アイヌの日本移住
1875年9月9日、サハリン島(日本名:樺太)に居住していた20人のサハリンアイヌが図合船(江戸時代後期から明治時代にかけて、江差《現、北海道江差町》・松前・野辺地[現、青森県野辺地町]などで使用された100石積《約15トンから約18トン》以下の海船)で北海道のソヤ[現、北海道稚内市宗谷]へ移住した。
『樺太・千島交換条約』の批准(1875年8月22日)から1ヵ月後の9月19日、サハリン島のクシュンコタン(久春古丹)[現、ロシア連邦サハリン州トマリ・アニヴァ。日本名:大泊郡千歳村楠渓]において、サハリン島のロシア帝国[現、ロシア連邦]への譲渡式が挙行された。ついで、10月2日には千島列島北端のシュムシュ島において、10月4日には千島列島南端のウルップ島において、千島列島の日本への譲渡式が挙行された。
サハリン島および千島列島の譲渡式のために派遣された日本・ロシア帝国の官吏たちは、サハリン島および北千島列島において譲渡する側の国民が譲渡後も国籍を維持したままでその地にとどまり、これまでと同様に自由に漁業や狩猟に従事できることを布告するよう命ぜられていた。しかしサハリン島へ派遣された長谷部辰連【はせべ・たつつら 1844-1910 福井出身】は命令をまったく無視して、サハリン島に居住していた日本人全員に島外退去を勧告し、さらに漁業者に対しても「漁業断念書」を提出させて出稼ぎ漁業の中止さえも約束させたようである。長谷部の行動は、長谷部の独断によるものとは思われず、すでに1875年6月に開拓使次官の黒田清隆【くろだ・きよたか 1840-1900 鹿児島出身】がサハリン島を訪れたときに現地幹部の長谷部と堀基【ほり・もとい 1844-1912 鹿児島出身】に命じていたのであろう。開拓使は、1874年3月には日本人居住者に北海道への引き揚げを勧告し、同1874年秋には458人がサハリン島を離島し、官営漁場なども廃止されていた。開拓使としては、頭痛の種であった日本・ロシア帝国間の紛争をいち早く回避するため、『樺太・千島交換条約』で榎本武揚【えのもと・たけあき 1836-1908 東京出身】がロシア側から合意を得たサハリン島漁業の権利をも放棄するつもりであったと思われる。翌1876年2月29日附で『条約付録』を発布したのに引きつづき、3月2日には太政官布告第25号をもって「露西亜国と交換相成り候樺太島に於て従来漁業営み居り候者は、旧漁場に於て引続き営業苦しからず」と布告し、サハリン島へ渡航する際には「渡航公証」を申請するよう求めた。この太政官布告第25号によって開拓使が提出させた「漁業断念書」は事実上無効になった。
先住民のサハリンアイヌと北千島アイヌに対しては、日本国籍かロシア国籍のいずれかを選択するよう求められた。1875年8月23日の『条約付録』では、サハリン島および千島列島現地にとどまる者は「新領主の臣民」になり、従前の政府(日本政府)に帰属することを希望する場合は、3年の猶予期限内に従前の政府の領土へ移住することが定められていた。
まず、サハリンアイヌについて。日本側では北海道のエベツプト[現、北海道江別市]附近(現在の札幌市の東隣)をサハリンアイヌの移住地と考えていたが、8月17日の時点では、日本国籍を希望したサハリンアイヌの全員が、サハリン島を遠望できるソヤ[現、北海道稚内市宗谷]以外への移住は望んでいなかった。移住希望のサハリンアイヌ全員がソヤ移住を強く望んだため、現地当局は移住希望のサハリンアイヌたちをとりあえずソヤへ移住させることを通知し、9月9日には20人のサハリンアイヌが図合船でソヤへ渡航し、10月1日までのあいだに108戸841人(854人との説もある)のサハリンアイヌが開拓使の官船「函館丸」や日本人漁業家の図合船、番船(海上警備の船)などでクシュンコタンからソヤへ移住した。しかし、移住を急いだために遠隔地の家族はその一部しか間に合わない場合もあった。『樺太・千島交換条約』では、先住民は3年以内に国籍を決定することになっていたが、開拓使はこののち迎えの船をださなかったばかりか、北海道へ移住したサハリンアイヌにも迎えにゆくことを許可しなかったため、こうした家族は離散したままになった。
北海道へ移住したサハリンアイヌは、翌1876年にエペツプトのツイシカリ[現、北海道江別市対雁]に強制移住させられ農耕に従事したが、サハリンアイヌのこうむった災禍は移住というよりも、1879年と1886年のコレラ(コレラ菌の感染による急性伝染病)、1886年と1887年の天然痘の全国的な流行であった([1879年のコレラ]:全国患者数16万2,637人、全国死亡者数10万5,786人、サハリンアイヌ死亡者数30人。[1885年から1887年の天然痘]:全国死亡者数3万2,000人。[1886年のコレラ]:全国患者数15万5,923人、全国死亡者数10万8,405人。[1886年のコレラ・天然痘]:北海道内のみで死亡者数3,000人。サハリンアイヌ死亡者数約300人)。これらの伝染病で、移住したサハリンアイヌのうち385人が死亡した(移住者全体の45.78%)。移住したサハリンアイヌはやがてツイシカリの土地を捨ててアツタ[現、北海道石狩市厚田区]やライサツ[現、北海道石狩市八幡町来札]の漁場に移住するようになったが、1893年前後から「(出稼ぎ)漁業」や「墓参」を口実に家族を挙げて故郷のサハリン島へ帰る者が続出し、日露戦争(1904年2月8日から1905年9月5日)によって北緯50度以南のサハリン島が日本領になると、1906年には残留者のほとんどがサハリン島へ引き揚げ、1906年1月の時点で、サハリンアイヌの帰還者総数は300人以上といわれる。
つぎに、北千島アイヌについて。千島アイヌは、千島列島最北端のアライト島からウルップ島までを「ルートン」、エトロプ島から北海道本島までを「ヤワニ[Yawani]」、みずからを「ルートンモンクル」と呼んだという。推測の域をでないが、「ルートン」はアイヌ語の「ru-tom」=「道・輝く」、すなわち「輝く道」。「ルートンモンクル」はアイヌ語の「ru-tom mo-un-kur」=「道・輝く・小さい・いる・人」、すなわち「輝く道にいる小さな人」ではないだろうか。千島列島は火山が多く、陸上に160、海底に89の火山が確認されている。このように千島列島は火山列島としても知られ、北海道東端からカムチャツカ半島へ弧状にのび、火山の噴火する千島列島を「ルートン[ru-tom]」、すなわち「輝く道」と表現したのではないだろうか。
さて、千島列島の譲渡式が行なわれた1875年10月の時点で北千島列島の住人は、シムシル島に59人、ウルップ島に33人のウナンガン[Unangan](アリューシャン列島、アラスカ半島、ロシア東部のコマンドル諸島の先住民。人類学では、エスキモーとともにモンゴロイド人種に分類される。外部からの呼称は「アレウト[Aleut]」。「ロシア領アメリカ会社」時代の1830年代から1840年代にアラスカ沿岸から移された人々)がおり、またシュムシュ島に33人、オンネコタン島およびシャスコタン島に出稼ぎ中の約39人、合計72人の北千島アイヌであった。このうちウナンガンはすべてロシア領への移住を希望したが、北千島アイヌの去就は未定であった。
1876年1月、北千島列島は北海道の「千島国」に編入されて開拓使の管轄になり、得撫郡、新知郡、占守郡の3郡に分けられたため、開拓使は北千島列島の経営方針を立案するために同1876年7月に長谷部と時任為基【ときとう・ためもと 1842-1905 鹿児島出身】のほか専門家たちを北千島列島へ派遣し、各島の地形・地質・動植物・産物・住民の風俗などについて詳細な調査を行なわせた。このときウルップ島・シムシル島の両島にはウナンガンたちがロシア帝国からの迎えの船をまって残留していたが、シュムシュ島の北千島アイヌたちは、オンネコタン島とシャスコタン島に出稼ぎ中の者が帰島していないためまだ去就を決めかねていた。1878年には『条約付録』(1875年8月23日に東京で調印された、サハリン島および千島列島の、先住民の国籍選択に関する取り決め)で定められた国籍決定の期限が到来したため、同1878年8月に開拓使は八等属の井深基【いぶか・もとい 1870-? 福島出身】たち官吏とロシア語通訳を北千島へ派遣したが、シムシル島・ウルップ島のウナンガンたちはすでに退去し、シュムシュ島には26人の北千島アイヌが残留するのみで、ほかの者はカムチャツカへ移住したとのことであった。このとき食糧・火薬・鉛などが供給されたが、北千島アイヌたちはロシア正教伝道者の2年毎の巡回を懇願したという。
ロシア人が千島列島に初めて来島したのは1711年である。千島列島に居住するアイヌがロシア人の影響でロシア正教に改宗したのは1747年のことで、北千島列島に居住していた北千島アイヌ253人中56人が改宗したという。1875年10月2日にシュムシュ島を訪れた長谷部は、シュムシュ島民に千島列島が日本領になったことを説明した際、信仰の自由を認めている。また、シュムシュ島南西部にあるチポイネ部落から、北東330-430メートル先の丘腹にロシア正教の教会堂が1軒あったようである。こののち、北千島アイヌたちはシコタン島へ移住するが、1893年には移住した北千島アイヌのヤーコフ・ストロゾフによって「色丹島聖三者教会」が建立され(現存せず)、北千島アイヌたちはロシア正教(正教会《キリスト教の教派の一》に属するロシアの正教会。988年にキエフ国家《882頃-1240》《現在のウクライナのキエフを中心とする封建諸公国の連合体国家で、ウクライナ、ベラルーシ共和国、ロシア連邦3ヵ国の共通の祖国。正式国号は「ルーシ[Rus']の国教に指定されたことにはじまる)の信仰をつづけた。
日本領になった北千島列島は、北千島列島南端のパラムシル島でさえ北海道東端のノシャップ岬[現、北海道根室市納沙布岬]から約1,000キロメートル北東にあり、暴風や霧にはばまれ、当時の日本にとっては、まさに絶海の島々であった。北千島アイヌたちは近隣の島々へ海獣の狩猟にでかけ、カムチャツカ半島や密猟船を相手に交易をしながら生活していた。日本政府では、開拓使ついで根室県が1879年と1882年に官船を派遣して物資供給に努めたが、物資補給じたいが困難な作業であり、くわえて、北千島アイヌたちのカムチャツカ半島への往来を防ぐことはできなかった。開拓使も一時は、北千島列島の管理をアメリカのハッチソン・コール社[Hatchison, Kohl & Company]の請負いに委託することを考えていたが、当時この海域は外国密猟船の自由な活動の場になっていたため、請負い委託による北千島列島の管理は実現するはずもなかった。
1882年2月に開拓使が廃止され千島列島が根室県の管轄になると、1884年、日本政府は千島問題を検討するため、根室県令の湯地定基【ゆち・さだもと 1843-1928 鹿児島出身】、太政官参事院議官の安場保和【やすば・やすかず 1835-1899 熊本出身】、内務少輔の芳川顕正【よしかわ・あきまさ 1842-1920 徳島出身】、陸軍少輔の小沢武雄【おざわ・たけお 1844-1926 福岡出身】たち政府高官を北千島列島の実地検分のため派遣した。湯地たち政府高官は同1884年7月1日にシュムシュ島南西部のチポイネ部落に到着し、撫育品を陸揚げしたが、湯地はシュムシュ島の長老アレクサンドル・チェルニヒ【Aleksandr Tschernich】に家族とともに日本内地の見学を勧めたようである。日本内地の見学の話は、やがて島を挙げて南千島列島のシコタン島移住の話に一転し、急遽シコタン島への移住が実施されることになった。2日後の7月3日、根室県吏たちがシュムシュ島北西部のコタンニー部落へおもむいたとき、北千島アイヌたちはすでに移住の準備をすすめており、大切な橇用の犬を扼殺(首を手で絞めて殺すこと)していたという。ただし、ラショワ島から帰島していたグループの長老ヤーコフ・ストロゾフ(アイヌ名:コンカマ・クル)【Yakov Strozov(Konkama-kur) 1837-1903】とほかの2家族の戸主は、移住に同意しなかった。しかし、西徳二郎の巧みなロシア語による「反覆丁寧」な説得により、ようやく承服したという。ヤーコフたち以外の北千島アイヌとの折衝は、すべて函館県外事課のロシア語通訳である小島倉太郎【こじま・くらたろう 1860-1895 北海道出身】の通訳でなされた。ちなみに、「アレクサンドル」も「ヤーコフ」もロシア正教による洗礼名である。「ヤーコフ」のアイヌ名は「コンカマ・クル(Konkama-kur)」で、後部の「クル(-kur)」は「人。男」の意味で、日本風にいえば「阿波人」や「紀州人」などの「人」に相当する(「アレクサンドル」のアイヌ名は不明)。
このような突然の北千島アイヌ移住に驚いた芳川は部下を湯地のもとへ送り、北千島アイヌ移住の内命があったのかを質させたが、湯地は島民の移住のことはすでに開拓使時代にも「説論」したことがあり、新たに稟議をすれば島民の移住実施は3年後になると回答している。かくして、1884年当時シュムシュ島に居住していた北千島アイヌ97人(男性45/女性52[全体のうち15歳以下38])の全員が移住し、94人が3頭のウシとともに同1884年7月11日に当時は無人島だったシコタン島に到着し(3人[おそらく男性]はエトロプ島で下船)、シコタン島北西部のシャコタンに集住した(1875年10月の時点で合計72人の北千島アイヌがシュムシュ島・オンネコタン島・シャスコタン島で確認されたが、島々を移動していたグループとシュムシュ島に滞留していたグループのそれぞれで、1875年10月から1884年7月までの8年9ヵ月間に出生・死亡の人口異動があり、1884年7月の時点では97人。[移動グループ48人+移動中に出生27人-移動中に死亡6人]+[滞留グループ32人+滞留中に出生6人-滞留中に死亡10人]=移住者97人。『千島アイヌ』[1903年刊/鳥居竜蔵・著]pp.76-87より作成)。
こののち、1892年9月に海軍の郡司成忠【ぐんじ・しげただ 1860-1924 東京出身】が海軍大臣の西郷従道【さいごう・じゅうどう 1843-1902 鹿児島出身】にシュムシュ島の拓殖について意見書を提出し(許可されず)、1893年1月4日に海軍を退役して3月5日に「報効義会」を設立し、報効義会が北千島列島の開発に乗りだすまで、シュムシュ島は完全な無人島になっていた。
シコタン島に移住した千島アイヌたちは、ツイシカリに移住させられたサハリンアイヌよりも、さらに悲惨な途をたどった。北千島アイヌは強制されなかったものの、湯地による一種の詐欺的言辞にまどわされてシコタン島に移住し、北千島アイヌの場合も根室県ついで北海道庁が北千島アイヌのために計画したのは農業や牧畜、漁業による生活の自立であった。
1899年6月に東京帝国大学助手の鳥居竜蔵【とりい・りゅうぞう 1870-1953 徳島出身】によって行なわれた調査によれば、千島列島の比較的大形の島に、竪穴住居(地表を深さ50センチほど掘り下げ、その上方に屋根をかけた住居。床は直径3-10メートルほどの円形。縄文時代から奈良時代[前1万4000頃-784]の一般住居。東北地方では室町時代[1336-1573]でも利用されていたと考えられている[青森県三戸郡南部町の聖寿寺館迹から出土した掘立柱建物迹・竪穴建物迹・竪穴遺構の年代幅は15世紀前半から16世紀前半とされる])をともなうような定住集落、永住的な拠点集落が存在していた。そして小形の島には漁撈(水中から水産物[魚類・貝類・藻類・海獣類など、海洋・河川・湖沼などの産物]をとる)のための滞在地が存在した。北千島アイヌの生活では、冬季は漁撈のための滞在地ですごし、一時的な滞在地として利用する。永住的な居住地は、シュムシュ島・パラムシル島・ラショワ島などの比較的大形の島に設けられる。そして季節的な狩猟・漁撈活動は小形の島で行なわれる。
北千島アイヌは、オンネコタン島・シャスコタン島・ハリムコタン島・マツワ島・ウシシル島などの小形の島にでかけてゆき、そこで一時的な狩猟採集活動を行なう。1873年に第1陣の10人が、1876年に第2陣の38人がシュムシュ島をでて移動生活に入り、途中で合流したのち1883年にシュムシュ島へ帰島するまで10年間におよぶ移動生活を行なっている。このような長期間の移動生活についてゆくには体力的に厳しいと思われる老年者や幼年者は、大形の島の定住集落に残る。このように、北千島アイヌの生活は、活動の舞台と居住場所を季節的に変えるというよりは、数年にわたる移動生活を前提にした集落・居住形態が特徴的である。
このような生活形態・習慣をもつ北千島アイヌにとって、農業や牧畜、漁業による生活の自立は、困難をともなうものであっただろう。農業や牧畜、漁業による生活の自立という政策は、島から島へ移って海獣の狩猟で自活してきた北千島アイヌたちのこれまでの生活や習慣とはまったく異なるもので、根室県が建設した家屋も、北千島アイヌの竪穴住居とは似ても似つかぬものであった。日本人はここでも自然民族の習俗を理解せず、みずからの文明観を強要することにより北千島アイヌの生活の基礎を破壊したのである。
さらには、根室県や北海道庁により衛生改善の努力はなされたものの、北千島アイヌのあいだで病人(「壊血病[ビタミンC不足、すなわち新鮮な野菜や果物の摂取不足による疾病]」や「結核[結核菌による肺の感染症]」)が続出して、移住から5年後の1889年には移住した北千島アイヌのうち49人(男性22/女性27。移住者全体の50.52%)が死亡しており、1899年6月5日から6月29日にかけて鳥居がシコタン島で調査を行なったときには、さらに減少し、移住後15年で移住者97人中63人(男性33/女性30。移住者全体の64.95%)が死亡していた(死亡者数および出生数は、『千島アイヌ』pp.102-103の表による。1884年7月から1899年6月までの15年間で出生数は31人[男児16/女児15]で、死亡者数は先述のとおり。ただし、出生直後に死亡した13人[男児10/女児3]の新生児はふくんでいない。1899年6月の時点で、移住した北千島アイヌのシコタン島居住者数は62人。1899年の調査に同行した武蔵軍医長の鈴木次郎【すずき・じろう】の同1899年5月19日附の報告では、シャコタンに居住する北千島アイヌは62人[男性25/女性37]。ただし、エトロプ島で下船した3人の生死は不明)。
北千島アイヌも北千島列島への帰還を希望し、1896年8月に郡司がシコタン島に来島する数ヵ月前、北千島アイヌたちは根室郡長に「帰還の準備として数人のアイヌを派遣したい」と願い出ていた。根室郡長は自分だけでは判断できないとして「北千島アイヌ帰還問題を稟議して北海同庁長官の判断を仰ぐ」と回答していた。北千島アイヌ帰還問題は第9回帝国議会(1895年12月28日から1896年3月28日)でも取りあげられ、1896年1月26日に行なわれた衆議院予算委員会において「千島の土人救済費」が審議され、この予算審議のなかでシュムシュ島への北千島アイヌの帰還問題が議論されている。予算委員の平島松尾【ひらじま・まつお 1855-1939 福島出身】が「シコタン島のアイヌたちがシュムシュ島にもどることを希望している」と発言したのに対して、政府委員で元北海道庁長官(在職期間:1892年7月19日から1896年4月7日)の北垣国道【きたがき・くにみち 1836-1916 兵庫出身】は「それは自由に任せてございます。唯、今では通常占守に帰ると難儀するかも知れぬ」と回答している。シュムシュ島へのアイヌの帰還問題は、同1896年2月27日の貴族院予算委員会でも議論されている。西村亮吉【にしむら・りょうきち 1840-1917 高知出身】は「1884年に北千島列島から移住させられたアイヌたちを、シコタン島から帰還させないのか」と問い質した。答弁にたった政府委員の北垣は「今年から、アイヌたちの帰還については、かれらの自由に任せられている」と回答している。西村は、アイヌたちがシュムシュ島への帰還を望んでいると聞いていたため、このことについてさらに質問した。北垣は「アイヌたちが帰還を望んでいることは知らないが、これまでアイヌが帰還を願い出たことはない」と回答。西村が「アイヌたちが帰還についての手続きを知らないため、願い出ないではないか」と質問すると、北垣は「アイヌは帰還の手続きを知っており、さらに戸長役場もあるため願い出ることは容易なことである」と説明したうえで、シコタン島における生活はとても楽なので「こちらから想像しても、今、占守に帰りたいと思ふ者もあるまいと思ふ位であります」と、みずからの見解を示した。シコタン島に移住させられた北千島アイヌたちの主張は、北垣には理解されなかったようだが、少なくとも、シュムシュ島へのアイヌ帰還問題について帝国議会の答弁にあたった政府委員の北垣は、北千島アイヌのシュムシュ島への帰還については容認していたのである。
こののち、ようやく1897年5月に千島列島巡回警備ため函館港を出港した軍艦「武蔵」に便乗するかたちで、シコタン島に移住した北千島アイヌのうち10人の北千島列島(パラムシル島)への帰還が実現した(5月30日にシコタン島に軍艦「武蔵」が到着。北千島アイヌ10人を便乗させ5月31日にシコタン島を出港し、6月9日にパラムシル島南岸のカハリで北千島アイヌ10人をおろす)。ただし1897年6月の帰還は、「本年(1897年)は試験の為め出稼せしものなれば、明年(1898年)は一先づ引揚ぐる」というもので、あくまで帰還した10人の北千島アイヌたちの猟業の成績によって、1884年に移住した北千島アイヌ全員をシコタン島から北千島列島に帰還させるか否かを決定するための試験的な帰還であった。
報効義会を退会して同1897年9月に根室にもどった小野亀次郎【おの・かめじろう】の報告によれば、6月にやってきた北千島アイヌたちは、3頭のクマ、60頭のアザラシとアシカ、ならびにベニマス(ベニザケの別称)でも収穫をあげていた。シュムシュ島に居住していた報効義会員が食糧不足になると食糧を貸与するなど、援助もしていた。北千島アイヌたちは北千島列島において充分生活してゆけることを証明したのである。
こうして、試験的な北千島アイヌの帰還が結果をみたため、本格的な帰還事業が展開されたが、密猟船による猟業や日本人の千島進出による猟業により、北千島列島周辺海域における毛皮獣が涸渇(尽きてなくなること。「枯渇」は草木がかれること)したことで猟業による生活が困難になると、帰還事業が歳出超過になったこともあり、1909年に帰還事業は中止された。
この間、シコタン島に移住させられた北千島アイヌの保護政策として「土人撫恤金」が支給されていたが、1899年の支給年限が迫ると、郡司によってパラムシル島への帰還が計画された。郡司は、シコタン島の戸長がアイヌたちを虐待していることや、戸長が、千島列島の漁場の状況、海流の方向、天候の変化、航海の難易さえ知らないため、アイヌたちは「尊敬する価値なき者」と考え、戸長を嫌悪していること、さらには、本来、猟業で生計をたてている北千島アイヌをパラムシル島に帰還させ猟業に従事させれば、自活可能であると認識していた。
ただし帰還計画に際して、北千島アイヌのロシア正教への信仰が厚いために、パラムシル島に帰還したのち、ロシア人宣教師に影響されてロシア領へ移住する可能性を危惧したようである。実際、1885年と1895年にはロシア正教の日本人宣教師がシコタン島を巡回して布教し、1898年8月にはロシア正教の主教であるニコライ(イヴァン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)【Nikolaii(Ivan Dmitrievich Kasatkin) 1836-1912】がシコタン島へ来島し、運んできた物品をアイヌたちに与えるとともに信徒の家を訪問している。このため郡司は、真言宗真宗大谷派の東本願寺に相談して、奥村円心【おくむら・えんしん 1843-1913 佐賀出身】がシコタン島の北千島アイヌの仏教への改宗を担当することになり、1899年5月から1901年5月にかけてシコタン島へ赴任して改宗作業に従事した。このとき奥村は、「文明の世態」を視察させて北千島アイヌを感化しようと計画し、1899年11月には、アイヌ酋長代理に位置づけられていたアウェルキ・プレチン(アイヌ名:ラスタマカ)【Averuki Puletin(Rasutamaka) 1865-1919】とエフィチ・プレチン(アイヌ名:エクルクネヒ)【Efiti Puletin(Ekurukunehi) 1873-?】という北千島アイヌをともないシコタン島を出港、京都や東京を視察している(京都には真言宗真宗大谷派の本山である「東本願寺」が、東京にはギリシア正教の日本国内の本山である「東京復活大聖堂」がある)。この視察では、12月8日に北海道協会会頭の近衛篤麿【このえ・あつまろ 1863-1904 京都出身】、北海道協会会員の谷干城【たに・たてき 1837-1911 高知出身】、元北海道庁長官の北垣、現北海道庁長官の園田実徳【そのだ・さねのり 1849-1917 鹿児島出身】、内務参事官の白仁武【しらに・たけし 1863-1941 福岡出身】、報効義会の郡司と、奥村・アウェルキ・エフィチが会談している。この会談で北千島アイヌたちは、シコタン島に見込みはなく、パラムシル島に行くことを訴えた。「シコタン島に移住させられたアイヌがパラムシル島に帰還することを望んでいない」と聞いていた園田は、北千島アイヌたちから直訴されたことで「大に其熟考すべき価ある」と認識したようである。また、アウエリヤンとエヒムカは、それまで聞知していた東京にあるギリシア正教(ロシア正教ではない)の「聖堂」(おそらく、現、東京都千代田区神田駿河台4丁目1番3号の東京復活大聖堂。通称「ニコライ堂」[1891年2月に完成。実設計は、ジョーゼフ・ジョサイア・コンダー【Joseph Josiah Conder 1852-1920】])を訪れている。奥村たちは12月10日には東京を離れ、12月26日にシコタン島に帰着した。
奥村は、ロシア正教の影響下から離すために、北千島アイヌたちを都会へつれていったが、北千島アイヌたちは、しばしばギリシア正教の「聖堂」を訪問するなど、期待した効果は得られなかったようである。
シコタン島でも農業や牧畜、漁業のほか、教育や生活に厚い保護が与えられたがみるべき成果はなく、1933年10月の時点でシコタン島に移住した北千島アイヌの人口は44人(男性12/女性32)になり、北千島アイヌの部族としての消滅さえ懸念されていた。こののち、第2次世界大戦(1939年9月1日から1945年9月2日)の勃発により、戦争末期にソヴィエト連邦[現、ロシア連邦]の軍隊が千島列島に侵攻すると、千島列島の住民は北海道本島へ避難し、千島アイヌは散り散りになった。シコタン島出身で、移住した北千島アイヌの最後の子孫と考えられる田中キヌ(アイヌ名:ネソチウ・マト)【たなか・きぬ(Nesociu-mat) 1894-1972 色丹出身】という女性が1972年1月に死亡した(享年78歳)ことにより、北千島アイヌ文化の継承者は皆無になったと考えられている。