。
木が傾いたのもそのせいだ。木と穴には、直立させるには広すぎる空間があった。
その隙間は、”人一人”くらいなら、余裕で入れるほどの――――
(ま……じか……)
――――ガタッ――――ガタガタッ
――――ガシ
「ボ……ン……」
(うそ……だろ……)
その人一人くらいなら余裕で入れる隙間から、木と穴の壁を伝って誰かが這い出てきた。
誰かとは言わずもがな。あの穴に落ちたはずの――――”男”であった。
後編へつづく