百二十七話 汚泥
『オォォォォイ! 残り”3分”切ったぞォーーーーッ!』
「…………」
数分に渡る静寂の後、その静寂を打ち破るはスマホが告げる「猶予」の知らせである。
アルエが提示した「10分」と言う制限は走馬灯の如く過ぎ去り、残り僅かな時間で生まれた状況はまさに「墜落」の二文字である。
地平線は、もはや限りなく目線と平行となりつつある。
それは舟体は勿論、舟の上にいる二人の男の目線。
その中で唯一目を瞑る、眠れる大魔女一人を除いて。
――――ゴゴゴゴゴ
「ゴホ……来ましたよ! 少年!」
『た、頼むぞオィィィッ!』
「…………」
空飛ぶ舟が地上へと沈む最中で、新たに状況の変化があった。
それは風のざわめき。
巨大な質量体が地へと堕ちる際に発生する「突風」が、地表に生い茂る草木をザワザワと騒めかせ、その騒めきを景気に静寂はまたしても騒乱へと舞い戻る。
『おおお、落ちるッ! マジで落ちる五秒前やぞォーーーーッ!』
「コラ落ち着きなさい! まだ五秒前ではないですよ!」
「コポポポーーーーッ!」
アルエの集中を邪魔立てしまいと黙した一同であったが、墜落の目前とあってはさすがに沈黙を維持できずにいた。
これほどの巨大質量が、高度数百mの高みから落ちれば。一体どうなるのか。
舟も、その上にいる者も――――。
無機物も有機物も関係なく、等しく「同じ目」に合うのは、誰しもが想像に難くない
そして一同の不安を駆り立てる最大の要因。
それは当のアルエが、大役を任された後の静寂の果てに――――。
まるで”ボーっと突っ立っているだけ”に見える事が、何よりの不安であった。
『ああああこのガキ何をボケっと突っ立ってけつかんねアアアアア――――』
「うるさい電子機器ですね……黙りなさい! 少年の集中が途切れたらどうするのです!」
『だからあいつはそんな集中とかできるタイプじゃないあいあいあいあいあい――――』
「あまり今声を出させないで……ウッ! ゴホッ!」
「ゴホッ! ゲホッ……の、喉が……」
『あ”あ”あ”あ”あ”ウイルスが蔓延じでるでぇぇぇぇぇぇッ!』
混乱するスマホに諫める医者。
それらが織りなす騒乱は、無論アルエの耳にも十二分に届いていた。
すぐ後ろでがなり立てる声はひどく耳に刺さる――――。
だが、アルエに取っては”所詮その程度”の煩わしさである。
(うるっせえなもう…………)
普段から極度の「めんどくさがり」であるアルエに取っては、少々の喧しさはあくまで「ウザい」の範疇を越えない。
その証拠に、アルエの耳はすぐさま静寂を取り戻した。
単純な話である。「耳穴を水で栓をした」、それだけである。
「サンキュー水玉。アイツは戻ったら機種変するからそれで許してくれ」
「コポッ!」
水のゆりかごを生み出す事。その行為に音は必要ない。
草木の騒めきも、御供の喧噪も、大魔女の寝息も――――今は聴覚そのものを必要としない。
この場で必要とする感覚は、あくまで「視界」だけである。
両の目をしっかりと見開き、墜落の瞬間を見逃さぬ事。
我が目で持って刹那を眼に焼き付ける事。
それが今最も必要な感覚――――で、あるはずなのに。
「あ~~くっそ! 眼が……!」
「コポ…………」
騒乱は外だけでなく、アルエの内部にも巻き起こっていた。
それは音ではなく、体内に蠢く”蝕み”が所以である。
蝕みはアルエの眼を乱雑に掻き乱し、溢れる涙でもって必要な視界をこれでもかと阻害する。
この土壇場でアルエの身に降りかかった問題
それらの異常をもたらす原因は、先程からしぶとく居座り続ける「大魔女の毒」である。
「は、鼻水が……水玉、吸って吸って!」
「コポポポ~~~!」
蝕みは時を経る毎に成長していき、それは眼のみならず鼻や喉までもを縦横無尽に侵食する。
その結果として起こるは強い過剰反応。
涙、鼻水、くしゃみ――――。
あらゆる手段で体内に蔓延する毒をを除去しようとするアルエの身体であるが、しかし皮肉な事に、その防衛反応こそが今最も邪魔である事をアルエの肉体は理解していなかった。
医者の前持った宣告通り、時を経る毎に毒の症状はより重く積み重なり、そして今。
もはや自分の意志ではどうしようもない段階。
ほぼ末期と呼べるほどまでに、毒の効能は次々と表面化していった。
「――――ぶあっくしょおおおい!」
『おああああ! な、何事や!?』
「ただのくしゃみですよ……もう、イイから君は黙って……ゴホッ!」
咳、痰、けだるさ――――。
医者に現れた症状は、所謂「風邪」に近い症状である。
対してアルエの場合は、ひどい目のかゆみと、溢れて止まらない鼻水。
それに加え、悲しくもないのに勝手に流れ出す無数の涙の粒々。
それらの症状は強烈ながら、しかし「毎年春頃になると訪れる病」と非常に酷似している事にアルエは気がづいた。
それはアルエはもちろん、現代人なら誰しも一度は罹る季節病である。
(こ、これってもしか…………)
人呼んで――――。
「か、花粉症かよ……!」
アルエが制限時間を10分としたのも、この花粉症に似た症状が所以の事である。
精霊との同調は、術者の精神が万全である事が絶対条件の必須事項。
精霊と一体化する想像と、それにかかる相応の集中力。
アルエの場合そのどちらも満たしてはいるものの、しかし反面肉体はその限りではなかった。
止まらぬ鼻水が感情を逆立たせ、やまぬかゆみが感覚を阻害する。
そして連鎖して噴き出るくしゃみが、吐き出す度に思考そのものを吹き飛ばす。
結果として同調は段々と断続的に目減りし、鈍り、崩れ、その果てに――――。
直に、静寂すらも奪い取る。
「あああああもううっぜえええええ!!」
「コポッ! コポコポコポォ~~~ッ!」
奇しくもそれは、精霊使いにとって最も効果的な毒であった。
偶然ながらも精霊同調の根幹から阻害する毒の効果。
しかもそれが”味方によってもたらされた”とあれば、アルエの冷静は余計彼方へ吹き飛んでしまう。
「ホントもう余計な事ばかりしやがって…………!」
症状の深刻化イコール精霊との同調不全。
そんな八方ふさがりな状況に陥る、その前に。
「持って10分が限界」――――アルエは、そう予期せざるを得なかった。
「…………zzz」
(マジぶん殴りてえ……)
そんな各々の苦労もいざ知らず。
危機的状況に陥れたに合わせた当の本人は今、この場の誰よりも安らかな寝息を立てている事に、さすがのアルエも苛立ちを隠せない。
下手を起こせば死の可能性がある状況の中、一人だけ安全圏から安堵に佇んでいる事。
その姿は、人を憤怒に湧き立たせる事とほぼ同意義である。
(…………ったくよぉ!)
しかし――――アルエの憤怒は、そのまま不発で終わった。
燻る苛立ちは依然残ったままである。
だがその怒りはもう外へと吹きあがる事はなく、あるのは苛立ちすらも飲み込んだ鎮静のみである。
「起きたら…………覚えとけよな!」
此度の大魔女の失策は――――同時に、”示唆”でもあった。
正確に言えば、”結果としてそうなった”。
大魔女のしでかした多大なる迷惑が、アルエと言う曲解を介すことで――――。
それは二転三転の果てに”糧”へと変貌を遂げる。
「て…………っめぇらァーーーーッ! 行くぞォーーーーッ!」
『えっ!?』
【残り1分】――――もはや地表が眼前に広がる程の視界。
こうなればもう激突は目前。各々の面持ちは関係なく、嫌が応にも「覚悟」を持たざるを得ない段階。
言うなればいよいよ持って「来たる時」である。
「少年! まだ早――――」
しかし一同はその行いに驚きを禁じ得ない。
何故なら――――事を起こすには”まだ早すぎた”為である。
「出ろォーーーーッ! 水玉ァ――――ッ!」
事前の打ち合わせでは、水の緩衝材を激突間際に膨らませる予定であった。
ほんの一瞬だけ、ほんの一回だけに出す精霊の最大出力。
それならば、「以下に疲れ切ったアルエだろうと十分に可能だろう」と、それが医者の目論見だった”はずなのに”。
『オィィィィ! 先走ってんちゃうぞボケェーーーーッ!』
「くっ! この土壇場で錯乱しましたか――――!?」
医者は、アルエの思わぬ曲解に慌てて止めに入る――――しかしもう遅い。
刹那、地表は瞬く間に巨大な水溜りとなった。
アルエの号令により大地は噴水のように水が湧き立ち、湧いた水が重力に従い、直後雨のように大地へ降り注ぐ。
だが、その全ては舟の直下での出来事。
一瞬とは程遠い「維持」が必要な距離感である。
結果――――舟と大地の間には、それはそれは見事な噴水が巻き起こった。
泣きわめく赤子をゆりかごに寝かせるには、あまりに広すぎる空隙が、依然として残っているままに。
『終わった……やらかしよった……』
「一体何を…………!」
(――――これでいいんだよ!)
しかしその実、アルエは錯乱したわけでも動転したわけでもなかった。
アルエは至って冷静。どころか自分の行いが都合無視の思い付きである事は、何を隠そう当の本人が重々承知している。
本人すらも把握する「速すぎた」揺り篭の発動。
しかしその行為にはとある理由があった。
(無事着地できても……そのままぶっ倒れたら意味ねーだろ!?)
――――「姿勢の維持」である。
「これは…………!」
アルエが土壇場で思い返した事――――それは医者の例えである。
医者はアルエに説明を施す際に、「卵」に例えて説いた。
その意味は「卵を落としても割れない程のクッション」の意のつもりであったが、しかしアルエはその例えに別の意を見い出す。
卵の、丸みを維持した先細りの形。
それは丸でも三角でもない、「卵形」と固有の名を付けられた独自の形である。
その卵固有の形と――――”舟の底面構造とが非常に酷似している”のは、ただの偶然ではない事をアルエは知っている。
(そういう形なんだろーが! 水に浮かぶための……!)
アルエが思い浮かべたのは、一般的に「船舶工学に基づく船底形状」と呼ばれる物である。
無論専門家でもないアルエが、その詳細を把握しているはずもない。
しかしながら、知識の存在そのものは知っている。
それはいつか、自室の布団で寝そべりながら得た、所謂「にわか」と呼ばれる知識である。
そしてその思い浮かびが、連鎖して気づきを誘発する。
似通った形の卵の船底。
酷似の所以こそ知らぬが、両者には共通して一つの事象が存在事である。
(無傷で送り届けるのが…………お前役目なんだろうが!)
それは、「立たない」事――――。
立たない卵を立たせる方法。
「何かでくっつける」か。あるいは「割って」無理やり立たせるか。
そしてそんな形と酷似した船底にも、ほぼ同様の事が言えよう。
水上に浮かぶ為に生み出された形状が、陸地での姿勢維持を果たせるはずもない事は明白である。
そんな立たない物を無理やり立たせようとすれば、一体どうなるのか。
例えに使われた卵同様に「割る」と言う行為を施せば、この場面でどういう事が巻き起こるのか。
答えは――――「大破」。
それは此度の奪還作戦に置いて、もっともしてはならぬ失敗である。
『アアアア絶対逝ったってぇーーーーッ!』
「お待ちなさい! あれは…………」
『…………んあ?』
その「最もしてはならぬ失敗」を回避するべくアルエが取った方法が――――。
汁に塗れたアルエの顔面と酷似している事は、ただの偶然である
「ガンガン噴き出せ水玉! ドロッドロのべっちゃべちゃになるまで!」
「コポォ――――!」
そして遅ればせながら医者は気づく。
アルエの先走ったと思われた行動が、その実むしろ”遅れ”を取っていた事に――――。
「――――”沼”!」
医者は、この天駆ける舟を「飛行物」と捉えていた。
それかねてからの調査と、どこからか情報を送ってくる内通者によって下した結論である。
「舟は帝国が生み出した新技術による、産業革命の副産物」。
故に奪うに値する物であり、実際自らが奪還の役目を仰せつかった。
「わかったか!? ”不時着”じゃダメなんだよ!」
「着地ではなく…………”着水”! そう言いたいんですね!?」
しかしアルエの見解は異なる。
その根本は、アルエが帝都にて聞かされた、舟の製造へ至る「経緯」である。
曰く「英騎の繰り広げる惨劇から脱出する為」――――。
これは舟の製造に関わった張本人。
先ほどオーマと激闘を繰り広げた、王子自らの言葉であった。
「――――舟は元々水に浮かべるもんなんだよ!」
言い換えれば、危険地帯から安住へ移動する為の「運び」とも言える。
その「運び」に別段決められた指定はない。
――――故に、アルエの見解はこう。
「空はあくまで運び先の一つに過ぎない」。
王子の言葉を真に受けるならば、そこが危機と無縁である限り――――。
地上であろうが空であろうが。それが仮に”水の中”であろうが。
「”大地の液状化”…………しかし、今更間に合うのですか!?」
「間に合わせる為に…………今必死こいてるんだろうがァ――――ッ!」
アルエの土壇場で舞い降りた起点に寄り、舟の直下で大量の水が降り注ぐ。
降り注いだ水は落ちると同時に大地に吸い込まれ、そして視界から失せる。
しかし、消えたわけではない。
あくまで目に見える範囲から運び出されただけであり、降り注いだ水は、露か、霧か――――。
いずれにせよ、形は違えど、”水は確かにそこにある”。
「残り――――【30秒】!」
「出せ出せ出せ出せェーーーーッ!」
そして、見えず共確かに残る水の上から、さらに絶え間なく水が降り注げば――――。
水を吸い続けた大地はいつしか臨界を越え、大地の混じった水へと逆転現象を起こす。
それは、海や小川のように美しい蒼こそ出る事はない。
が、暗く濁った「泥」でも水は水である。
要は液体ならば何でもいい。それはアルエ曰く「舟は水に浮かぶ物」であるが為に。
『ま、間に合うんかいや…………』
「残り【20秒】…………地表激突、もう間もなくです!」
大量の水を、舟を着水させるべく局部的に大地へと垂れ流すアルエ。
それに比例してアルエの体液も、まるで滝のように顔面から溢れ出す。
鼻水、涙。それに加えついには汗や涎までも。
人体の持つ水を総動員させながら、顔から体へ、上から下へ――――。
(くっ…………)
本来ならば、今すぐ拭い去りたい程の強烈な不快感である。
アルエの衣服は「湿り」の段階をゆうに飛び越え、もはや絞れば流れる程の「濡れ」に溢れている。
まるで学校のプールに制服のまま突き落とされたような――――。
そんな嫌がらせの妄想が過る程度に、あらゆる意味で不快である。
しかしアルエは、あえて受け入れた。
拭う事も、文句を言う事すらもない。
いつしか全てを忘れて、いつしか全てをキッカケに変えて――――。
全ての「濡れ」を身体の隅々へと吸い込んだ。
「…………zzz」
それは精霊との同調において、自ら液に浸る事で「水との同調の助長となる」と言う意味合いもあった。
だがそれはあくまで建前上の話である。
アルエは全てを受け入れた本当の意――――。
それは「魔女が与えた毒が、結果として幸運を呼んだ」と言う”どこかで聞いた童話”のような状況に、ある種の安心を感じていたが故の事である。
アルエの記憶が正しければ、その童話は最終的にハッピーエンドで終わる。
世界的に有名な某社の某ストーリー。
このひどい不快感が、その童話と同じ過程をなぞっているとすれば、アルエは安心して先だけを見る事が出来た。
「【10秒前】――――残りはご自分で!」
そんな建前も本音も、アルエは全てを飲み込んで――――。
泥にまみれた沼へと、沈ませた。
(いける………………)
(………………のか?)
そんなアルエの中にある、唯一の気がかりは――――。
なぞる童話の主人公は、過程において必ず”死”を迎える事。
それのみが、唯一の不安であった。
つづく