見えない向日葵、夏の青空、
誰の言葉だったか。
『後悔するな。反省しろ』。
私にとってそれは、全くもって賛同できない言葉だった。
―――それは、ある夏の日の昼下がり。
いつもの夏より強い陽射しと、青い空が記憶に残っている。
―――だからだろうか。
いつもの夏より私は熱に浮かされたように舞い上がり、彼はふらつくそんな私を呆れながらも心配してついてきてくれた。
………だからだろう。
その夏は、酷く凍えていた。
今年の八月は、例年よりも暑いらしい。前に、画面の向こうの誰かがつまらなそうに言っていた。 だからかは知らないが、蝉はとても喧しく聴こえ、アスファルトの上に揺らぐ陽炎は確たる存在としてそこに居た。
昼下がり。ろくに光も入らず、電灯も点けない薄暗い部屋をより暗く写すばかりのテレビには、ぺたんとだらしなく座り込む私も映っていた。目蓋は半端に下がり虚ろな眼をして、眠そうな顔が私を向いている。
そうしている間にも、蝉は鳴り止む事無く降り注がせる。陽炎は今も誰かを惑わせる。
不意に。
あの時のように、世界が私を放って終わったかのように静まり返る。
蝉も、車も、太陽も。みんながみんな、私を見捨てたように静まり返った。
ただ、あの時と違うのは、彼の鼓動が聞こえない事。
あの時は、彼の鼓動だけが世界の証明で、私の罪の証明だった。
思い出す。時がいくら経とうが、薄れない記憶を。立ち上がる。忘れてはいけない、あの時を私に刻む為。
少し染みの残る、あの時の白いワンピースに着替える。洗面所の鏡で髪を整え、彼が困ったように微笑みながら、このワンピースに「似合う」と言ってくれたスニーカーを履く。玄関のドアをくぐると、照りつける太陽に、眼底が少し焦げた気がした。気がするだけだけど。
二度と浮かれない。そんな事は思わない。あれが夢だったら。そればかり日々思う。
夏の陽射しにふらつきながら歩いていこう。あの坂道を下っていこう。
「なあ、姉ちゃん。……姉ちゃん? …………そうか、今日だったな。忘れてたよ、クソッ……!」
今から間に合うのか。いや、間に合わせる。二度とあんなコトは起こさせないと、決めつけたんだから……!
あの日と同じ、覚束ない足取りでふらふらと坂道を下る。
あの日と同じ、車も人もいない、蝉と太陽だけが夏を謳歌する。
あの日と違い、私の後ろには揺らぐ熱気と青空だけ。
そして、あの日を思い出すように、なぞるように道路へと足を踏み出す。右も左も何もなしに、陽炎を踏み潰すように横断する。
やはり私は浮かれていたのだ。彼と一緒に気まぐれに散歩できる事に。
道路を舞台に、まるで踊るようにステップを踏む。足元がスニーカーなのは頂けないけど、それでも彼は笑ってくれたんだっけ。それで、誘おうと手を伸ばしたんだっけ。それで、突き飛ばされて――
「姉ちゃん!」
叫び声。私を呼ぶ声だった。それを聞き届けてすぐに衝撃。一瞬だけふわりと空中に浮かび、次には道路の向こう側に叩きつけられる。視界を塞ぐ乱れた前髪をどかせば、場違いな、いや、上の青と対比させるならば恰好の赤がアスファルトの上に広がっている。照りつけられて、じりじりと音が聞こえてきそうだった。
私の眼は、うろたえる通りすがりの女の人や、変な塗装を施したトラックの運転手を見ていても、私の耳にはその人たちが上げているであろう叫び声や怒号は届かなかった。
だって、私の耳は彼の鼓動を聴いている。聴こえないその音を、在りはしないその音を聴いているから。
今、目の前で途絶えようとしている鼓動は聴こえない。水溜りが広がろうと、それの中心の何かがぴくりと動かなくても、私は彼の鼓動に夢中になっている。彼の血塗れの体に夢中になっている。私の心に刻みつけようと。消さない為に。思い出す為に。
そうして、私の心が彼の事で一杯になった時、ようやく目前の物――私の弟に気がつく。
そうして、私の頬には涙が伝う。彼を想う為にまたあの日を再現し、その度に止めてくれた弟を失ってしまった事に。私は繰り返したのだ。
彼の為に。彼を忘れない為に。彼に対しての罪を褪せさせない為に。彼を私の心に痛みとともに刻む為に。
そのついでに、弟を失った。
反省をしない為に。彼を過去に置いていかない為に。後悔として留まらせ、私の今と共に在り続けさせる為に。―――その、ついでに。
涙は伝う。彼の為に。ただ彼の為に。ひたすら彼だけの為に。私を捨てて、彼だけの為に。
テーマは「後悔」。