名無しの気持ち
あ、と声に出してみて、その声に違和感を覚えたのはいつだっただろうか。
女だって声変わりをするのだ。自覚したのは高校生のときだった。なんだか大人っぽい声だなぁ、と部活の先輩に言われてはたと気が付いた。
高校生の頃。毎日決まった時間に起きて、決まった制服を着て、決まった時間の電車に乗っていた。
ただ、決まっていなかったものといえば、同じ号車に乗っていた他校の男の子を見る私の視線だった。
朝時間がなくていらいらしているときに彼を見ると、涼しげな顔立ちになおさら腹が立った。朝ご飯が美味しく機嫌の良いときに彼を見ると、しゅっと引き締まった輪郭に形の良い唇を見てどきどきした。
彼は私が一年生のときも、二年生のときもいた。三年生になって初めて乗った電車内に彼がいた時、あぁ同じ学年なんだなと感じた。
話しかけるわけでもなく、ただぼぅっとしながら見ていた。彼は身長は私よりも少し高めであった。170センチあるかないかといったところだろう。黒縁メガネに何処と無くキツネを思わせるようなつり上がった細い目。そしてしゅっと引き締まった輪郭に形の良い唇。私は彼のその輪郭と唇がたまらなく好きだったと思う。彼が友人と話しながら電車に乗っている時。動く唇を無意識に追ってしまった。もちろん、ただ見ているだけだった。
夏の暑い日。高校三年生の私は進学する大学の指定校枠にうまく収まることができそうだった。そのため、周りの受験組がぴりぴりするなか、どことなくのんびりとしていた。
もうすぐで一学期が終わろうとしていたその日も私はいつもと同じ電車に乗っていた。
彼は受験をするのだろう。英語の参考書をここ最近はずっと手に持って読んでいた。
頑張っているのだなぁと見つめていると、彼が不意に顔を上げて目が会った。
あ、と思った時には彼は立ち上がり、ドア付近に立つ私のそばに来ていた。
「ねぇ、きみ」
形の良い唇が目の前で動く。彼はにこりともせずに私を見ていた。
「一年生からずっと一緒だよね」
異常なくらいに緊張した。口の中がカラカラと乾いていたのがわかった。
「はい」
やっとのことで絞り出した声に、彼はようやく満足そうに笑った。
「初めて声を聞いたけど。すごく落ち着いている声だね。すごくいいと思う」
まさか声を褒められるとは思わずに、少したじろぐと彼はさら笑みを深めた。
「名前教えてくれないかな? ずっと気になっててさ。受験に集中できないんだ」
彼も緊張していたのだろうか。私の前に立った時の表情が嘘みたいに、一度笑顔を浮かべてからはにこやかな表情だった。
「山村舞香です」
私もようやく余裕ができて笑った。
この後恋愛に発展し……という少女漫画のような展開はなかった。
彼とは電車で会うと軽く挨拶をする中になったがそれだけだった。
高校を卒業して彼と会わなくなってから、あれは恋だったのかと気がついた。彼はもう県外の大学に行ってしまった後だった。
あー、と声を出してみる。我ながら落ち着いた声であると思う。
高校を卒業してから6年が経った。働いて二年目になる。
今日は彼と会う日だった。たまたま会社の一つ年上の先輩が彼と大学が同じであり、ゼミも一緒だったという。
飲み会の席で初恋の話になり、彼の話をしたところで先輩の顔が輝いたのだ。
私、その男の子知ってるわよ! と。
飲み会があったのが先週の金曜日。そして今日仕事休みの土曜日に彼と先輩と飲み会だ。
こんなことだったら髪の毛切らなければよかったなぁ。
洗面台で顔を洗ってから、うなじを触って思った。高校生の頃は胸元まである黒髪ロングだったが、今では暗めの栗色のショートヘアだ。
「まぁ、でも。うん、可愛いぞ私!」
洗面台で最終チェック。髪型オッケー。メイクオッケー。服装オッケー。あとはお気に入りのパンプスに、少しだけ奮発して購入したバッグを持てば完璧だ。
あー、あー、と声を出す。落ち着いた声というのは大学に入っても、社会人になってもたびたび初対面の人に言われた。そのたびに彼を思い出し、くすぐったいような、苦いような、甘いような。形容し難い思いを抱いた。
今日こそそんな言葉にできない気持ちが報われるだろうか。
家の扉を閉めるときに、小さな声で行ってきますを言った。
-- --行ってきます。願わくはこの思いにもう一度名前がつけられますように。