【競演】Speeding train
「疾走する列車を眺めてる分には俺は『永遠』になれる。俺だけが世界でただ一人、時間が止まっているように感じるから」
2034年、東京。東京オリンピックの特需ももうとっくの昔に過ぎ去り、文化も経済も低迷する一方の時代。希望のない若者達が溢れ返り、彼らが危険薬物に手を出し過ぎる余り、政府が「せめて注射器の二次使用は避けるように」と注射器の配布までするようになった世相。そんな時代に風山東輝は生まれた。
意思の強い東輝だが、元からの快楽主義的傾向、自暴自棄になりがちな心、そして何より自ら進んで学歴社会からドロップアウトした経緯もあって、彼はハシシから始めて今ではヘロインにまで手を出すようになっていた。
東輝は走り抜ける列車を臨める空き地で一人立ち尽くし、先に血液中へ注入したヘロインの余韻にぼんやりと浸っている。幾台も疾駆していく列車を眺めながら、東輝は震える左指先を右手で何度も抑える。どうやらヘロインの効き目がなくなってきたらしい。愛しい砕けた錠剤を液状にした次の「ドリンク」を注入する時間が近づいている。東輝はそう感じ取っていた。
目的が決まると話は早い。考えてる暇はない。即行動。もっともヘロイン漬けになった脳みそでは考える余裕もゆとりもないのだが。東輝は足早に集合住宅地の前を駆け抜けて行く。目指すは上質の「ドリンク」を提供してくれる、女ヘロイン売買人、浅原息吹。「シスター息吹」の自宅だ。そこで、強烈な液体を打ち込んで、この憂さだらけの鬱屈した人生から離れてしまおう。そう東輝は思っていた。
シスター息吹の自宅では、ヤク漬けになった可愛そうな「迷える子羊達」が、幾人もヘロインを体中に打ち込み、陶酔、酩酊、そしてトリップの世界へと入り込んでいる。薬が切れかかったせいで冷や汗を滲ませる東輝は、汗で濡れた左手に万札を握り締めて、息吹に差し出す。
「淑女様。どうか最上級のものを」
「いらっしゃい。お客様。今夜も最高の夜をあなたにご提供しますわ」
そんな演技がかったやり取りも含めて自分達は「ラリッ」てる。そう東輝は自覚があった。東輝は逸る心を抑えて、錠剤をすり潰し、火炙りで錠剤を溶かし込むと、左腕の袖を捲り、注射器で「ドリンク」を注入する。瞬時、体中を駆け巡る快楽、エクスタシー、一切の憂いや厄介事が頭の中から吹き飛んでいく感覚が東輝を襲う。東輝はこの上ない至上の気分に浸りこう呟く。
「世界を売って、人生、未来と縁切りした気分だ」
天井には首をもぎ取られたキリンが歩く幻覚が見え、羽根の生えた、薄気味の悪い天使の幻影が舞っている。今日は殊更強烈な「ドリンク」を打ち込んでしまったらしい。そう考える間もなく、薬の回りすぎで東輝は昏睡状態に陥ってしまった。
東輝は、シスター息吹の計らいで、呼ばれた救急車で病院へと運ばれていく。「これで俺の人生も一巻の終わりだ」と東輝は夢現に思うも反省する兆しもない。とりあえず病院の手慣れた応急処置と、3日間の療養期間を経て東輝は両親の待つ自宅へ帰宅させられた。
ベッドの上で、禁断症状に体が震える東輝を見て、父親の和馬と、母親の玲子は口にする。
「東輝、お前、人生を捨てるつもりか。まだ若い。人生は立て直せる」
「東輝。あなたは少しだけ好奇心が強いだけ。薬物もきっと断ち切れるわ」
幻覚、幻視に苛まれながらも東輝は、この両親の言葉は胸に響いた。
「そう。ヤク断ち……、しなくちゃな」
そう決意した東輝の部屋にはどこからか迷い込んだのか、それともまだ薬の残る、東輝の錯視なのか紫色の煙が立ち込めていた。
禁ヤク一日目。部屋中を施錠して、扉に板を釘ではりつけ、自分自身を軟禁。食事に、バニラアイスクリーム、炭酸飲料、気晴らしのポルノビデオ、大用、小用のバケツも用意して、用は全て部屋ですませる。ヤク断ち出来るまでは部屋から一切出ないつもりだ。覚悟できたら、今にも震えだす体を乗り越えてヤク断ち開始だ。東輝はそう決めて体をベッドに投げ出す。
禁ヤク二日目。物凄い目眩と、足の痺れで目を覚ます。幻覚、幻視に幻聴が止まらない。耳元に誰かが囁く声がする。「お前なんて、最低の男だ。ヤクに塗れなければ何も出来やしない。最低無能のドロップアウト野郎。せいぜい自分を責め立てて、地獄の底で嘔吐しな」。その声にそそのかされて猛烈な吐き気に襲われた東輝は、炭酸飲料をがぶ飲みして何とかその場を凌ぐ。これが続くと思うと絶望したくもなるが、本当にここでドラッグと「おさらば」出来なければ廃人コースが待っている。東輝は、今一度自分を奮い立たせて、シーツにくるまり、震える体を抱え込んだ。
禁ヤク三日目。いよいよ幻覚が本格的に東輝を襲い初める。もちろん東輝にはそれが幻覚だと自覚はない。それが彼にとっての現実なのだから。去年、ヤクのやり過ぎで死んでしまった親友の道則が、板をはりつけた扉の前に立っている。道則の顔は青ざめ、恨みがましく、どこか寂し気だ。
道則にドラッグを勧めたのは何を隠そう、東輝自身だった。その事で少し東輝は自分の事を責め立ててもいたのだが、ドラッグに逃れることでその責任の重さを感じずにいることが出来ていた。道則は猟奇性に満ちた瞳で、東輝を見つめるとこう零す。
「お前が俺を殺した」
「違う。違う。ヤクを勧めたのはお、れだが……、ウッ、オェ」
「お前は俺の将来も未来も奪った。なのにお前は平気の平左で今日を生きている。お前の人生は本当は俺のものだ」
「分かってる。それは分かってる。だけど……、くそっ! 言い訳のしようがない」
扉の前に立っていた道則は、いつの間にか、東輝の横になっているベッドの天井に蜘蛛のようにはりついている。道則は、東輝に背中を向けながら恨み節を口にする。
「お前が、俺を殺した」
「違う! そんなんじゃない!」
「お前、オレ、コロ、シタ」
「許してくれ。道則! 本当に!」
すると道則は懐から長刀を取り出し、振りかざす。
「お前には……、死をもって償ってもらう」
「冗談よせよ。なっ。道則」
「冗談じゃ……、ない」
次の瞬間、道則は天井から飛び降り、東輝に覆いかぶさると長刀を東輝目掛けて振り下ろす。貫かれる東輝の心の臓。吹き上がる血しぶき。その光景を目にして東輝は叫ばずにいられない。
「うわぁぁぁぁあああああぁあ!!!!! 道則! 道則! 道則ぃー!」
禁ヤク四日目。自殺願望、自己嫌悪の嵐が東輝を襲う。東輝には、どんな些細なことでも自己嫌悪の対象になった。幼児期、母親におむつを替えてもらった心象風景でさえも自己嫌悪の対象だ。クズ、クズ、クズ、俺はゴミだ。一人、学校をドロップアウトしてヒーロー気分で人生を漕ぎ出すも、やってるのは派遣社員とバイト三昧、そしてヤク漬けの日々。こんな俺なんかいっそのこと死んでしまった方がいい。「グッド・バイ・ザ・ワールド!」だ。そう自分を忌み嫌い、呪詛の言葉を自分自身に浴びせながらも、東輝は何とかその日一日を凌ぐ。ここまで来ればゴールは目の前だ。もう後戻りは出来ないし、するつもりもない。一度決めたらひたすら禁ヤクあるのみ。東輝は胸の内でそう呟き、最後の禁断症状を乗り切る。
禁ヤク五日目、六日目。神は海と大地を作り、それで良しとされたという。東輝も同様、憔悴しきった自分の体を抱え込んで、一筋の光を見出した気がした。それは遠くで瞬き、東輝を本当の「ハッピーエンド」へと運んでくれるようだった。東輝は部屋の隅でうずくまり、虚ろな瞳で見下ろす床に、列を作っていた蟻の幻影が消えるのをたしかにその目で見届けた。
禁ヤク七日目。ゴール。神は全ての仕事をやり遂げ、休まれた。東輝は東の空から、輝く太陽が昇るのを見た。これで終わり。終了。全てが終わった気分だ。罪も、過ちも、嘘も全てが清算された心地よい気分。東輝は見事ドラッグの誘惑、死の影、幻影、幻聴の嵐を遠ざけることが出来た。東輝は、鏡に映る自分を祝福する。よくやった。あとは若干の倦怠と、退屈な人生を受け入れるための数日間が待つだけだ。そう東輝は自分を褒め称えて、隈の出来た、ほっそりとした顔を一撫ですると、軟禁部屋の板を外した。
それからしばらくは、朝食に少量のカロリーを摂って、ティータイムにミルクティーを少し飲むだけの毎日。東輝は呆けてて、呆然自失で、何もやる気が起きないが、それでもドラッグに依存してた時よりはマシだった。ほっと一息つく東輝が、ベランダでミルクティーをすすりながら、外を眺めていると、何やら来客が現れた。まだ若い二人の女性、一人は東輝の従妹の和美だ。もう一人は誰だろう。東輝にはそれが分からなかった。和美の胸元では赤ん坊がスヤスヤと眠っている。何だか心地よさそうだ。東輝がぼんやり、微笑ましげにその二人を見つめていると、母の玲子の呼ぶ声がする。
「和美さん、この前出産したのよ。東輝、あなたも祝ってあげて」
「祝う」。そんな心のゆとりも余裕も東輝にはなかったが、なぜか二人、いや三人が気になった。仕方ないと腰を上げてリビングに向かう。玲子が用意してくれたお茶菓子を前にして、和美のお喋りが始まる。
「東輝君? 薬、やめたんだってね。それはよいことだ。私も無事赤ん坊を授かって、順風満帆。これから風山一族には、良好な風だけが吹いている!」
何だか祝ってもらっているが、今の東輝には全てが右から左にスルーだ。ぼんやりしていると和美の連れてきた、もう一人の女の子が口を開く。名前を瑠璃という。
「東輝さん? ですか。初めまして。私、和美さんの義理の妹になります。瑠璃です。よろしくお願いします」
義理の妹。ということは和美の旦那の妹か何かか。そうおぼつかない思考で考えていると、不意に東輝の口から、自分自身思いもかけない言葉が口をついて出る。
「瑠璃さん? 彼氏いるの?」
その言葉に言外の、東輝の好意を感じ取ったのか、瑠璃は顔をほんのりと赤らめて顔を伏せる。こんなに純粋で、擦れてない女の子に出逢うのは、そう言えば東輝は久し振りだった。しばらくの間、東輝が躊躇っていると、和美がさり気ない気遣いを見せる。
「そうだ。今度、瑠璃と東輝君、一緒にどこか遊びにでも出掛けたら? 実は内心、東輝君に紹介するつもりでもあったのよねー」
「ちょ、ちょっと和美さん!」
そうやって和美を止める瑠璃はとても愛らしかった。どこからともなく優しく、爽やかな思いが東輝の胸に込み上げてくる。気が付くと東輝はこう口にしていた。
「俺のお気に入りの場所があるんだ。列車が走り抜けるのを眺めるだけの場所だけど。最高の場所なんだ。良かったら……」
すると瑠璃は少し顔を伏せながらOKを出す。
「はい。良かったら」
「ヤッタネ! 東輝君。これが東輝君の社会復帰の第一歩だ」。そう言って小躍りする和美を横目に、澄んだ瞳を東輝は庭先へ静かに向けていた。これで暗黒社会から抜け出せる。そうほっと一安心しながら。
それから数日後、走り抜ける列車を臨める、例の空き地に東輝と瑠璃はいた。二人は草場に腰を降ろして、幾台もの疾走していく列車を見送っていた。「Speeding train」。格好をつけて、ドラッグがなければ「永遠」なんて感じることが出来ないと思っていたのに、今の東輝は、傍に瑠璃のような女の子がいるだけで幸せだった。「Speeding train」。東輝の他愛のない冗談に、クスクスと笑う瑠璃の笑顔を見て、確かに東輝は感じ取っていた。「永遠」なんて今この一瞬、一瞬を噛みしめる、ささやかな幸せにしかないということを。疾走する列車がそのことに気づいた東輝を祝福しているかのようだった。クスリがほぼ抜けきった心と体を労わりながら、東輝はこう呟く。
「『Speeding train』。売ってしまった世界も人生も今ここに買い戻すよ。柔らかく温かい『永遠』って奴を感じながらね」