百十八話 一手――後編――
「ゴルァてめー! 何をごゆるりと一服こいてんのよ!?」
「煙……かかりますよ?」
医者は、目覚めて早々大魔女の逆鱗に触れた。
非喫煙者に取ってたばこの煙とは吸っている本人の思う以上に臭う物であり、そんな煙がこの一大決心の最中に流れたとあっては、胸倉を掴まれる程度の事は当然である。
「空気読もうぜ、ヤブ医者」
『医者が率先して喫煙すなや』
その苛立ちは無論オーマのみならず周りの面々も同様であった。
この状況の最中一人まったりと落ち着いている姿は、歳の差も相まってアルエらの苛立ちを加速させる。
しかしにも関わらず医者は依然一服をやめようとしない。
どころか、付けた火を消す事無く引き続き口元へと運び出す始末である。
「この状況を見ろッ! 今そんな悠長な事をしてる場合か!?」
「状況……? 何があったんです?」
「オーマほら、こいつ寝てたから」
『もうえーやんスルーで。また説明すんのだるいわ』
しかしこの激しい温度差はある種当然の事である。
医者は、一人だけ理解していなかった。
自分が気絶している間に、一体何がどうなってどういう展開になっているのかを。
「ったく話の腰を折る~……誰のせいでここまで苦労させられてると思ってんの!」
「起き抜けからいきなりえらい言われようです」
「たばこ、やめれば?」
「お断りします。やめる理由がありません」
「あっそ……」
医者はそう告げると、また煙をフワリと吹かした。
言って聞くなら最初から喫煙などしていないだろう。
アルエはそう思い、多少の臭いが立ち込めるものの、今はさして関係ない事だと放置する事にした。
「仕切りなお~し! ヤニ中はほっといて、今度こそ行くわよ!」
「おや……あれはペアヌット」
「おせーよ」
「そうか……追いつかれたんですね」
『だから今から強行突破するねや』
「強行突破? 何故?」
『ゴールに行く為に決まってんやろが!』
「ゴール……?」
たばこの煙などはどうでもいい。
しかしアルエは、医者のたばこ以上にフワフワとした態度に少し違和感を感じ始めた。
目覚めたばかりとしても、少し飲み込みが悪すぎる医者の把握力が、どうにも腑に落ちなかったのである。
そもそもこの逃亡劇の元々の企画者は医者。
オーマもアルエも、あくまでのその案に乗っかっただけに過ぎない。
舟を奪い逃げると言う大役を与えられた医者が、この窮地の最中、何故に一人「全て終わった」かのようにたばこを燻らせているのか――――
オーマはそんな医者をアルエの疑念毎蚊帳の外に出し、一人沸々と再び突撃の決意を固めていた。
「わかりまねますね。何故に今更こんな特攻紛いの突撃を敢行しようとしているのか」
『わからんなら口を挟むな。今忙しいんじゃ!』
ペアヌットの関所の突破。
それは逃亡と言う意味で避けて通れない必須条件。
しかしアルエには、それが段々と「間違った判断なのでは」と思い始めた。
(なんだ……この感じ)
理由はわからない。
医者が燻らすたばこの煙の揺らめきを見て、理由もなくそうとしか思えなかったのである。
「さあ、今度こそ……!」
『必願成就厄除け祈願交通安全無病息災ァァァーーーーーッ!』
「ゴボボボボ!」
「……」
再び盛り上がり始めたオーマらをしり目に、一人落ち着き払った一服を取る医者。
アルエはその両者間で揺れていた。
この得体のしれぬ違和感は、一体何なのか――――
その正体を知る事に、そう時間はかからなかった。
「目的地なら、もうとっくに着いていると言うのに」
((え――――))
医者が小さく呟いた一言が、やはりアルエの正しさを証明した。
――――
「……こないな」
「渡り舟。依然として沈黙! 動き出す気配ありません!」
「気を伺っている? 嫌に対応が鈍いな」
医者の呟きが舟の動きを止めた頃、そうとも知らず騎乗隊の面々は今か今かと待ちわびていた。
相手が動かぬ以上こちら側も動きようがない。
舟が動かぬ理由など知る由もない騎乗隊の面々は、ただひたすらに事が始まるのを待つのみである。
「隊長、お待ちを……状況更新の報であります!」
「この時にか? 一体どうした?」
「何やら……地表に”人影”が……」
「人影……?」
しかしその一方で、迎撃側も動きを止めねばならない理由ができた。
この後に及んだ不意の報告は、何も医者の一言だけではなかったのである。
「突然の人影」。一体この影はどこかから迷い込んだのか。
場を読まぬ正体不明の出現は、兵達に少しばかりの動揺を与えた。
――――
「どういう……事?」
「言葉の通りです。目的地はもう、到着しました」
「よってこれから突撃をする必要も、誰かに立ち向かう必要もありません」
医者の意味不明な言葉と、誰ともわからぬ不意の人影。
理由は違えど、訪れたその機会は両陣営を同じ目に合わせた。
互いが互いに現れた未知に気を取られる。
しかしその二つが”一つに繋がっている事”など、この場の誰もが知る由もなかった。
「まぁ、どうしてもと言うのであれば止めはしません」
「どうぞ特攻なさってください。どちらにせよ、同じ事ですから」
周りが自分の言葉を理解していないと知りつつ、それでも医者は述べる事を止めなかった。
意味不明だなんだと言われようと、しかしそう言う以外他にない。
医者の言葉はこれ以上変えようがない、”言葉通りの意味”であったのだから。
「何……言ってんの……?」
「いえね、言葉足らずなのはわかります。私も気が付いたのはつい今しがたでしたから」
『何をやねん』
「おそらく……王子サマが襲ってきた辺りでしょうか」
「……」
そして、その真意に気づけたのは――――アルエただ一人であった。
「異変を察知して、”前に”出てきてくれたんでしょうね」
(ま、まさかッ!?)
――――アルエは走った。
早足で駆けるには狭い舟の上を、広い運動場で競争でもするかのように、力いっぱい全力で。
この頃にはもはや、アルエには何が正しいか等どうでもよくなっていた。
今はただ、確かめたい。
医者の言う目的地が、この舟のすぐ下まで。
それも、わざわざ”向こうの方から”やって来た事を。
「…………」
舟の下は――――少し風が吹いていた。
――――
……
「……空に浮かべし幻想の大河。そこに浮かばんと安寧を込められし天駆ける舟――――」
「大河を模した獣の群れはまるで一人一人の心模様……だとすれば、天を仰ぐは希望を見出した願い、か?」
「しかしそれが故に……それが為に、祈りは未来永劫届く事はない」
「救いは幻では決して埋められぬ……彼らはそうと知りつつ、今日もまたまやかしに、縋るのだ」
――――そこには、一人の女騎士がいた。
女騎士のいる位置からは、空に浮かぶ渡り舟と守護獣の群れとが一望できた。
女騎士はその光景を表情一つ変えずただ見つめ続け、同時にほんの少しばかり”哀れみ”の言葉を吐いた。
――――
「ど、どこだ……どこだ!」
「何よ何よ!? どしたのいきなし!?」
「気になるなら一緒に探してあげればどうです? ”折角”ですから」
「く……一体なんだってのよ!」
――――
「ケアン……行けるか?」
「――――ブルッ」
女騎士は、馬に跨っていた。
ケアンと呼ばれた馬は、女騎士の呼びかけに小さく鼻を鳴らす事で答えた。
カチャリ――――鼻を鳴らした際の微弱な動きに釣られ、女騎士の甲冑は小さな音を立て、少し擦れた。
「そうか……」
「……行こうか」
その後、女騎士は同じ音を今度は我が手で鳴らした。
女騎士は装飾のついた長い棒状の筒を両の手に持ち、そしてその片方をゆっくりと引いた。
直に、長筒から鈍く光る金物が現れた。
先程同様カチャリと”金属が擦れる”ような音をさせながら。
『おい……もしかして、あれか?』
「あ…………!」
アルエは、そんな女騎士の姿を遥か上空からにも関わらず直ちに見つけ出す事が出来た。
そのシルエットはアルエに取ってはある意味で最も馴染みの深い姿。
在りし日の日常から幾千、幾万と視線を送り続けたその姿は、仮にその場がさらに高所であったとしても見つけ出す事を容易にしただろう。
(あれ……は……)
女騎士の後頭部からクルリと生える、トレードマークとも呼べる大きなポニーテールが――――
アルエの視界を、易々と一点に縛り付けた。
「もう……どうしたってのよ!」
『ねーさん、あっこやあっこ! ほら、わいがズームにしますさかい!』
「…………?」
スマホが自身の拡大機能を用い、オーマにもその位置を知らせた。
拡大された画面越しに映る女騎士の姿はやや不鮮明ではあるものの、アルエの未だかつてない態度からして、アルエから一歩遅れる形でオーマも気づく事ができた。
「な……んで……」
オーマの目から見ても、女騎士は間違いなくそこにいた。
まやかしや幻覚の類ではない。アルエと同じく、大きく撥ねるポニーテールがオーマの目にも確かに写る。
そして馬に跨る女騎士の腰には、何かTの字をしたような物がぶら下げられている事も確認できた。
その特徴はアルエや医者から聞いていた。魔法とは異なる異界の武器。
「銃」と呼ばれる物と酷似していたことが、オーマの目をひと際引かせた。
「なんで……ここに……」
「……フゥ――――」
たばこの発する不快な臭いを、いつしか誰も気に留めなくなった。
アルエが見せた画像。医者の話。そして女騎士が巻き起こす、新聞の一面を彩る事件の数々。
帝国に住まう人々の根も葉もない噂。
打倒に燃える王と、二度と繰り返さぬとその手に握った王子の誓い――――
「悠久に浸ったまやかしが……ようやく終わる時が来たのだ」
「仮初の希望を晴らし――――真なる道を、指し示せ!」
彼らが口々に話していた特徴と、全てが合致する。
女騎士がその手に持つ剣。それは間違いなく”六門剣”その物であったが為に。
――――
「隊長! あの人影……アレが持っている物は……!」
「なッ!? じゃああれは――――!」
オーマからさらに一歩遅れる形で、騎乗隊の面々もその存在を把握できた。
得てして、その場の全員が女騎士に正体に気づいた形となる。
それは此度の帝都襲撃の大元ある存在。
そして遥か過去から帝国に戦火を繰り返し放ち続ける張本人。
英の名を冠した、唯一であり元凶である、たった一人の女騎士――――
(英騎――――!)
アルエもオーマも、実物を見るのは初めての事であった。
その姿を目に映した感想は互いに知りようがない。
そんな二人には一つだけ共通する思考あった。
英騎――――”始まりの女騎士”がついに、自分達の前に姿を現したと言う事である。
つづく