百二十三話 成行
コォォォ――――と風を切る音が、その場にこだまする。
耳にしかと届くその風切音は、鋭利な音と反して実に爽やかであり、かつどこか柔らかい感覚すら内包している。
それは風の強弱の具合。
音に現れる程度に強く、しかし衣服と髪をなびかせる程度に弱い。
この絶妙な加減が、「風を浴びし者」にほんの一時の癒しを与えた事は言うまでもない。
「………………」
――――長い沈黙と、共に。
「随分と、離れましたね」
「……」
肌を通り抜けるかのように実感する風の感触。
そんな感触が持続的に流れる唯一の場所――――。
【空】。そこは無限に広がるかのような壮大な空間。
この異界を支配する魔法の力ですら、辿り着く事の出来ない蒼の空間である。
そんな中を”今この時に限り”自在に飛び交う事が出来る存在が、その場には三名いた。
【水を使役する召喚者アルエ】
【魔王を夢見る大魔女オーマ】
そして、そんな二人の水先案内人を務める、英の騎士の従者。
医者を名乗るテロリストが、その内訳である。
「追っ手はなし。航路は順調。危険領域は無事突破しました」
「言いきってしまっていいでしょう。作戦は無事、成功です」
案内人を引き受けた医者の役目は、無論道中までの依頼人の保護も含まれる。
その医者から見て、二名の依頼人の内一名は、未だ狼狽の面持ちが隠せないでいた。
【精霊使いアルエ】
その二つ名は「精霊使い」とは別に、一方で「英騎の知人」としての側面を持つ。
「従者」ではなく「知人」。すなわち英騎と対等の意味合いを持つ二つ名である。
その英騎と対等を名乗るアルエの、その脳裏には――――未だ強く焼き付いていた。
「…………」
先刻、追い求めた英騎をついに目にした――――のも束の間。
まるで「知人だと思っていたのが自分一人だけ」だったかのように、二人が真逆の方向へと突き進んでいった記憶である。
出会いと同義の別れ。
そんな相反する事象が同時に起こった反動が、アルエの心に深い傷を刻みつけた。
窺い知るまでもなく、第三者からも見ても明らかな程に。
「心配せずとも……言ったでしょう?」
「英騎は必ず戻ってくる。故にきっと、二人はまた会える」
「その為の私です」
そんなアルエの心中を察してか、医者がアルエに安堵を促す言葉を投げかける。
その言葉は、ある意味ただの気休め。だが一方では自身への抱負でもある。
「自分が必ず二人を引き合わせる」――――そんな口約束を、舟を通り抜ける風に負けじと高らかに発した。
「おや……御覧なさい」
(あ…………)
「見えるでしょう? アレがその、君たちが再会する場所です」
そうしたやり取りが続いたしばらく後。二人の眼前に、空にも劣らない雄大な大地が映った。
地平線がクッキリと見える程の広がる大地。
その遥か彼方の場所。しかしどこかすぐ近くに見える光景。
【死の谷】――――それは水平に広がる地平線に突き刺さるように。
かつ遠近狂う程に巨大に。はたまたまるで大地を分かつかのように。
歪ながら確かに存在する「大地の垂直線」が、そこにはクッキリと根付いていた。
『あれが、例の死の谷か?』
「そうです。奪ったこの舟を隠し通せる唯一の場所」
「大地に根付いた深い亀裂は、舟のみならず我らの姿をも紛れさせる」
「陽の光も届かぬ遥か地の底。全てを闇に浸せてね」
此度の帝都襲撃作戦に置いて、テロリスト側が中継地点に死の谷を選んだのにはいくつかの理由があった。
それは奪取の対象がそれ相応に巨大な点と、帝都から比較的近いと言う地理的条件。
加えて万一の事態を考慮した際に、そこに逃げ込めさえすれば逃げ切れる公算が高いと言う事。
深海のように天の光すらも遮る大地の亀裂は、当然人の目など容易に曇らせる。
舟を丸ごと覆い隠し、逃げ道すらも与える。
テロリストにとってはまさに大地の加護とも言える場所である。
これらからして、攻め手にとっては好条件が揃った地であった――――と、同時に。
その場所は、”オーマに取っても”因縁の地であったと言う点は、成り行きが生んだただの偶然である。
「どうして大地に、あのような巨大なヒビが入っているのか知ってます?」
「……知らない」
『誰かが喧嘩したとか?』
「そうです。喧嘩です。よくわかりましたね?」
医者は語る。
今でこそその地は死の谷などと呼ばれているが、「元々その地に谷などなかった」と。
そこは当初。帝都を囲む連山地帯の、山同士の境目でしかなかった。
山の頂点と麓の地の高低差から「谷のように見えなくもない」。
元々は、それだけでしかない場所である。
『当ててもうた』
「どんな喧嘩だよ……」
アルエの言う通り、大地が深く裂けるの喧嘩とは一体どのような喧嘩なのか。
誰しもが想像の着かない出来事である。
その場所で、一体何が起こったと言うのか。
その答えを知る人物は、この場においてはただ一人。
「まぁ、いつか読んだ書物に書いてあっただけなので、私も詳しくは知らないのですが」
それは、医者ではなかった。
会話を交わすアルエと医者。その二人に反して依然沈黙を貫く、”もう一人の同乗者”の事である。
「魔王と勇者ですよ」
(魔王と勇者……?)
――――後の魔王を目指す大魔女。オーマが唯一である。
「太古の昔……この世界を二分する、魔王と勇者の戦いがこの地であったそうです」
「その結果大地は物の見事に裂かれ、あのような光当たらぬ深淵が生まれ……山の合間には一筋の導ができました」
書物で得た知識しかない医者に、魔王と勇者の戦いの詳細は得られない。
しかしその分医者は、書物知識らしく一つの雑学を有していた。
それは、今この瞬間でしか生かされない知識である。
だがそれでも「知ってるのと知らないとでは大きく違う」。
そう言いたげ風に、やや居丈高な態度を取りつつ医者は引き続き語る。
「ほら、御覧なさい。ちょうど地平線と十字を切るように交差してるでしょ?」
「大地の水平線に谷の垂直線。それに陽の位置を加えれば、ある一つの指標が生まれます」
『あ……それって』
「なんだよ」
「――――方角、ですよ」
「大地に着いた十字が方位記号の代わりになる」と語る医者。
その語りの通り、空高くを滑空するアルエらからすればそう見る事も可能だろう。
だがそもそもな話、自在に空を駆ける人など存在しない。
その位置その場所を、都合よく見下ろそうとする人物などいるはずもない事は明白である。
アルエは、話の内容の不可解な点にすぐさま気づいた。
天に浮かぶ舟に乗り、たまたま見下ろせる視点にいるからそう見えるだけ――――。
医者の語りは、つまりはただの詭弁である。
「……待て。じゃあ十字じゃなくてT字じゃねえのか?」
『上の縦線どっから出たねん』
「それはね……」
地を沿う地平線に、谷が刻む手前の縦線。
十字に例えたいのなら、線が一本足らない事は誰しもがわかる事である。
――――医者は、そう突っ込まれるだろうとわかりつつそう例えた。
直後に、口角をニヤリと持ち上げながら。
「似てませんか……魔王と勇者の関係性」
(あ……)
それは、医者なりの冗談のつもりであった。
知識に乏しければ理解に時間を要する、他者が持ちかけられれば高学歴だとなじるだろう問答。
――――にも拘らず、真っ先に気づく事ができた自分にやや驚がくを覚える、アルエの姿がそこにはあった。
そして気付きと同時に一つの感情が湧き立つ。
医者に対するささやかな”嫌悪感”である。
「光の線って事か……?」
「さすがです……隠された最後の線。それは眩く煌めく光の線」
『ああ、太陽光線の事かぁ』
冗談の真意は――――”自分に向けられた皮肉”であったとアルエは悟る。
激励か、それとも嘲りのつもりなのか。
真意はどちらにせよ、その問答はアルエの「医者に対する心象」を少し悪化させる結果を招いた。
「陽が天を巡る事で時を示すように……駆け続ける事で救済の道を示す導があります」
「さっき君が見た、光の導と同じ物ですね」
(こいつ……)
足らない上辺の線。それは眩しすぎて視えにくいだけだと医者は語る。
光とは往々にして見え辛く、そして形がない――――それ故に”何の形にも成り得る”。
医者は簡単に影絵の真似事をした後、立てた両手の指をゆっくりと狭め始めた。
狭めた手は陽の光をも狭め、ついでに医者のかける眼鏡に反射して、医者の手の中に綺麗な「光の一本線」が完成する。
それは、ちょうど今地平線に降り立つ「光の線」を表現するかのように。
「その光の線の先に、英騎はいるのですよ」
「言ったでしょ? 繋がっているのですよ……先ほど英騎が紡ぎあげた、あの光の導とね」
アルエは医者流の洒落にこそ嫌悪を示したが、反面納得する気持ちを抑えられなかった、
英騎が紡いだ光の導。それは、舟の進行方向とは逆に進んだ結果広がった物である。
あの時、確かに互いが互いに真逆の進路を取った。
しかし医者の語るように、真逆のままを進み続ければ、一体どうなるのか――――。
(――――わからなくなったら……一旦戻ってみるの)
(――――戻ってみたらほら、見えたでしょ?)
答えは、”結局また元に戻る”。
空は青い。大地は広い。海は深い。
そんな万物の常識と同様に、奥行の見えない地平線の先は、自分の来た道と繋がっている。
それは、同時に”自分の進まなかった道”も含まれる。
(見える…………のか…………?)
その時アルエの脳裏に浮かんだのは、かつて芽衣子から言われた言葉であった。
それはアルエが、当時解けなかったテスト問題を、見事解へと導いた言葉でもある。
アルエにとってそれは、キッカケの言葉であった。
芽衣子がもたらした一言がアルエの中の「気づき」を呼び覚まし、そして導くに至った言葉である。
(――――ね? 見えたでしょ?)
(――――ほんとだ!)
そして、同じく気づく――――。
今のこの現状は、そんな「記憶の中の出来事と同じ」であると。
(――――江浦くんって、物覚えは速いよね)
(――――そ、そう?)
(――――うん。だって、ただちょっと一言アドバイスするだけですぐ解けちゃうんだもん)
(――――この問題、正解率すんごい低かったんだよ。先生もわざと難しい問題入れたみたい)
ただ見直すだけでイイ。ただ振り返るだけでイイ。ただ見下ろすだけでイイ。
それだけで、自ずと見える物がある。
それがかつて芽衣子に言われた言葉であり、その解釈もまた同様である。
(――――それ嫌がらせじゃね……)
(――――そうじゃないよ。だって、高校入試になったらこのくらいの問題はいっぱい出て来るんだよ?)
(――――高校入試って、まだ全然先じゃん)
(――――ん~、先生の事だから、今の内に慣れとけって事かもしれないね)
昼は明るい。夜は暗い。
夕日が沈めば闇が現れ、朝日が昇れば月は消える。
「地球は丸い」――――そんな常識に気づけた頃。
(――――でも……江浦君なら、真面目に勉強すれば、結構いい点とれると思うんだけどなぁ)
いつしかアルエの不安は――――。
(――――それができれば苦労はしないよ……)
風に流され、消えて行った。
「……で、具体的にお前らの隠れ家ってどの辺なんだよ」
「谷にいる仲間が地上から舟を視認次第、合図を飛ばします」
『向こうからは見えるんか? 言うても今、ごっつ高いねんぞ?』
「しかもクッソ深い谷の中からだろ?」
「正直やや低空飛行をしたい所ではありますがね。ま……その辺は問題ないでしょう」
「その程度は想定の範囲内です」
医者の役目はあくまで「舟の奪取」であり、それさえ済んでしまえば後は成り行きでしかない。
そんな「予め決められた段取り」が、アルエの安心を更に掻き立てる。
そして無事舟を奪い取った今、その他の全ては先に戻った仲間の仕事である。
言い換えれば、現状三人は”それ以外する事がない”。
『ご立派。頼れる仲間がおって羨ましい限りやの』
「恐縮です」
(仲間、ね……)
故に今は、ただ真っすぐ飛び続けるだけでいい。
舟の進路がなすがままに。文字通り「なされるがまま」に。
書物の知識をひけらかす事も、下らぬジョークを発する事も。
思い人との再会に、思いを馳せる事すらも――――。
進行を妨げる以外なら、今は何をしても許される。
『じゃあ、その合図の場所とやらまで着くのに暇になってしまうな』
「あ……じゃあ折角ですから、こういうのはどうでしょう」
「【魔王と勇者の物語】。それを、私なんかよりずっと詳しい彼女から語っていただくと言うのは」
「そういえば……」
その彼女とは、無論オーマを指しているのは言うまでもない。
船の上の第三者であるオーマも、同じく例に漏れず今は何をしても許される”はず”である。
が、オーマに限りその言葉はやや疑問が残る。
オーマとアルエとでは根本的に常識が大きく異なる。
そんなオーマから制限を覗いてしまえば、一体どうなってしまうのか――――。
アルエの心に、解消されたはずの不安が再びにじんだ。
『さっきから一言もしゃべってないの』
「無理もありません。よほど衝撃的だったのでしょう」
「味方を見殺しにせざるを得なかった。まさか追手を全滅させるなど、思っちゃいなかったでしょうから」
オーマもアルエ動揺、心に深い傷をつけられたであろう事は言うまでもない。
アルエが光の先を見るならば、オーマは光の発生源。
光の源が「消えゆく命の最後の灯」であった事を、オーマはしかとその目に焼き付けた。
所謂「放心」状態――――故の無言。
その時は、”誰しもがそう思った”。
(…………)
「何してんだ……?」
オーマは無言のままアルエらに背を向けつつ、膝を内向きに折ながらその場に座していた。
表すなら「へたり込んだ」に近い座り方である。
その姿勢は、先刻アルエの身体を強く握った時の物。
その後時間が経つにつれ、直にアルエだけが動き、オーマの手を払い、離れ――――。
しかしオーマは依然としてその姿勢を崩す事無く、まるで銅像かのように動かない。
そしてそのままの姿で、今現在も無言を貫いている――――。
誰しもが、異常を疑う余地がなかった。
「王子サンとの戦いでのダメージが残ってるのかもしれませんね」
『マジか……あの姉さんが』
「以下に大魔女と言えど、相手はかの六門剣。むしろよくあの程度で済ませられたと言った所でしょう」
医者の言う通り、王子との攻防がオーマの身体をひどく痛めつけたであろう事は想像に難くない。
誰が見てもあの場面は「窮地」そのもの。
オーマをして、アルエの協力なくばどうなっていたかわからない程である。
加えて直後の”あの光景”が、オーマの精神をも傷つけた。
故に今現在オーマに刻まれた心身共の被害。
その事に察する事ができなかったのは、きっと普段の強気な態度のせいであろう。
アルエはそのように結論付け、そして悔い――――同じくオーマを励ますべく、そっと歩み寄った。
「……おい、オーマ?」
「…………」
アルエの呼びかけにすら反応を見せないオーマの後姿は、放心を越え生気すらも感じさせない。
そんなありえないオーマの姿を前に、よもやの事態がアルエの脳裏に過る。
度を超えた心身の痛みが、同時に来る体感――――。
それはアルエも、あの帝都で身をもって経験していたが為に。
「オーマ……取りあえず立てよ」
「僕はもう……大丈夫だから……」
「…………」
最悪の事態が過りつつ、それでもアルエは声を掛けるしかなかった。
反応はやはりない。だが、かと言って癒す術などない。
「自分に出来る事などたかが知れている」。だがそれでも「ないよりはましだろう」。
自分を助けるだけの為に、我が身を裂いたオーマに感謝を示す事。
それが今のアルエにできる、精いっぱいの癒しであった。
「…………」
(――――ん?)
アルエはそっとオーマの肩に手を置いた。
そして優しく置いた掌同様、柔らかな言葉を投げかけようと、暗に思考を巡らせる。
だが、やりなれぬ励ましの言葉はアルエの脳裏に燻りを生み、いくら時間を費やそうと何も浮かび上がらない。
「煽り文句なら容易く出るのに」。アルエは己の醜悪さを少し恥た後――――。
「こ……れは……」
”最後まで言葉を出す事はなかった”。
「………………」
無言の背面と肌の感触。
だがそこに言葉はなく、聞こえるのは風の音のみ。
互いに触れ合いつつ、その身の感触を共有しつつも、決して言葉は交わされない。
当然である。言葉を交わし合う二人の、片方が”言葉を発せられない状態”であるならば。
「ウソ……だろ……」
「……どうしました?」
オーマの無言の理由を知ったアルエは愕然とした表情を見せ、その気配に気づいた医者がただちに歩み寄る。
愕然とするアルエをしり目に、医者もまたオーマの状態を目撃し――――。
そして、アルエと同様の表情を取った。
「信じられません……まさか……こんな所で……」
そこには、紛れも無くオーマの姿があった。
アルエが肩を置いた瞬間を境に、甲板上に堂々と”横たわる”オーマの姿である。
『おい、これって……』
「ありえ……ねえ……」
横たわるオーマの姿を見て――――。
医者は眼前の光景を信じられず、先んじて目撃したアルエは、ついには唇を震えさせ始めた。
この時、ようやっとアルエの脳裏に言葉が浮かぶ。
練りに練った感謝の念。その全てを、”無に帰す”言葉である。
(………………)
時を同じくして、オーマもまた言葉を漏らした。
誰にも気取られる事無く、耳にすら届かぬ、吐息に似た微かな言葉である。
それをよりにもよって、アルエが言葉を浮かべたその瞬間と重ねたのは――――意味のない偶然である。
「オーマ……オーマ……」
風に混じる微かな吐息。
その息は、アルエの耳にだけしかと届いた。
「………………zzz」
「 何 寝 て ん だ コ ノ ヤ ロ ォ ー ー ー ー ッ ! 」
出て来た言葉は――――やはり「文句」であった。
つづく