幻獣、装着
「なにこの変な声……あ、もしかしてアプリの機能かな?」
虹はこの奇妙な声を、アプリのせいだと考えることにした。いや、そう考えるしかなかったのだ。なぜなら、それしか思いつかなかったからだ。
しかし次に頭の中に響く声に、虹の推測は空振りだったことを気づかされた。
『機能なんかじゃねぇよ。こりゃ現実そのものだ。さぁーて、本題だ。……貴様に与えられた未来は、二つだ』
先ほどより、はっきり聞こえた気がした。それでも虹はいまひとつピンときてはおらず、ただただ謎の声に耳を傾けるだけであった。
『まず一つ、貴様は俺の姿となり、来るべきラグナロクに参戦すること』
謎の声は虹の様子など構いもせず、自分の言いたいことを次々に伝える。虹はなにを言われているのか全く理解できなかったが、とりあえずアプリを終了させようと手にしたスマートフォンの画面を見る。しかし、画面は真っ暗で、電源ボタンを押しても反応がまるでなかった。
『そして、二つ……』
謎の声は虹の行動を無視してひたすら話を続け、息を飲むように黙り込んだ。虹はスマートフォンに、充電器を差し込んだ。
『……貴様はラグナロクに参戦することを放棄し、死ぬことだ』
死ぬ……というワードの認識に時間を要したが、虹はスマートフォンを弄くり回しながら、ようやく謎の声に口を利いた。
「死ぬって、ゲームオーバーってことかな? RPGとかって、苦手なんだよなぁー……ゲームでも死ぬのイヤだし」
虹は何気なく、答えた。すると、それに呼応するように笑い声が頭に流れ込んできた。
『クク……ククク……』
スマートフォンに充電器を差し込んだにも関わらず、虹がなにをどうしても電源は入らない。壊れてしまったかと思ったが、アプリの声が聞こえているから壊れていないかもとも思った。
『そうだよなぁ、死ぬのは厭だよなぁぁ……。なら決まりだ。俺と貴様は……魂と姿の契約を行うッ!』
謎の声は虹の言葉尻を捕まえるように言い放つと、虹の握っているスマートフォンが唸りを上げて凄まじい光を放ちだした――。
「わぁっ! な、なにっ?」
虹の目の前は寸刻真っ白になり……すぐに視界に見知った部屋が映し出された。虹はきょとんとした後、パッと部屋を見渡す。しかし取り立てて変わったところは見つけられなかった。
「い、いったいなんだったの?」
「こういうことだよッ」
虹の背後から、〈高い声が耳を通して〉聞こえた。虹は驚きつつも条件反射のように振り向いてしまう。
すると、視線の先……ベッドの上に、少し目つきの悪い青い毛を蓄えた子犬のような動物が鎮座していた。
「わ……か、かわいっ……。なにこれ? なんでわたしの部屋にこんな子が? どこから入ってきたの?」
虹は一瞬驚いたあと、にこりと笑い質問攻めをしながら両手を伸ばして近づく。しかし子犬のような動物は、ぴょんと飛び上がると虹の頭を踏みつけ机の上に降り立った。
「姿が気安く触んな、アホタレ」
机の上で、鋭い目つきで虹を睨む子犬。それに対して虹は全身を震わせ、目を見開いて口も大きく開けた。
「わぁーっ、あなた喋れるの? すっごぉーいっ」
虹は子犬にぐっと顔を寄せ、その大きな瞳をキラキラと輝かせた。子犬は怪訝な表情で顔を引き、そのまま話を続ける。
「な、なんだ貴様……無礼な奴だ。俺ぁな、最強幻獣フェンリル様なんだぜ?」
フェンリルと名乗る子犬は、二本脚で机に立ち胸を張る。虹は身体を引いて顔を傾げ、「ふぇん……?」と返した。
「フェンリルだ。まぁいい、そんじゃこれからのことについて説明……」
フェンリルが何かを話そうとするも、虹は聞いているのかいないのか、フェンリルの胸にふさふさと生える白い毛をみつめ恍惚の表情を浮かべている。
「な、なんだよ?」
「ごめん、一回だけっ!」
「はぁッ?」
虹はフェンリルに飛びつき、その胸にふさふさと茂る白い毛ゾーンに……顔を埋めた。
「うぉっ、ちょっと、なんだ貴様っ! や、やめろぉっ」
虹に抱き着かれて頭をグリグリと押しつけられるフェンリル。虹の頭を前足でグイグイと押すようにして抜け出そうとするも、虹は離れようとせず脱出は叶わなかった。
「クソッ、レベルが低いせいでうまく力が入らねぇ……」
フェンリルがへばったように舌を出してへたり込むと、虹はようやくフェンリルを放し顔を上げた。
「あ。ねぇねぇ、もしかして、さっきの低い声って……」
虹が言いかけると、フェンリルはそれに割り込むようにして答える。
「……あぁ、そうだ。さっきの声は、この俺……」
「あなたの飼い主さんねっ!」
虹が更に被さるように大声を上げた。自信満々といったその表情は、とてもあどけないものであった。
「い、いや、違ぇってのッ。さっきの声も、俺がだしてたんだよッ」
フェンリルは二本脚で立ったまま、右前足の親指で自分を差す。虹はいまひとつ理解していないようだが、「ふーん、よくわかんないけど、可愛いからいっか」と笑顔になった。
「……貴様、さっきからズレたことばっかりだな。いまのガキってのは、感覚がバーチャル過ぎておぞましいもんだぜ」
フェンリルはため息を吐き、ニコニコと笑顔のままの虹に言葉を吐きかける。
「小娘、そろそろ話を進めようぜ……。貴様はな、俺の姿となる契約をした。姿は魂に従い、ラグナロクを勝ち抜かなければならない。つまり貴様は、これから俺に身体を捧げ続けるってことだ」
虹は笑顔のまま口を開き、フェンリルの言葉に反応を示す。
「え? わたしに飼い主になってほしいってことかな? それなら大歓迎だよーっ」
虹の無邪気な答えに、フェンリルは苛立ち頭を掻きむしる。
「ちっげぇーってのっ! 逆だよ、逆ッ。俺が飼い主で貴様が……あぁーッ、もう! 細かいことはそのうち説明すっから、とりあえずスマホを見ろッ」
怒り狂うフェンリルに指示された通り、虹は手元のスマートフォンを見た。すると画面には、フェンリルという文字やレベルという文字が映っていた。
「〈起動〉は済んでるからな、次は〈装着〉だ。ラグナロクにおいて貴様ら人間は不完全な欠陥品だ。だから俺らを装着する必要がある。……画面をタッチしてみるんだ」
落ち着きを取り戻したフェンリルは肩で息をしながら、更なる指示を出す。虹は画面にある《装着》というボタンに、人差し指を置いた……――。
部屋の中に青色の突風が舞い込み、虹の身体を渦巻く。左右に結った長い黒髪が暴れだし、パジャマが乱れ白い肌が少し露呈した。
やがて青色の風は止み、虹の髪や服の暴走も収まった。すると机の上にいたはずのフェンリルは消え、部屋には俯き佇む虹の姿だけがあった。
「……チッ、なんだこの貧相な姿は。こんなんじゃ、百獣の雑魚が相手でも敗けちまいそうだぜ……」
虹はそう呟くと、突然振り向きカーテンのかかる窓を見た。虹はカーテンを開き、夜空を眺める。窓に映る虹の顔は、先ほどまでとは打って変わって鋭い目つきをしていた。
虹は自分の姿を見るなり、「チッ」ともう一度舌打ちをする。窓に手をかけるなり勢いよく全開にして、虹はそこから、飛び出した。
「よっ……と。まぁこんくらいは動けるか」
窓から飛び出た虹は、隣の家の屋根の上にいた。そして、大して星の見えない夜空を見渡し、呟く。
「呻き声が上がってきてんじゃねーかッ。さぁ、ラグナロクの始まりだ……」
排気ガスがひしめく空気を目一杯に吸い込み、夜空に向かい、虹は、遠吠えをした――。