八十九話 堕落
サラ……サラ……サラ…………
(江浦くん……)
(め、芽衣子……?)
薄れた意識の中で、突然芽衣子の姿が脳裏に降りて来た。
突如現れた芽衣子は僕の前に立ち、またいつものようにあの笑顔を見せている。
(な、なんで……)
なのに、すぐ目の前にいるのに。
この手を芽衣子に届かせる事はできなかった。
芽衣子と僕の間にはまたも両者を分かつ川がせせらいでおり、川の流れと底の見えぬ深さからして。
見るからに、一泳ぎでたどり着けるような距離ではなかったのだ。
(どうして……なんで……!)
何故。本当に何故なのか。
何でいつも、僕と芽衣子の間にはいつも何かが割って入る。
僕はただ芽衣子に会いたいだけなのに。何がそんなにいけないのか。
一体両者を隔てている物は何なのか。
たったそれだけの事すらも、許してくれないのか。
(おい)
――――その時、後ろから声が聞こえた。
対岸で向かい合う僕と芽衣子の、「僕側」の岸の丁度真後ろから、ぶしつけに僕を呼びつける声が。
声は短く「おい」とだけ言うと、直後。
ただただせわしなく、カチャカチャとうるさい金属音を響かせた。
(……?)
声に反応して反射的に振り返る――――そこには、いた。
芽衣子とまるで同じ姿をした、”血塗られた女騎士”が一人……
(私に何か用か?)
( う わ ァ ッ ! )
――――
「――――ハッ!」
……やはり、今のは夢だった。
夢の中で夢と気づく。所謂明晰夢って奴か。
目を覚ますとそこは、相も変わらず煩い光景が広がっていた。
渡り舟と呼ばれる飛空艇の上で。飛空艇のプロペラがギュルギュルと回るその下で。
頬を腫らした大の大人が、プロペラの風を受け白衣風のコートの裾をバサバサなびかせている。
どうやら、僕は少しの間気を失っていたらしい。
なんでそうなったんだっけ……寝起きがてらで、前後の記憶が少し曖昧だ。
「ふぅ……致し方ないとはいえ、子供を殴るのはやはり罪悪感があります」
「あんまり、腕力に自信がある方ではないのですが……それでもやはり、子供相手なら、ね」
目の前の男――――もとい医者はボソボソと何かを呟きながら、少し赤くなった右手をぷらぷらと揺らしていた。
思い出した……こいつに、思いっきりぶん殴られたんだった。
顎にフルスイングのパンチをまともに食らた事までは覚えている、が、そこから今までの記憶スッポリ抜け落ちている。
医者と僕の距離からして、結構な距離を吹っ飛ばされたようだ。
医者の癖に人に怪我をさせるとは、一体どういう領分なのか。やはりこいつはヤブ医者だ。
「…うぐ!」
「おっと、無理に立たない方がイイですよ。今の君は脳が激しく揺さぶられている状態にある」
「所謂”足に来る”って奴です。ボクシングとか、格闘技の試合においてよく起こる現象なのですが、知りません?」
顎に打撃を食らうとその衝撃が脳まで伝わり、頭蓋骨の中で大きく揺れる「脳震盪」が起こる。
そこは知ってた。格闘漫画でよく見る豆知識って奴だ。
だが実際食らってみると、どうして中々……
思わず笑ってしまうくらい、足が動かなかった。まるで下半身がなくなってしまったかのように。
(ってぇ……)
「フラフラして落ちてしまったらそれこそ一大事です。なんせこの”高度”ですからね」
(高度……?)
ゴゴゴゴゴゴ…………
床から伝わる微弱な振動が、飛空艇が未だ問題なく動いている事を教えてくれる。
帝都が総力を結集して製作したとか言うこの渡り舟。
だったら当然、このくらいで誤動作を起こされても困ると言う物だ。
そう言えば……すごいすごいと触れ込みこそ聞いた物の、実際のスペックは以下ほどの物なのだろう。
不意に気になった。高度は一体、最大でどれほどまで上がるのだろう。
それに速度は? 積載重量は? 武装の類はあるのか? 等々……本来ならその辺の事を事細かに尋ねる予定だったんだ。
今頃、こいつらさえ来なければ……王子のコネで、遊覧飛行をさせてもらえる予定だったのに。
「残念ですが……止められませんでしたね。もう、”時間切れ”だ」
(時間切れ……?)
「現在、舟はようやく工業区を越え、進路は無事開発区へと侵入しました」
「開発区は帝都の外周部分に当たる区域です。表面積こそ帝都最大ですが、その分厚みがない。なのでこの舟の速度を持ってすればすぐに越えられます」
(やっぱ、結構速度出るんだな……)
「このまま帝都さえ超える事ができれば、もはや我らに障害はない。森でも山でも岩壁地帯でも、後は”どこへでも”隠れられます」
(帝都……越境……)
なんでこいつがそんなに詳しいのかとふと疑問に思ったが、その疑問はすぐに解決した。
”内通者”……こいつらが忍ばせたとか言う密告屋の存在を忘れていた。
さっきだってそうだ。僕が閃光弾の光にやられている間に、こいつは何かガチャガチャとやっていた
そしてその直後、舟が動き出した――――
内通者に教えてもらったんだろう。「渡り舟の動かし方」を。
「安心してください。君を殺したりなんてしませんよ」
(え……)
「我らの標的はあくまで帝国。”我々と同じ世界”の君を殺めるなんて、そんな道理はありませんよ」
「まぁ、とか言いつつ結構痛めつけてしまいましたが……」
(ホントだよ……)
「そこで”今度こそ”じっとしてて下さい。しばらくしたら、どこか適当な場所で降ろしますから」
「次、何か抵抗をしてきたら……今度こそ、知りませんよ」
(……フッ)
命の保証を得た事で、安堵の息が漏れた――――わけはなく、ただなめられているようで不快だった。
我々と同じ世界だと? ふざけるな。
芸能人じゃあるまいし、お前らの事なんてあっちでも知らなかったんだよ。
勝手に同郷意識を持たれても困る。そもそもお前は誰なんだ。
クラスメイトですら大多数が”嫌い”なのに……
それを昨日今日会っただけで、しかもこんなになるまでボッコボコにされた日には……
(……死ねよ)
「ツゥ……麻酔が切れて来た用です。君に殴られた箇所が痛み始めました」
(ざまぁ、死ね)
「命の代償と言うわけではありませんが……君、薬草か何か持ってないですか?」
(ねーよ。死ね)
「そうだ……あの大魔女。君といたあの大魔女から、あの時の”反転毒”のようなのを受け取ってくれていると助かるのですが……」
「また、譲っていただけません?」
(あったとしても譲るわけねーだろ……死ね……)
(……ん? 毒?)
「毒」――――この単語で、一つ不可解な疑問が湧いてきた。
詳しい事はよく知らないが、麻酔だって言わば毒だ。
神経を痺れさせ感覚を遮断し、結果人一人を動けなくさせてしまう。
医療に応用しているだけで、効果を考えればやはり元々の性質は”毒”だ。
(毒……)
医者が自分に打ったモルヒネとか言う痛み止め。
注射なのか飲み薬なのか知らないが、とかくまぁ自分で使用したのだから効果は当然現れる。
しかし疑問なのは――――水玉の方。
水玉はそんなもの、投与された痕跡はなかったはず……。
(あ……まさか……)
この時、水玉が一度だけ異常を見せた事を思い出した。それはあの「鉗子」とか言う医療器具だ。
あのハサミみたいな器具で挟まれた時に、水なのにちょっとだけ傷がついた。
もし、万が一、あの鉗子の先に毒が塗られていたのだとしたら……水玉の急な変調も、納得できる。
「持ってなさげ、ですね……」
(……)
しかし説明がつかないのはスマホの方だ。
少し、マシになっては来ている。とはいえ相変わらずザーピーとノイズを立て、圏外の文字が付いたり消えたりと異常な症状はまだ終わっていない。
スマホは水玉と違って完全な機械。故に麻酔なんて概念はない。
スマホが動きを止める時。それは物理的に破損したか……もしくは、充電が切れた時。
(俺も今回は、ちゃんと”充電”してきたからな! 楽しい時間をできる限り長く遊べるように……”満タン補充”だ!)
(充電……)
ここだけが、どうしても結びつかなかった。
この「麻酔」と言う現象。もちろん永遠に続くわけはなく、充電が切れるようにいつか効果は消える。
それは医者が痛がる素振りを見せ始めた事からも明白である。
しかし、水と機械を同時に――――しかも、スマホの方は触れられてすらいないのに。
(何かが……違うのか……?)
このわかりそうでわからないもどかしい感じ。さっき見た夢と似ている。
届きそうなのに届かない――――代わりに、後ろから血まみれの女騎士が話しかけてきた。
あの夢とこの現象をなぞらえるとしたら。
僕の後ろに今、何かが忍び寄っているのだろうか……カチャリカチャリと、音を立てながら。
(……ダメか)
キュラキュラキュラ――――甲冑音代わりにプロペラの回る音が鳴り響く。
芽衣子と僕の間を川が隔てるように、足りないピースが真実の完成を妨げる。
願わくば、ギリギリまで粘っていたかった……しかし舟は直、帝都を脱してしまう。
考察の余地はもうない。
”タイムオーバー”。医者の言う通り、完全に”時間切れ”である。
(……)
またしても……三度、何もできなかった。
我ながら自分のダメさ加減に反吐がでる。
精霊、国王、王子、帝国……ここまでお膳立てをされてなお、何も成し遂げれないのなら。
きっとこの先も何も成し遂げられないのだろう。
――――
また、頭がぼんやりしてきた。今までのダメージがぶり返して来たらしい。
体は動かない。思考も段々と薄れていく。
もう、どうでもよくなってきた。僕はただの中学生。剣も魔法も使えない、口だけのクソガキ。
ハッキリ言って、”もう疲れた”。
「ああそうだ、ちょっとお聞きしたいのですが――――」
後悔、懺悔、屈辱、絶望……
ありとあらゆる負の感情が僕の心中を満たし、いっそのこと”死んでしまいたい”衝動に駆られた。
「さっき――――から――――」
そして僕は。
(……)
考える事を、やめた。
――――
ゴ ォ ウ ン !
「ッ!? 何事です……?」
(……)
ゴゥン――――ゴゥン――――
ゴゴゴゴゴ……ドドドドド…………!
「こ、これは……!」
――――突然の衝撃。
この明らかに異常事態とわかる強い揺れに、医者は危うく足を滑らせそうになった。
この不意の事態を医者は、渡り舟の縁に捕まる事で何とか横転を防いだ。
しかしその代わり、切れかけていた麻酔のせいもあって。
振れ幅の分だけ、医者の腫れ上がった頬に強い痛みが走った。
「ふ、舟が……!」
鋭い痛みに顔を歪ませる事で何とか紛らわし、医者は起こった事態を確かめようと頭を縁の外へと出した。
その際に高高度から吹く風が医者の顔を吹き抜け、またも痛みを刺激した。
医者は反射的に「痛ゥ」と溢し目を塞いでしまう。
そのせいで、”事の重大さ”に気が付くのに少しばかりの間が空いてしまった。
(……)
帝都の”外”へ向かっているはずの舟が――――
「”墜落”……している……!?」
――――地面に向かって、突き進んでいる事を。
つづく