百十一話 橋――前編――
ゴゥン――――ゴゥン――――
「う……」
『おーい……無事かぁ……?』
アルエが目を覚ました時、アルエの体は依然として宙を舞っていた。
足が地に着く感覚がない。あるのは体がただゆらゆらと揺れる感覚のみである。
しかしその感覚はどこかゆりかごのように、アルエに得体のしれぬ心地よさを与えた。
『一体何が起こったねん……』
「僕にもわかんないよ……なんかいきなり……」
反面、確かな感覚に反比例して前後の記憶がない。
最後に覚えているのは舟の縁に手を置いた瞬間。
地に誘う引力になんとか抗い、窮地に一生を得た瞬間が記憶の中の最後の光景であった。
しかしその後、その足が再び地に着く事はなかった。
縁に手を置いた瞬間、今度は掴んだ手をも巻き込んだ「下がる」感覚が舞い降りたのである。
その正体は舟そのものの角度。
徐々に勾配を増していく舟が、不意に、急に。
アルエの認識よりも早く、”真垂直”へと跳ね上がった事に起因する。
「しょ、少年……!」
「ハッ!」
「どうでもいいから……はやく……!」
「あわ、あわわわわ!」
アルエと舟を繋ぎ止める物。それは医者の差し出した革製のベルトであった。
舟が跳ね上がる衝撃からか。いつのまにやらこのベルトのバックル部分が、アルエの指の奥深くにまで食い込んでいたのである。
掴むと言う点ではあまりにか細い金属部品。
しかしそのか細さ故に。衝撃の向くまま、自ら直進することでアルエの落下を防いだ。
パラ……パラ……
「くあっ! 目にゴミが……!」
「これは……土……?」
落下の危機に二度も見舞われ、しかし偶然の産物で両方とも何とか堪えきったアルエ。
で、あったものの――――三度試練が舞い降りる。
昇るアルエに立ち塞がる壁は、パラパラと舞い降りる土の霰。
これは、オーマが残した”置き土産”である。
「これじゃ目開けられないよ! 痛い痛い!」
『ほな、目ぇ瞑りながら登れや!』
「んな無茶な……」
舟を包むように降り注ぐ土のカケラは、アルエの目に所々入り込み、結果瞼の開閉を必要以上に増やすと言う事態を招いた。
妨害と呼ぶにはあまりに小規模な、ただ煩わしいだけの邪魔だて。
この邪魔ではある物の「特に問題はない」と言う下らなさが、何を隠そうオーマによる物であると言う事を示していた。
(の、登れれね~……)
「少年、そろそろ私の手も限界……」
『たかが土煙くらい、我慢せーや』
「んな事言われたってさ……」
パラパラと振り続ける土クズがアルエに目の痛みにを与えようと。
今はただひたすら耐え、再び地に足つけんと一手一手と昇り続ける。
三度目の正直――――これ以上の不運が重なる事などあるはずもない
今度こそ登り切れるはず。いや、そうでなくては困る。
半場苛立ち紛れの確信が、今のアルエを突き動かしていた。
アルエの推察通り、これ以上の妨害は起こらなかった。
昇り掴む手はその一つ一つが順調である。
元々舟から落ちかけていたアルエに、舟の角度は関係がなかった。
跳ね上がるまでもなく、一人先行して垂直を貫いていた為である。
(……ん?)
しかし甲板上にいた人物はそうもいかない。
アルエをベルト越しに掴む医者は、現状縁の狭い幅だけが唯一の地。
自分も落ちてしまわぬ為にと寝るように体を横に密着させ、手だけを差し出しつつひたすらアルエの帰還を待つのみである。
「あっ」
『げっ』
「なん……」
甲板は、床から壁へと変貌を遂げた。
甲板だけではない。縦と横とが反転するこの舟に置いて。
甲板が壁になると同時に、壁もまた床へと変貌を遂げた。
すなわち今しがた攻勢の要であった”舟の側壁”が、乗船するにちょうどよい橋へとなったのである。
「…………」
来客をもてなす、客船のように。
「…………アルエ」
(王子……!)
再び舟に乗らんと四苦八苦するアルエの様子を――――
高みから見下ろす王子の姿がそこにはあった。
「乗船……されたのか……!」
「ま、まずい! 今この状態でまた攻め入られたら!」
『だ~からはよ登れ言うたやろ! これ隙ありってレベルちゃうど!?』
スマホの言う通り、隙と呼ぶにはあまりに大っぴらな状態であった。
一言で言うならばまさに「無防備」。
オーマを退け目的通り舟への乗船を成し遂げた人物に対し、今のアルエ達は身動きすら取れぬ状態にいるのである。
アルエは未だ空の上。医者も繋ぎ止める役割を与えられた以上、手を離す事が出来ない。
文字通り手も足も出ない状態の現状。
無言の王子が織りなす”冷たい”視線だけが、今のアルエに突き刺さった。
「…………」
「……あれ?」
しかし王子にとっては絶好の機会にも拘らず、王子はただ目線を送るのみ。
その場から動こうとは、断じてしなかった。
舞い散る土のカケラのせいで断続的ではあるものの、王子とアルエは何度も目が合い、そして幾度も逸れた。
天井と化した舟の左側面。
その上から降り注ぐ王子の視線は、いつしかついにアルエを見る事すらもやめた。
「…………」
王子は、アルエ達を視界に入れず辺り一帯へ右往左往と目を配った。
しかし今のアルエと違い、王子には一切の隙は無い。
目は鋭さを保ちつつ頻繁に動く物の、背中に備わった機械の腕は六門剣を構えたまま、ピタリ止まったように動かない。
足も同様。王子は舟側面に立ったまま、一寸も歩を進めようとしなかった。
仮に今王子になんらかの不意打ちをした所で、この静を貫く姿勢の前には即刻返り討ちに合う事が目に見えている。
今の王子の様子はそんな、まるで獲物を探しているかのような目配りの仕方。
あるいは――――何かを”警戒”している様子とも取れた。
「――――おいパム! 一体どこに隠れやがった!」
「どうせお前の事だから罠でも張って身を潜めてるんだろ! その手は食うかっつの!」
王子は、誰もいない空に向けてそう吼えた。
王子が探していたのは何を隠そうオーマの置き土産。
かつて幾度となく浴びせられた”大魔女の罠”が、万全を期した王子の心に「猜疑」を学習させたのである。
「無駄なあがきはやめてとっとと出てこい! お前の考えはわかっている!」
『せや、そういえばねーさんは?』
(オーマは……)
しかし王子の過剰な警戒ぶりとは裏腹に、「そんなものはない」とアルエのみが知っていた。
王子が吼える今の今まで。アルエは先ほど見た光景が、この大混乱に乗じ発生した「錯覚」だと思い込んでいた。
甲板が跳ね上がるあの場面。縦と横が反転するあの瞬間。
その時、オーマの体は確かに舟を離れた。
(あの時――――!)
「こねーなら……こっちから行くぞ!」
その事実を知らぬ王子は一人依然として警戒心を剥き出しにしたまま、ついに初めの一歩を踏みしめた。
コツ・コツ・コツ――――重く、長く、そして目線は周囲一帯を周り、その足取りは未だ警戒態勢その物ではある。
が、一歩ずつ。少しずつではあるが着実にアルエの元へと向かっている。
壁となった甲板を、魔法でもつかったか器用に足裏を吸着させながら。
「絶対絶命ですね……」
「くッ……」
カツ・カツ・カツ――――王子の歩幅が、少しだけ速くなった。
カチャリ――――そして六門剣を所持した機械の腕が、斬る一歩前と言わんばかりに少しだけ動いた。
『王子はーん……後生やから堪忍してぇ~……』
ピタリ――――そして、アルエの目の前で止まった。
「……着いたぞ」
「く……」
宙を揺れるアルエの目の前立った王子は、再びアルエをじっと見降ろした。
すぐ真横にはアルエを掴む医者がいる。しかし医者は身動きが取れなかった。
目線はアルエを見つめつつ、三本ある腕の一つが、医者にも”警戒”を向けていたからである。
「六門剣……こっちへ来い」
王子は、六門剣を持つ三本の腕の内二つを自分の方に向け、そして六門剣を”実際の手”に持ち替えた。
六門剣の柄の感触が直に王子に伝わる。
医者へ向ける一本を除けば、これは本来の意味での二刀流となる。
「――――ふん!」
「おあッ!?」
さらにその二本の内の一本を、アルエの眼前へ見せつけるように突き刺した。
アルエが登り切った際に掴むであろう縁の範囲。
そこに六門剣の刃先が、まるでアルエを拒むように立ち塞がる。
そうして、王子が我が手で持つ剣は残り一本となった。
たかが一本。されど一本。
アルエ一人を斬る程度ならば、六門剣は一本でも十分過ぎる程であった。
「アルエ……」
(まじやべえ……)
これから何をされようと、その全てに抗う事は叶わない。
例え剣が百本あろうと十本あろうと、ましてや一以下のゼロであろうとも。
ほんの少し王子が手を出すせば――――
ただのそれだけで、アルエの全てが水泡に帰す事はすでに決まり切っていた。
「いくぞ……」
「――――ッ!」
アルエは、とっさに瞼を閉じた。
その行動は染みる土のカケラと、王子が向ける冷たい視線。
そしてこれから起こるであろう「最悪の未来」から目を背ける為に――――
「オオッ――――!」
そしてアルエの予想通り――――ついに王子は、手を出した。
「――――ほら、捕まれ!」
(えっ)
後編へつづく