八十八話 麻酔
「ハァ……ハァ……どうだ……」
『ものっそいグーパンやったな……』
実を言うと、自分でもあそこまで威力があるとは思わなかった。
いつか何かの格闘技漫画で見たんだ。パンチを打つ時は「腰の回転を意識しろ」と。
「ギュルルルルゥ……」
『おーい、目ぇ回すぞ』
”回転”――――これは水玉を操る上で、もっとも基本的な操作術だ。
この魔法大国の首都で、その魔法大国の王子直々に教わったんだ。その有効性は僕本人が身をもって証明している。
精霊の持つ力。それをもし、”僕自身が”繰り出せたなら……
関節構造を回転と結びつける。その発想に至るキッカケになったのは、皮肉にも男の医者と言う立場だった。
『下手すると死んだかもしれんぞ、オイ』
「さすがにそこまでは……でも」
シュゥゥゥゥ――――眼前に土埃が舞う。
【水鯱】の威力はパンチと言うよりちょっとした散弾銃だ。
医者の顔面に突き刺さった水の拳は骨の耐久力すら優に超え、さらにその刹那。
まだなおあり余る拳圧が、人一人を吹き飛ばすまでの威力を見せた。
『また一個、必殺技増えたやん』
「ゴボ!」
それはまるで、王道バトルアニメみたいな吹き飛び方だった。
現実ではありえないフィクションの中の光景を、多少の工夫で意図も容易く再現してくれる魔法世界に……
なんだろう、なんとも言えない高揚感を感じた。
「とりあえず戻っていいぞ、水玉……あ、まだ”大蛇”だからな」
「ゴポ!」
『ハハ、一丁前に用心しとるでコイツ』
「ちゃかすなって」
ジュン――――僕の指示で水玉が元の大蛇に戻る。
発現と解除……たったこれだけの事でまたも何とも言えぬ高揚感が増した。
確かに、【水鯱】を出すのはちょっとした手間がかかる。
水でできたベルトとシューズと、要の右拳に集中させる為、凝縮した水塊の”小手”の発現と言う三つのプロセスが必要なのだ。
しかしこの手間はまるで、言うなれば特撮ヒーローの「フォームチェンジ」。
やや右拳寄りに偏ったシルエットが「専用形態」として確かに存在感を示していた。
このちょっとした手間が、スマホの言う通り「必殺技」感を出させてくれる……
(……よし!)
確かな手ごたえと確かな成長を噛み締めながら、両手をギュっと握りしめた。
この握りしめた両手に収めたい物が、もうすぐ目の前に来ているのだ。
これならば、今ならば、手の届く範囲にさえ近づけば……きっと掴めるはず。
芽衣子――――そしてその手がかりを握っているであろう、英騎と言う存在を。
――――
「勝手に、殺さないでくれません?」
「ッ!?」
……やはり、英騎に届くにはまだちょっと、距離が足らないらしい。
近しい所まで来ている実感はある。
だが、英騎に続く道はこれでもかと言う程”障害”が溢れている事を、僕は忘れちゃいなかった。
「手術中に医者の容態が急変。それ、笑い話にもなりませんから」
願わくばそのまま戦闘不能になっててくれればよかったのだが、やはりそう甘くはなかったか。
”続行は十分に可能”――――医者のHPを完全に削り切るには、まだ少しだけ火力が足らなかったようだ。
だがその可能性は十分わかっていた。その為に、大蛇のまま置いておいたんだ。
(うぁ……)
『ひ、ひえ……』
継戦の覚悟は決めていたはずなのに。自分の成長を噛み締めたはずなのに……
それなのに、未だ医者に対する”不信感”が、脳裏に飛び回って消えてくれない。
医者の容態は、ゲームの用に単純ではなかった。
0にまでは届かなくとも、黄色い警告色が出る程度にはダメージは負わせたはずだ。
なのに。
「――――ペッ。あーあ……君のせいで上顎第三大臼歯が折れました」
「それに……あー、大分”腫れ上がってます”ね。全く……」
「治療費払ってくださいよ? せめて保険分くらいは、ね」
医者は淡々とした口調で文句をつけてきた。まるで子供のイタズラに軽いイラツキを見せるように。
声だけ聞けば「ノーダメージだ」と言わんばかりの口調ではあるが、無論”そんなワケはなかった”。
「君のやった事は立派な暴力。つまり犯罪行為です。反省の意志を見せないなら、こっちも弁護士立てますからね」
結論から言うと、やはり【水鯱】は多大なダメージを負わせていた。
もはや確かめるまでもなく、”見るだけで”わかる。
問題は――――殴った箇所が”変形”する程のダメージを追って、なおも”平然”としていられる点である。
「これじゃしばらく人前に出れません……」
『いやていうか、い……痛くないん?』
「いえ、”全く”。痛みは特に感じませんね」
(な……!)
やはり、僕の中で蠢く不信感は正しかった。
殴られた箇所が目に見えて腫れ上がっているにも関わらず、平然と動くどころか、言うに事欠いて「全然痛くない」などとのたまいやがったのだ。
ヤセ我慢……いや、ありえない。
歯が折れたせいか、口から大量に”吐血”していると言うのに。
「麻酔ですよ。わかります? 麻酔」
(麻酔……?)
「これはオピオイド系の鎮痛剤でね。「モルヒネ」って、聞いたことないですか」
(たまに……ドラマとかで聞く……)
「もしかして手術経験なしですか? まぁそれは、ある意味良い事ですが……」
「手術で最初に行うのは麻酔の投与が大原則です。いきなりメスなんて使ったら、そんなのヤブ以前の問題ですよ」
話を聞けば、なんとも医者らしい仕込みである。
痛覚を断つ――――こんなの、普段薬を日常的に扱っている医者にしかできない芸当だ。
予想外の裏技に少し面食らってしまったが、その分内心少しほっとした。
やはり、ダメージはちゃんと通っていたんだ。
あいつのやった事は、痛みを遮断して、薬で無理やり”ロスタイム”を延長させた。
ただのそれだけだ。
「じゃあ……そのモルヒネが切れたら」
「やめてくださいよ。想像すらしたくありません」
「やめてくださいじゃねーよ……アホかよ。麻酔って、患者にするもんだろ?」
「ええ、そうですよ」
「じゃなんで自分に打ってんだよ」
「なんでって……もしかして、揚げ足ですか?」
「自分に打ってる時点で手術じゃねーだろ! 下手な例えしてんじゃねーぞ!」
正体が割れれば恐るるに足らず。
薬で延長しているだけと知ったからには、嫌が応にも強気にならざるをえない。
そのモルヒネとか言う奴の持続時間が何分なのかは知らないが……
だったらそれが切れるまで、何度も繰り返せばいい。
「ダメ出しですか……ここへきて」
「大人しく認めろよ。私は痛いのヤダから薬に頼った、情けない大人ですって」
つまり、医者は薬が切れるまでの間に僕を倒さないといけない事になるが、それもどう考えても現実的ではない。
拳銃はどこかへ蹴り飛ばした。鉗子やメスだって、水玉がいればまぁまず食らう事はない。
こいつ自身も言っていた事だ……僕の、”予想外”の攻勢。
それに切羽詰まって繰り出しただけの、単なる悪あがきにすぎない。
薬の持続時間はいわば死の宣告。医者だけに、自分の余命宣告を自分で告げただけなんだ。
「いえ、ですから……」
「”投与”、もちろんしましたよ。”君にも”」
(え――――)
ドロリ――――。
その一言をキッカケに、全身が”とろけていく”ような感覚が僕の全身を覆った。
「ウゴゴゴゴ……」
(な、なんだ!?)
「ウゴ……ゴポ……ゴポッ、ゴプッ……ゴボォ!」
”とろけ”の感覚は、感覚の繋がった先から来るものであった。
精霊との共有状態に置いて、片方が何らかの感覚を感じると言う事は、もう片方が何らかの異常を受けたと言う事でもある。
そのもう片方から発せられる異常な感覚。
すなわちこの場合、”水玉に何かが起こった”と言う事である。
「み、水玉!? どうしたんだよ水玉!」
「ゴボッ……オオオ……!」
全身がとろける感覚に加え、逆らう事の出来ない強制的な”痺れ”。
さらにその果てに、姿勢を維持できなくなる程の”脱力感”まで襲って来た。
フッ――――その時、共有を示す「蒼ノ眼」が消えた。
これが示す事態は、水玉との共有が”途切れた”証。
「いい感じで効いてますね……安心してください。後は、その病巣を摘出するだけだ」
「な、何した……お前、何をした!?」
共有が途切れた事で、僕を突如襲った脱力感は消えた。
その代わり、大蛇どころか水玉としての姿すら維持できない程……
ドロドロに”溶けた”姿になっている、水玉の姿が見えた。
「ォォ…………ゴゴゴ…………」
「いえ、ですから”麻酔”です」
「精霊と言う腫瘍を取り除く為の、手術の最初に行う工程。さっき、同じ事言いましたよね?」
「水玉は病気じゃねーよ……!」
「君からしたらそうでしょうね。病気なのは、どっちかっていうと”そっち”だ」
(――――ッ!?)
『ガ……ザザ…………オ……ザザー…………』
「ス、スマホまで……!?」
異常事態はまだまだ続く。水玉と同じく、今度はスマホまで症状を出し始めたのだ。
スマホが発するおべんちゃらな関西弁は完全に聞こえなくなり、その代わりザーザーと砂嵐のようなノイズだけが鳴っている。
「な、なんで……」
『ザザ―……ザザザ……ピー…………』
スマホの画面をよく見てみると、先ほどまでとは明確な違いがあった。
画面の上部の通知欄。そこにはハッキリと二文字、こう書かれてあった――――。
(圏……外……?)
「ほら、パソコンにもウイルスってあるじゃないですか」
「感染、したんじゃないですか。まぁ私内科じゃないんでその辺わからないですけど」
「何科とか……関係ねーよ……!」
スマホにパソコン並みの高スペックが備わった弊害として、新たにコンピュータウイルスの危険性も生まれた。
これは、ガラケー時代には存在しなかった事態である。
医者の言う事は、そういう意味では正しい――――だからなんだ?
『ザザー…………ビビ……ガガガガ…………』
「オゴゴゴゴゴ……」
(どう……なってんだ……?)
ウイルス、麻酔、手術――――医者らしくさっきから医者らしい言葉が飛び交っている。
だが、そのどれもが”この事態と結びつかない”。
目の前の光景に、ただただ茫然とするしかできなかった。
さっきまで何ともなかったのに、なんだこれは……急に、いきなり、そんな……
「――――さて、で、ですね」
「うあ!」
僕が茫然としている間に、いつの間にか医者が目の前までやってきていた。
この不可思議な異常事態。至近距離で映る腫れ上がった顔面も相まって、まるで医者が医者どころか死神にさえ見えて来た。
「精霊使いの君ならわかるでしょう。”精霊使いから精霊を引いたら”、一体何が残るのか」
「答えは”年相応の子供が一人いるだけ”です。身体のできあがってない、成長途中の子供が、ね……」
この医者を気取った死神はどこか理屈っぽい。
そして医者と言う地位がそうさせるのか……しきりに「大人と子供」を、比べたがる。
「君くらいの年齢だと、一学年上の先輩方がえらく巨大に見えるでしょう」
「それは錯覚じゃありません。成長期の体は、一年違うだけでそれほど変わるのです」
「それが……なんだよ……」
「一年違うだけでそれほどの差異がある……だったら、さらにその”十倍以上”は違ったら、その差は一体どれほどまでに開くのでしょう」
この水玉とスマホが急に動かなくなった不可解な現象。男の発言になぞらえて、仮に「麻酔」と名付ける。
その麻酔をいつ、どこで、どのタイミングで注入されたのか。
仮にそこがわかったとしても……それ以前に、何で”急に”こうなったのか。
(麻酔って……そんな急に来るものなのか?)
何をどう考えても一切合切が理解できない。
周りの様子を見渡そうとも、水玉が泡立てながら蠢く音と、とスマホのノイズがただただ虚しく鳴り響くのみである。
その代わり……医者がこれから何をしようとしているのかは、”痛い”くらいにわかってしまった。
「やら……せっかよぉ!」
「遅い……」
ゴ ッ !
――――
「カ……ッ!」
「ま、所詮こんなもんですよ……精霊のない、ただの少年の動きなんて」
精霊のいない僕の「パンチ」は、医者の言う通りまさに”素人以下”であった。
苦し紛れに放った拳は届く事させさせて貰えず――――
代わりに医者の”膝”が、僕の腹へと突き刺さった。
「腹腔神経叢……胴体の内部にある神経の密集地帯です」
「神経が固まっている為、その分他所より感覚が鋭敏なのが特徴です」
「もちろん、痛覚も、ね……」
大人と子供の差。それは単純に、そもそも体の大きさが絶対的に違う。
身長と体重。そしてそこから生まれる純粋な”パワー”。
格闘技だって階級で分けざるを得ない「図体の差」と言う物を、それ以上の差で持って直撃を食らったとしたら……。
(くぅ……ぁ…………!)
「呼吸ができないでしょう? それもね、ちゃんとした理由があるんです」
「腹腔神経叢の場合は、肺が近くにあるんです。その為このような強い衝撃を与えると、横隔膜にまで衝撃が届いてしまう」
「そして激しく揺さぶられた横隔膜は、一時的な呼吸困難を招く……このように、人体の中で外部からの衝撃に著しく弱い箇所」
「腹部の急所――――所謂、”みぞおち”って奴です」
異常な事態は、ついに僕の体にまで達した。
みぞおちに膝の直撃を許した僕の身に起こるのは、激しく逆流する胃液と、驚きがてらギュッと閉じてしまた呼吸器官である。
(息…………できな…………!)
我慢できる、痛みじゃなかった。
敵の目の前だと言うのに、体が勝手に膝を付いた。
膝だけじゃない。僕の体内のありとあらゆる組織が、すべからく僕の意思に反逆をし始めた。
背中が勝手に丸まり出し、頭が自然と下を向く……
「これほどのダメージを追ってしまうふがいない主には、もはや任せておけない」――――。
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
「おわかりいただけましたか? これが”大人と子供の差”です」
「…………カハッ!」
「精霊がいなければ……君はその辺の子供に過ぎない……」
(み、水玉……!)
「ゴボボボォ…………」
体中の器官が蜂起を起こす中、唯一眼球だけが僕側のままであった。
眼球は、この場を何とかしてくれる可能性を提言してきた。「ご主人様、この場を打破するのはあの者しかおりませぬ」と。
そうして僕に視線を配るよう促してくるのだが……
それこそが、今溶けたアイスのようになっている水の精霊なのである。
「無駄ですよ。精霊は今麻酔が効いてますから」
「痛み止め程度とは次元が違いますよ。何せ手術用の全身麻酔です」
「どう足掻いても、自分の意志で動けません」
(く……)
唯一の味方の眼球までもが、ついに助言すらしなくなった。
「視界の中に何か、この状況を打破するものがあれば……」そう思ったらしいが、残念ながらそんな物は存在しなかったのだ。
眼球は、ただ視界を映すだけだけの器官に戻ってしまった。
つまり……”諦めて”しまったのである。
「さて、と」
――――グイ。
「ァ……ッ!?」
「職業病……なんでしょうねえ。考え過ぎだとわかっているのですが……」
「どうもこう、ハッキリと”峠を越えるまで”、安心できないタチでして……」
(…………!)
医者は蹲る僕の髪を無造作に掴み、無理やり力づくで立たせた。
この行為により目線が再び医者と合う。
そして医者は、声すら出せず苦しみに必死に耐える僕に言い聞かせるように、悠長に口を開き始めた。
もしかしたらそれはお返しのつもりなのだろうか――――さっき僕がやった、「ダメ出し」の。
「話は変わりますけど。君、あまり喧嘩とかしたことないでしょう」
(なん……)
「さっきのパンチ、本当にものすごい威力でした。あれほどの威力があれば、その辺の魔導士なら文字通りワンパンですよ」
「ですが……勿体ない。”狙った場所が悪かった”」
(は……)
「君ね、殴る時私の”頬”を狙ったでしょ? よくあるんですよ。漫画とか……大体そんな描写が多いですもんね」
「でも実は頬へと打撃って、そんなにダメージはないんですよ。面積が広い分、力が分散するんですね」
「それに頬には筋肉がありますから。医学的な検知から見ても、頬への打撃はあまり有効とは言えませんね」
「だから……殴るべきだったのは、ここ――――」
「――――頬のほんの数センチ”下”の箇所」
コン――――。
医者が、その”頬の数センチ下の箇所”とやらに、手の甲を当てて来た。
「みぞおちは鍛えさえすれば結構ダメージを低減してくれます。腹直筋は沿うように縦長の形をしてますから」
「が……ここはどう足掻いても鍛える事のできない、まさに”絶対の急所”」
それは、今からその箇所に”手を加える”と言う合図。
「まともに当たれば意志とは無関係に体が止まる。正真正銘”人体の弱点”」
グッ――――。
指を強く折り曲げる感覚が、手の甲から強く伝わって来た。
「追い打ちみたいで気が進みませんが……申し訳ありませんね」
「”峠を越えるまで”安心できないタチでして――――」
(あ……ぅ……!)
これから何をされるのか……明白であった。
ゴ ッ――――
――――硬い衝撃が、”顎”を突き刺した。
つづく