睡と永尾景之
神域よりも、橋のこちら側の方が人が多く賑やかだ。
しかし、神宮内の入口には、衛士が立ち、それなりの身なりでないと立ち入りを許さない為、治安が良い。
大名の逗留する屋敷、出店、行商人、大道芸人など見所が満載で街道は活気にあふれている。
建物自体は色彩に乏しい木造だが、店の暖簾や、行商人が背負う旗が、色とりどりで鮮やかだ。
「巫女様だ!!」
「ありがたや、ありがたや」
時折、巫女や神獣が現れると、人々は歓喜し、涙を流す者も少なくない。
「睡さま、あちらに」
連れ添うように歩いていたお艶が、一歩前に出て、人並みのを指し示した。
大勢の中でも、ひと際、存在感がある――永尾景之だった。
後ろには、側近の男が付き従っている。
景之は、立派な体格をし、動きに品があるため遠目でもよく分かった。
そして見目もよく、覇気があり、睡に負けず劣らず衆目を集めていた。
「あっ……」
向こうも睡に気が付いた。
目が合うと、景之は微笑み、睡は首をぶんっと横に向けた。
「……睡さま」
お艶が呆れたような目をしている。
「あの人、こ、こっち来そう?」
「はい、的を定めたように、まっすぐ此方に向かって歩いて来ます」
睡は、にわかに腕を、さわさわ動かしたのち、姿勢を正し、景之を見ないように逆側に歩き始めた。
「んって顔してますよ、越後守が。あーやっぱり来ますね。なんでそんな態度なんですか?」
「な、なんでって……そう、なんでよ」
むっと眉間にしわを寄せたかと思うと、今度は、ずんずんと景之に向かっていった。
「先ほどは、神獣様の卵を賜りまして」
二人が相対した時、景之が頭を下げて礼を言った。
「そうなの、賜ったのよ、今さっきそうしたの!」
食い掛る勢いで、彼を指さし、言い放った睡に、景之が目をむいている。
「さて、何のお話でしょうか」
「あなた、お米は好き?麦は? あっ、麦って言っても、そこらの麦とは違うの、すごくおいしいのよ」
「ええ、もちろん、好きです」
睡の唐突な話にも、景之は余裕の微笑みで返した。
「でしょう、お米も麦も嫌いな人なんていないわよね」
「はい」
「貰って困ることもないでしょう」
「そうですね」
「でも、ちょっと重いし嵩張るのよ。蔵、何個分なのかしら?でも、さっき力持ちそうなのが沢山いた気がするの。貴方以外、よく見てなかったけど。まぁ、とにかく持って帰れるだけ持って帰って」
身振り手振りをくわえながら、言い切った睡は満足そうに笑った。
「……」
微笑んだままの景之が、時を止めている。
「巫女様が指揮して御作りになった、米と麦を、兵糧として恩賜なさいました」
主人は景之の困惑に気付かず、ふぅー、と深呼吸を始めたので、お艶が補足をした。
「それは……なんとお礼を申し上げたら良いものか」
景之が芝居のように両手を広げ驚いた顔を作った。
「それで、その、あれよ。どうなったの?」
「あれ、とは何のことでしょうか」
「もー、神祇官に金子を握らせて面会した巫女と、うまく話は纏まりそうなの?誰か来てくれそう?今の婚礼しそうな年齢の子たちよね、みんな、ちょっと物欲とか強めだから、贈り物大事よね」
「金子を握らせて……面会ですか」
「巫女様!」
自らの予想を、あたかも事実のように語られ、お艶の顔が般若に変わった。
「あなたの越後は、鬼が来そうで、巫女が必要なんでしょう? だれか色よい返事をしてくれたの?」
先ほどまでの勢いを失った睡が、顔を伏せて聞いた。
「いいえ、誰ともお会いしておりません」
「どうしてよ、会ってもくれないの⁉」
ばっと顔をあげると、困ったように眉を下げている景之と目が合った。
「いえ、今回は」
「私が話をしてみましょうか? 見ての通り、もうずっと此処にいて、あの子たちの姉やら母みたいな感じになってるから、頼めば会ってはくれると思うの。そこから先は、婚姻だし、戦だし、ちょっと、強制できないけど……」
睡が巫女として神宮に来て、最初の頃こそは、馬鹿にされていたが、長く居る間に巫女の間での立ち位置も変わってきた。
最近では、すごく好かれるか、遠目に鬱陶しがられるかどちらかだった。
「ありがとうございます。しかし、今まで文にて交渉にあたりましたが、結果実らず。今年は巫女様を求めてきたわけではないのです」
「じゃあ、何を」
哀れな気持ちで見上げた景之が強い目をしていた。
どきり、騒いだ胸元を握りしめ、睡は唇をかんで言葉を待った。
「純粋に参拝に参りました。戦の勝利と、領地の安寧を祈りました。巫女様のおかげで、とても良い気分です。きっと、上手くいくと天に暗示された気がいたします」
景之の声にも表情にも曇りがなかった。
その透明な笑顔が、強く頭に焼き付いた。
「でも、鬼って強いのでしょう?私は見たことがないけれど、人の何倍も大きく穢れを撒きながら集団でやってくるのよね?神獣が居ても、大きな被害だと聞きます」
「それでも、勝ちます。――必ず」
景之が握りしめた拳は、分厚く傷だらけだった。
よく見ると顔にも幾筋かの怪我の跡が残っている。
睡は、水で荒れることもない自らの手を見下ろし、恥ずかしくなった。
「何か、私にも出来ることは、ありませんか」
「ありがとうございます、巫女様。お恥ずかしながら、わが領地は米が安定的に取れず困っていたのです。なので、まさに渡りに船。有難く頂戴いたします」
景之が、もう一度、深々と頭を下げた。
「そう、では……これから植える稲がそだって、収穫出来たら」
秋が深まれば。
鬼が進む。
侵略した土地に生まれた鬼は大きくなり、食べるものが何もなくなったら、冬を迎える前にやってくる。そう聞いていた。
今は、春を迎えたばかり。
次の収穫の秋、越後は鬼との戦場となっている可能性が高い。
そうなれば、この人は……。
恐ろしい未来に首をふった。
「あのね、ネギ……私の神獣の鴨は、少しは賢くて、飛ぶのがとても速いの」
睡が努めて明るい笑顔で、飛ぶ真似をすると、景之が楽しそうに目を見張った。
「きっと手紙を持たせたら、あっという間に届けてくれるから、収穫のお知らせをするわ。お城のどこかに鴨の絵を描いた旗を立てておいて」
「はい、楽しみにしております」
睡は、滲んでくる涙を流さないように、目に力を入れた。
平和で豊かな高天原神宮では、俗世の戦や、苦難とは遠い。
死地に向かう人間になど、会ったことがなかった。
「美しい字で御礼状を書いてね。ちゃんと句も読んで」
踵を返して、景之に背を向けた。
「それは、すこし苦手です。笑わないでください」
「笑うわ。楽しいことに飢えてるの。だから、必ずよ」
睡は声が震えてしまい、逃げるように走り出した。