私をふった初恋の男を婚約破棄してざまぁしたら溺愛が始まりました
その日、私の婚約式は文字どおり“完璧”に始まった――少なくとも、式の前までは。
白薔薇が咲き誇る城の中庭で、私は王女としてふさわしい格好で椅子に腰掛けていた。深紅のドレスの裾には金糸の刺繍が揺れ、髪には王家の紋章を模したティアラ。もう逃げ場など、どこにもないというのに、誰よりも涼しい顔をしていたと思う。
でも実のところ、逃げ出す準備は万全だったのだ。
「ミレーユ様、お茶を」
控えていた侍女のクロエが小声で囁き、銀の盆を差し出した。カップの中には、ただのお茶ではない。十秒で軽いめまい、三十秒で吐き気、五分以内に完璧な“仮病”が仕上がる名薬が溶けている。
私はそっと微笑んでから、そっと目を伏せ、カップを持ち上げた。
だが、その瞬間だった。
視線の先に見慣れた顔が、いや、見慣れすぎた顔が見えた。
あれ?と私の脳が疑問を呈するのと、心臓がばくんと跳ねるのは同時だった。
だって彼は、私の婚約者じゃない。……はずだった。
「……なんであなたがここに?」
思わず声が漏れる。彼は私にとって“最悪の相手”だった。心臓が焼け焦げそうになるほどに、過去を引きずっている相手。ルシアン・フォン・ヴァルド。私の元・護衛騎士。そして、かつて私に「お前のことなど、これっぽっちも興味がない」と笑って言い放った男。
その男が、花婿の衣装を着て、まるで当然のような顔をして私の前に現れたのだ。
「聞いてないわよ、こんなの」
私の声は震えていたと思う。クロエが顔を青ざめさせていた。可哀想に、きっと彼女も寝耳に水だったに違いない。
「申し訳ありません、ミレーユ様。急な命令でして……」
「“急”ってどういう……」
「新郎側の変更が、先ほど王命で通達されました」
クロエの言葉は穏やかだったけれど、私には雷が落ちたみたいに聞こえた。
王命、ですって?
……父上、やってくれましたね。
婚約者だった公爵家の嫡男が国外追放されたと風の噂に聞いたけれど、それでも「よりによって、ルシアン!?」というツッコミは止まらない。正直、世界の終わりすら視野に入るレベルの事件だった。
逃げるしかない。
私はそっと目でクロエに合図を送った。彼女もこくんと頷いた。その時だ。
「姫君、婚約の誓いを結びに参りました」
ルシアンが人前にも関わらず、すっと私の手を取った。大庭園の花々の中で、私のドレスと彼の黒衣がやけに映えて、招待客たちはうっとりとため息を漏らしていた。
お願いだから、現実を見て。
彼は私にとって、初恋の終わりそのものだった。幼い頃、私はこの男に恋をして、玉砕して、王女としての自尊心を粉々に砕かれて、なんとか立ち直ったというのに。
「……ふざけないで、ルシアン」
「ふざけてなんかいないさ、姫君。真剣に君を迎えに来たんだ」
「あなたにそんな資格はないわ」
「なら、取り戻すまでだ」
彼のその瞳は、数年前よりもずっと真っ直ぐで、嘘偽りのない色をしていた。
だけど、騙されるものですか。
私はきっぱりと手を振りほどいた。
「私、この婚約、断ります」
式場にどよめきが走る。招待客たちはぽかんとした顔で私を見ていた。
それもそのはず。婚約式の主役が、自分で破棄を宣言したのだから。
「ミレーユ様、さすがにそれは……」
クロエが必死で止めようとするが、私は構わず続けた。
「私は結婚しないわ。たとえ相手があなただろうと、誰だろうと」
そのとき、ルシアンが不意に笑った。昔と同じ、でも少しだけ違う微笑み。
「なら、三ヶ月だけ猶予をくれ」
「は?」
「三ヶ月の間、俺は君の“婚約者”として傍にいよう。正式な婚姻は保留。それで構わない。……その間に、君の心を取り戻す」
何を言ってるのこの人。
私は口を開きかけたけれど、気づいてしまった。周囲の目が、「それでいいのでは」という顔をしている。王命とあらば、私がここで駄々をこねても無意味。婚約を白紙に戻すには、それなりの大義名分が要る。
三ヶ月で彼が“私の心を取り戻せなかった”という証明ができれば――私の勝ちだ。
「いいでしょう。やってみなさいな」
私は微笑んだ。貴族の微笑みを忘れずに。
「三ヶ月後、私の気が変わっていなければ、この婚約は破棄。異論はないわね?」
「もちろん」
ルシアンが頷く。その瞬間、観客席からぱちぱちと拍手が起こった。どうやら、劇的な愛の駆け引きに見えたらしい。
はあ、頭が痛い。
でも、悪くない条件だ。私は彼に、かつて言われたのと同じ言葉を返してやるだけ。お前のことなど、これっぽっちも興味がないと。
それだけの話だ。
そう――思っていた。
式が終わり、城の廊下を戻る途中、ふとルシアンが口を開いた。
「さっきの言葉、嘘じゃないからな」
「どの言葉?」
「君を迎えに来た、ってやつだ」
「……どうして?」
「後悔してるから」
「ふうん。何に?」
「君のこと、ちゃんと好きだったのに、気づくのが遅すぎた」
私は歩みを止めた。彼も同じように立ち止まり、まっすぐ私を見つめた。
「初めて君に恋したのは、君が兄上に花を投げつけた時だった」
「……あれ、覚えてたの?」
「あれは衝撃だった。貴族の娘が、花瓶ごとぶつけるなんて、なかなか見られない」
「褒めてるの?それ」
「最高に魅力的だった」
私は言葉を失った。顔が熱くなるのを感じた。悔しい。全然関係ないのに、ドキドキするなんて。
――だめよ、ミレーユ。
復讐ではない。見返しでもない。
私はもう恋などしないと決めたのだ。
それなのに、あの頃の私が胸の奥で小さく笑っている気がした。
ああ、まったく。
この三ヶ月、穏やかには終わらなさそうだった。
あれから一週間。私は“仮の婚約者”となったルシアンと、同じ屋敷に住む羽目になった。
いや、別にそれは仕方がない。婚約中の貴族同士が交流を深めるのはよくある話だし、王命だってあるし、そしてなにより――逃げ場がなかった。
問題は、今この瞬間だ。
「……ルシアン? ちょっと、なにしてるの?」
「寝ようとしてる」
「うちのベッドで?」
「うん」
「私の寝室で?」
「うん」
「あなた、正気?」
「すこぶる」
私は思わずベッドサイドのクッションをつかみ、それを彼の顔めがけて投げた。ルシアンはひらりとそれを避けて、くつろいだまま枕を抱えている。いつの間にかパジャマまで用意されているのが恐ろしい。
「なによ、これは! どこの誰がこんな不謹慎な準備をっ……」
「君のお付きのクロエ嬢が用意してくれたよ。『婚約者ならこれくらい自然です』って笑顔で」
「クロエ……」
あの女、私を裏切ったのね。今朝も紅茶にやたらと蜂蜜を入れてたし、きっと“甘い時間”を期待してたのよ、あの顔は。
「落ち着けよ、別に手を出すとか言ってない。ちゃんと境界線も引くから」
「なら、向こうの客間に行きなさいよ!」
「だって、そっちのベッドは硬い」
「私の神経の方が今、砕けそうよ!」
声を荒げていた私を、ルシアンは不意にまっすぐ見つめた。いつもの軽口とは違う、真剣な目。
「……なに?」
「怖いのか?」
「は?」
「俺と同じ空間にいるのが。昔、あんなこと言われたから、また裏切られるんじゃないかって」
私は言葉を失った。
確かに、怖かったのかもしれない。ルシアンは、私の初恋の人。優しくて、でも突然私を突き放した、最初で最後の拒絶の記憶。
あれは本当に痛かった。誇り高き王女のプライドを砕かれたというより、それ以上に、ただの一人の少女としての心が、がらがらと音を立てて崩れた。
でも今、このルシアンは、昔とはどこか違う。
それが逆に、腹立たしい。
「……寝たいなら勝手にすれば? でも境界線に手でも触れたら、すぐ叩き起こすから」
「了解。枕三つ分の距離ね」
そう言って、ルシアンはひょいと布団を被った。
私はため息をつきながら、部屋の明かりを消した。
暗闇の中で、静かな呼吸が二つ。
思えば、こうして同じ空間で眠るなんて、初めてだ。
しばらくして、ふと声が聞こえた。
「……ミレーユ。あのとき、ほんとにごめんな」
眠りかけていた私は、はっと目を開いた。
「……なんの話?」
「昔、君に酷いことを言った。『興味がない』なんて、あれは……嘘だった」
「知ってる」
「……え?」
「嘘だって、あの顔で言われたらわかるわよ。騎士のくせに、顔に全部出てるんだから」
私はくすりと笑った。少しだけ、心の中が軽くなった気がした。
「でもね、許したわけじゃないのよ。あなたの言葉一つで、どれだけ泣いたと思ってるの」
「……一生かけて償うよ」
「うそばっかり」
「ほんとさ」
しばらく沈黙が続いた。心地よい静けさだった。
私はそっと目を閉じた。
「おやすみ、ルシアン」
「おやすみ、ミレーユ」
その夜は、不思議なほどぐっすり眠れた。
翌朝――
私は、ルシアンの肩を蹴飛ばして叩き起こした。
「なにこの距離!? 約束は枕三つ分でしょ!!」
「……寝相だ」
「嘘つけっ!!」
婚約者との同棲生活は、波乱に満ちていた。
◆
それからというもの、ルシアンはあらゆる手段で私を攻略しにきた。
朝の挨拶から手作りの朝食(なんであなたが厨房に!?)、お昼の散歩では手を繋ごうとするし、夜の読書時間には隣にそっと座って本を読んでくる。距離感、どうした。
そして極めつけは、あの日。
大広間の舞踏会。春の夜会で、私は当然のように社交の中心にいた。なのに、ルシアンはそこでも“婚約者としての務め”を果たそうとしてきた。
「姫君、ひと踊り付き合ってもらえますか」
満面の笑みで手を差し伸べられた私は、反射的にその手を取ってしまった。
そして、優雅な旋律の中で、彼の手が私の腰にまわった瞬間。
心臓が止まるかと思った。
「……慣れてきたか?」
「な、なによ。なにが?」
「この距離」
「……慣れるもんですか。心臓に悪いわよ」
「なら、もっと慣れてもらうしかないな」
調子に乗るな、この男。
でも――あの時のルシアンの目は、あの頃のようにまっすぐで、私のことだけを見ていた。
少しだけ、嬉しかった。
踊りが終わる頃には、私はずっと下を向いていた。頬が熱くて、顔を見られたら負けると思ったから。
でも、それを“可愛い”と思ってる顔が視界の隅に見えて、もう本当に、床に沈みたかった。
――ああ、もう。
この男との三ヶ月、絶対に平穏無事では終わらない。
ルシアンと一緒に暮らすようになってから、毎日がやけに騒がしい。
朝食を一緒に取るのも慣れたし、ドレスのリボンを結ぶのを手伝ってくれることにも、もう驚かなくなった。でも、だからって好きになったわけじゃない。
……と思っていた。昨日までは。
今日、私は城の書庫でひどく動揺していた。なぜなら――
「姫君、好きだ」
などと、ルシアンが平然と口にしたからである。
「な、ななな、なに言ってるのよ! ここ図書室よ!? しーっ、静かにっ!」
私は慌てて口を押さえたけれど、もう遅い。近くの本棚から、司書長の「ごほん!」という重低音の咳払いが響いた。ひぃぃ……また怒られる。
「……だからって、そんな大事なことを図書室で言う!? もうちょっと……場所ってものを考えてよね」
「いや、君が本を読んでる横顔があまりに可愛くて、つい……」
「バカ!」
私は自分の頬が赤くなっていくのを止められなかった。
まったくこの男は、朝から晩までどれだけ“好き”を押し売りしてくるつもりなのよ。婚約式の日から、彼は毎日私に告白してくる。言葉の形を変えて、場所を変えて、時には花束、時にはお菓子、そして今日はまさかの図書室。もう呆れるしかない。
「君はどうなんだ?」
「……え?」
「俺のこと、どう思ってる?」
ルシアンの瞳は、ふざけた色を一滴も含まず、真っ直ぐに私を見ていた。ずるい。この目はずるすぎる。
「そ、そんなの……まだ、分からないわよ」
「“まだ”か。つまり、可能性はあるな」
「だから! そういう言い方やめてってば!」
またも本棚の奥から「静粛に!」と怒鳴られ、私たちはそそくさと図書室を後にした。
◆
夕暮れ時の中庭。私は一人でベンチに腰掛けていた。
さっきのルシアンの言葉が頭から離れない。
――俺のこと、どう思ってる?
何度も自問してみた。でも分からない。あれほど傷ついたくせに、今こうしてまた彼のことで心が揺れる自分が許せない。
「やっぱり、私は恋なんてするべきじゃなかったのかもしれないなあ……」
ぽつりと呟いたその時だった。
「……俺が、してもいいと思わせてみせる」
「うわっ!?」
唐突に背後から聞こえた声に、私はベンチから転げ落ちそうになった。振り返ると、そこにはやっぱりルシアン。立っていた。しかも、完璧なタイミングで。
「ちょっと! いつからそこにいたのよ!」
「“私は恋なんてするべきじゃなかった”のあたりから」
「全部じゃないの、それ!」
「だって君のことが心配だったんだ」
まったくもう、どこまでも調子がいい。
「……そういうの、慣れてるんでしょ。貴族の娘たちに言い寄られて」
「ん? 誰の話?」
「……っ、知らないっ!」
私は立ち上がり、早足で中庭を離れようとした。
でも、その腕を、ルシアンがそっと掴んだ。
「俺は他の誰でもなく、君がいい」
「……嘘でも、嬉しいって思ってしまうから、やめてって言ってるのよ」
「嘘じゃない。……君が忘れようとしてるあの過去の俺に、腹が立つほど悔やんでる」
ルシアンの手が、少しだけ震えていた。
「今さら何を言ったって、あの時の私は戻らないわよ」
「それでもいい。今の君を、もう一度好きになった。……だから、今の俺で君に好かれたい」
夕暮れが、彼の横顔を金色に染めていた。
言葉が、出なかった。心臓が、どくんと鳴った。
こんなに真っ直ぐぶつかってくるなんて、反則だ。
「……ルシアン」
「うん」
「……一つだけ、教えて。あの時、どうして“興味がない”なんて言ったの?」
沈黙が落ちた。しばらくして、ルシアンがぽつりと呟いた。
「……君に恋してると知られたら、護衛としての任を外されるかもしれないって、怖かったんだ」
「なにそれ」
「子どもだったんだよ。俺も」
私は、なんとも言えない気持ちで彼を見上げた。怒りとも、悲しみとも違う。どこか、懐かしくて、ちょっと切ない気持ち。
そしてその中に、少しだけ、甘さが混じっていた。
「……馬鹿ね」
「うん。馬鹿だ」
「でも、その馬鹿が、ちょっとだけ……かっこよくなってるのが腹立つのよ」
私がそう言うと、ルシアンは照れたように笑った。
「……じゃあ、そろそろ認めてくれそうか?」
「何を?」
「“恋をしないって決めた王女が、恋に落ちる日が来るかもしれない”ってこと」
私は小さく笑った。
「……その日が来るかどうかは、まだ分からない。でも、今なら……嫌じゃないって思えるわ」
ルシアンの目が、ぱっと明るくなった。
ああ、もう。
だからそういう顔、ずるいって言ってるのに。
――私の恋は、たぶん、もう始まっているのかもしれない。
人生で二度、心を奪われた男がいて、どちらも同じ顔だったなんて、これを運命と呼んだらきっと誰かに笑われるだろう。
ルシアンと共に暮らし始めてから二ヶ月が経った。
三ヶ月の婚約猶予期間も、残すところあと一月。
最初は嫌々だった共同生活も、今ではそこまで苦ではなくなっていた。むしろ、妙に心地いい瞬間すらあるのが厄介だった。
たとえば、今。
「……うわ、なんでこんなに泥だらけなのよ!」
「庭の噴水、壊れてたから直してた」
「騎士が工具を振り回すってどうなのよ!?」
「“婚約者の役に立ちたくてやりました”って言ったら、許す?」
「許すわけないでしょ!」
それでも、彼が泥だらけの顔で笑うと、許してしまいたくなるのが腹立たしい。
ルシアンは変わった。昔のような無愛想なところもあるけれど、今は、ちゃんと私を見て、言葉をかけてくる。
そして、笑う。まるで、昔できなかった時間を取り戻すように。
……そう、それはまるで、恋人みたいに。
だけど。
「ミレーユ様、手紙です。王都から」
「ありがとう、クロエ」
私は受け取った封書を見て、思わず息を飲んだ。
それは、元婚約者――公爵家の元嫡男、ロランからのものだった。
彼は国外追放されたはず……でもこの筆跡は、間違いなく彼。
中身は短く、こう記されていた。
《貴女の新しい婚約者について、少し話したいことがあります。今宵、噴水裏で》
私はその夜、そっと城を抜け出した。危ない橋だと分かっていても、過去に幕を引くために、彼の話を聞かねばならない気がした。
◆
噴水の裏手には、ロランがいた。黒いマントを羽織り、以前よりも痩せたように見える。
「……お久しぶりです、ミレーユ殿下」
「名を呼ぶのも久しぶりね、ロラン」
「ずいぶん変わられました。……笑うようになったのですね、あなたが」
「貴方が去って、やっと呼吸ができるようになったからよ」
私は冷たく言い放った。優しさを見せる必要はない。彼は裏でいくつもの疑惑を抱えたまま、失脚して消えた。私との婚約も、国の体面を保つために処理された“事故”だった。
「……貴女の新しい婚約者について、知っておくべきことがあります」
「何を今さら。ルシアンは私に誠実に接してるわ」
「その“誠実”が、演技だったとしたら?」
ロランの声は低く、私の心をざらつかせた。
「ルシアン・フォン・ヴァルドには、秘密があります。彼の父親は、ヴァルド家ではない」
「……どういう意味?」
「彼は、かつて存在した“反王家派閥”の末裔です。君主制に反対し、謀反を企てた一族の生き残り。隠された血筋を持ち、ヴァルド家が引き取った――それが真実です」
「嘘よ」
「証拠ならある。こちらに」
彼は懐から一通の文書を差し出した。古びた印章と署名が並ぶその紙には、確かにルシアンの出生について書かれていた。
私は目を閉じた。
信じたかった。彼が“何も隠していない”と。
でも、あのまっすぐな目は、何かを隠しているようにも見えた。
「……ありがとう。確認させてもらうわ」
私は文書を受け取り、踵を返した。
「ミレーユ殿下。彼を信じるかどうかは、あなた次第です」
「……私は、自分の目で確かめるわ。もう、誰かの言葉だけで判断するような私じゃないから」
◆
夜更け、私はルシアンの部屋を訪ねた。
彼は窓辺で星を眺めていた。
「……ミレーユ?」
「話があるの」
「……ああ。そうだろうな」
彼は、察していたらしい。私の手にある文書を見て、すぐに目を伏せた。
「聞かせて。あなたは誰なの?」
私の声は震えていた。でも逃げなかった。
彼も逃げなかった。
「……その文書に書かれていることは、本当だ。俺はヴァルド家の血を引いていない。反王家の貴族の落胤だった」
私は静かに唇を噛んだ。
「でも、今の俺を形作っているのは、ヴァルド家で育った記憶と、君への想いだけだ」
「それを……なぜ黙っていたの?」
「君に嫌われると思った。信じてもらえないと思った。……あの頃の俺と同じで、また怖くなったんだ」
私は涙がこぼれそうになるのを堪えた。
「……馬鹿。ずっと馬鹿」
「……うん。君にだけは、そう言われたい」
私たちは沈黙の中で向き合った。
キスはなかった。
でも、私は一歩、彼に近づいた。
「今の私は、知ろうとすることができる。……信じたいと思える。あなたのすべてを、私自身の目で確かめていくわ」
「……ありがとう、ミレーユ」
「ただし、もう一つ隠し事があったら、絶対に叩きのめすから覚悟しなさい」
「はい、姫君」
彼の笑顔が、星の光よりずっと優しく見えた。
私たちはまだ、始まったばかり。
これは、恋のようで、まだ恋じゃない。
だけど、キスよりも先に、信じる気持ちを差し出す――
それが、私の選んだ恋のかたちだった。
夜明け前の空は、深い藍色からわずかに紅をにじませ、静かに息をしているようだった。
そして私は、王宮の執務室で、王としての父の前に立っていた。
「……ルシアンとの婚約を、破棄します」
それは、一つの終わりを意味する言葉だった。
父は深く目を伏せ、そして静かに問い返した。
「理由を聞かせてもらおうか、ミレーユ」
「彼は、私を愛しています。でも……王女としての私ではなく、“ただの私”を」
「……ほう?」
「彼の過去も、血筋も、私はすべて知っています。彼が抱えてきた秘密も、嘘も。でも、私にとって一番大切だったのは、彼がそのすべてを隠しきれなかったことです」
「つまり、正直だったと?」
「はい。……彼は、誰よりも臆病だった。私の前でだけ」
父は眉間に深いしわを刻み、しばらく無言で書類に目を通していた。そして、ため息をひとつ落としてから、こう言った。
「そなたの言葉に偽りがないのならば、婚約の破棄を受理しよう」
私は深く頭を下げた。
ルシアンの名を王家の記録から外すこと、それは国にとっては小さな変更に過ぎない。だが、私にとっては――とても大きな選択だった。
◆
婚約の破棄は、静かに、しかし確かに国中に広まった。
王女が「自ら望んで」破棄を申し出たという内容に、誰もが驚いた。中には「やはり反王家の血が影響したのだ」と囁く者もいたし、「王女が冷酷だ」と陰口を叩く者もいた。
でも、私は平気だった。
だって、これは――“二人のため”に、私が選んだことだから。
◆
そして、当のルシアン本人はというと。
「……まあ、想定内だな」
「は?」
「俺が君を好きなあまり、バカなこと言いそうだなーって思ってたら、ほんとに言いやがった」
「あなたねぇ……!」
私は両手で顔を覆った。そう、これは彼に黙って進めたことだった。
最後の最後まで、私のわがままで終わらせたくて。
「でも、ありがとう。ミレーユ」
彼の声は、いつになく静かで、そして優しかった。
「君のために生きたい。……貴族としてじゃなく、一人の男として」
「うん。でも、私は王女よ。まだしばらく、国のために役目を果たさなきゃいけないの」
「待ってるよ、どれだけでも」
私はそっと彼の手を取った。
「私の心は、あなたに預ける。でも、結婚は――私の意志で決めさせて」
「約束する。……君がもう一度、“はい”と言ってくれるその日まで、俺は君を愛し続ける」
◆
あれから数日が経ち、私とルシアンは、それぞれの立場に戻った。
私は王宮に残り、外交と儀礼の任務に就いた。
ルシアンは新しく設立された騎士団の長となり、国境付近の町で平和維持のための活動に身を投じた。
遠く離れても、私たちは手紙を交わした。
毎週、決まった曜日に、必ず一通。
彼の文字は相変わらず不器用で、でも真っ直ぐで。
《今日、隣町の子供たちに“姫様の話”をしてたら、皆が君を見てみたいって》
《ミレーユ、花が咲いたよ。君が好きだったやつ。名前は、なんだっけ》
《会いたい》
そんな三文字が書かれた便箋を開いた夜、私は思わず泣いた。
恋はいつも、こんなふうに、痛くて、でもあたたかい。
◆
春が来て、国中が祝祭に沸く中、私はついに決意した。
もう一度、あの人に会いに行こう。
自分の足で、迷わずに。
◆
町に着いた私は、ルシアンのもとへと歩いていった。
騎士団の兵舎の裏庭で、彼は子どもたちと剣ごっこをしていた。泥だらけで、笑っていた。
「……なんで、いつも泥だらけなの?」
「おいおい、姫君が突然来るとは聞いてなかったぞ」
私はそのまま歩き寄り、彼の目の前で止まった。
「私、やっぱり結婚したい」
「……それって、プロポーズか?」
「違うわ。ただの再交渉よ」
「嬉しいな」
彼は泥のついた手のまま、私の手を取った。
「結婚しよう、ミレーユ」
「ええ、ルシアン」
今度こそ、誰にも邪魔されない私たちだけの恋を、ここから始めましょう。
私はいま、小さな田舎町の一角にある屋敷のバルコニーに立っている。
目の前に広がるのは、春の陽射しを受けて一面に咲き誇る白い花畑。柔らかい風が頬を撫で、花の香りを運んでくる。
静かで、穏やかで、そして愛おしい――そんな朝。
王女として育ち、王女として恋をし、王女として戦った私が、ただ「ミレーユ」として生きるようになってから、ちょうど一年が経った。
「ミレーユー、朝ごはんできたぞー!」
「声が大きいのよ、ルシアン! 隣の猫まで飛び起きてたじゃない!」
叫ぶような声に、私はため息をつきながら階段を降りる。食堂に入ると、エプロン姿のルシアンが、今まさに焦げかけたパンをお皿に乗せたところだった。
「焦がしたわね」
「香ばしいって言ってほしい」
「いくら私でも、これを“愛の味”とは呼べないわよ」
そう言いながらも、私は彼の隣に腰を下ろし、パンにバターを塗った。
ルシアンは、私の向かいでマグカップを手に持ちながら、じっと見つめてくる。
「……なによ」
「いや、つくづく変わったなあと思って」
「私が?」
「うん。初めて出会った時、王宮の回廊で君が迷子になって泣いてたこと、今でも覚えてる」
「それを今持ち出す!? しかも十年以上前の話よ!?」
「泣きながら、“誰か!バカな騎士でもいいから助けてー!”って叫んでた」
「……あんたがその“バカな騎士”だったくせに」
「そう。だから、助けるしかなかった」
私は思わず笑ってしまった。懐かしくて、恥ずかしくて、でもそれ以上に胸が温かい。
王女として過ごした時間は、確かに苦しいことも多かったけれど、それでも幸せだった。あの時代がなければ、今ここにこうして、ルシアンと笑っている私はいなかった。
そして今なら、言える。
私の人生で、一番良かった決断は、あなたを選んだことだった。
◆
その日、町では小さな春祭りが開かれていた。
私は簡素なワンピースを着て、ルシアンと手を繋ぎながら歩いていた。王宮では決してできなかったこと。
「ねえ、ルシアン」
「ん?」
「このままずっと一緒にいたら、きっといつか、あの時の気持ちすら忘れちゃうのかな」
「忘れなくていい」
「でも、覚えていたら、また痛くなっちゃうよ」
「なら、こうしよう」
ルシアンは立ち止まると、私の手をそっと持ち直して、まっすぐに言った。
「一緒に覚えていよう。幸せになった今も、君が泣いたあの夜も。すべて俺たちの大事な物語だ」
「……ほんと、うまいこと言うようになったわね」
「君がそういうの、好きだって知ってるから」
私はそのまま、彼の胸に額を押し当てた。
誰かの決めた未来じゃなくて、自分で選んだ未来のぬくもり。
そして、ふと気づく。
「ルシアン。ねえ、気づいてた?」
「なにを?」
「私たち……まだ、ちゃんとキスしてないわよね」
「……今さら?」
「だって、いつも邪魔が入るじゃない。クロエだったり、猫だったり、祭りの子供だったり」
「確かに」
私はくすくすと笑いながら、目を閉じた。
「今日なら、大丈夫かも」
「うん。……今日こそは」
ルシアンの手がそっと私の頬に触れ、そして、その距離が縮まって――
ついに、唇が重なった。
まるで花びらが触れ合うような、優しくて、あたたかいキス。
その瞬間、何かがほどけたように感じた。長く凍えていた心が、春の陽に溶かされるように。
私たちの物語は、ようやく本当に、始まったのだと思った。
◆
夜。庭でふたり、椅子に並んで空を見上げていた。
星が降るように輝いている。
「ミレーユ」
「なに?」
「俺、君のことを、絶対に忘れないよ。どれだけ年を取っても」
「……当たり前よ。私が毎日、忘れさせないから」
「……言ったな」
「うん、言ったわ」
私はそっと手を重ねた。
たとえ世界が変わっても、この手を握るあなたのぬくもりだけは、永遠に覚えていたい。
あなたのことを、ずっと忘れない。
それが、私の誓い。