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1 異変と虫食い




 ──やってやった。ざまあみろ。



 彼は喉が痙攣したように震えていることに気づいて手を当てた。

 ひ、ひ。と口から漏れ出る息と逼迫(ひっぱく)した声に、気づく。

 これは笑っているのだ。

 久しく笑えなかったから。こんなことをしでかした後だから。触ってようやく気づいた。

 そうとわかれば、もう止まらなかった。


 ──やってやった。やってしまった。


「ひ、ひひ」


 ひきつった笑い声。目が熱い。顔の前にかざした両手もまた震えていた。

 遅れてきた恐れが腹の底を冷やしている。

 しかしもう戻れないのだ。

 自分はこの手でやってしまったのだ。

 単なる思いつきだった。やり返せると、衝動のままに作り上げた。


 最初は良かった。

 なのに、こんなことになるなんて。


 思わなかっただろうか。

 本当にそうだったろうか。もうわからなかった。

 どうせ過ぎたことだ。自分ではない自分が囁いている。

 わずかな後悔が脳裏に明滅して、やがて諦めに押し流された。

 暗がりにうずくまる。

 視界の隅で、暗がりの中で何かが動いている。それを気にするでもなく、彼は静かに笑い続けた。笑うしかできなかった。意味のある明瞭な言葉はもう出せない。


 静かに、静かに。

 やがて吐息が弱々しく漏れ出るだけになるまで、ずっと。





***





 けたたましい音に飛び起きる。

 もはや目ざまし代わりになるのではと思えるくらい甲高い声に、ナーナは目を開けてあくびを噛んだ。


「ミーミーチールー! あなたでしょう! 顔を出しなさい!」


 カーテンから顔をのぞかせると、モナがミミチルのスペースの前で寝間着姿のまま騒いでいた。苛立たし気に足を踏み鳴らし、手には派手な色をしたワンピースが握られている。


「モナ、おはよう」


 近寄ってナーナがモナに声をかけると、興奮さめやらぬモナは振り返った。


「あ、ごめんなさいナーナ。でも聞いてちょうだい! 起きたら、わたくしの服がこうなってたの!」


 ばっと広げられた鮮やかな赤いワンピースはあちこちに穴が開き、その周囲は白く色落ちしていた。

 よほどショックだったのか、目じりには涙が浮かんでいる。


「特別な魔力のこもった染料の一点ものよ! 夜窓辺に干していたらこうなっちゃってて……」

「虫が食ったみたいに見えるけれど、どうしてミミチルだって思うの」

「あの子、虫をよく持って帰ってくるじゃないの!」


 鼻をすすりながらモナが言う。ナーナは目を瞬かせてミミチルのカーテンを見た。

 すると、ややあって同じく泣きそうな顔のミミチルが出てきた。

 ぼさぼさの頭は寝起きだとさらにすごい。けれどそれをものともせず、ミミチルはモナのほうを向いてはっきりと言った。


「それ、私じゃない。絶対違う。なんでもかんでも虫なら私のせいってしないでモナ」

「じゃあ、こんな高いところにあるわたくしたちの部屋に、空から虫が飛んできて服を食べたっていうの!?」

「そんな虫がいるかは知らないよお……だって、最近持ち帰った子なんていないもん」


 モナの言う通り、ナーナたちが暮らす寮の部屋はそびえたつ尖塔の上階に位置する。

 ナーナは移動が非常に面倒かと思ったが、実際はそうでもなかった。

 国一番の学園の名に恥じぬ技術が惜しまず使われており、昇降機が存在する。魔法と蒸気を利用した昇降機は、この学園の卒業生が発明したという。

 ともあれ、上階は低い位置の雲に手を伸ばせば届きそうなほどである。そこを飛ぶ虫はほぼいない。だからモナの誰かが持ち込んだという意見は納得できるものだった。

 そしてその犯人をミミチルと決めつけるのも、気持ちとしてはわからないわけではないとナーナも思った。


(この部屋で過ごしてから、私もミミチルの虫に驚かされたものね……)


 自分ではないと言って泣きそうになるミミチルが縋るようにナーナを見てくる。背丈の低いミミチルにそうされると、どうにもきまり悪い。


「モナ、ちょっと落ち着きましょう」

「まだ一度だって着ていないのに」

「その残念な気持ちはすごくわかるわ。でもね、モナ。私はミミチルに味方する。だって、ついこの間一緒にミミチルの虫を逃がして掃除をしたばかりだもの。私の魔法の腕を疑わないでしょう?」

「ナーナの魔法なら間違いはないでしょうけど……」


 服を抱きしめてうつむいたモナは、また鼻をすすって、それからミミチルへと謝った。


「ごめんなさい、ミミチル。早合点をしてしまって」

「ううん、私も前に迷惑かけちゃったもん。疑うのはわかるから、あー、えと、御気の毒にモナ」


 のそりのそりとベッドから出てきたミミチルがモナの持つワンピースを指さす。


「その、それ見てもいい? もし悪さをする虫なら、正体がわかるかもだし」

「……ええ」


 どうやらモナの怒りはもう落ち着いたようだ。


「だめえ、わかんない。食べられた周りも白くなってるね。なんだろう……図書館で調べてみる」

「い、いいですわよ、もう。そこまでしなくても」

「ううん、気になるもん。ナーナはこういうことするやつわかる?」


 食い入るようにワンピースの生地を見ながらミミチルが呼ぶ。呼ばれるままにナーナは改めて赤い布地を見下ろした。

 やはりぽつぽつとした単なる虫食い穴にしか見えない。

 首を振って否定すれば、ミミチルは「うーん」と難しそうに唸った。


「蛾の幼虫にしては大きいし……そもそも外に干してるなら無理」


 モナよりも真剣な顔をして、今にも生地に顔を埋めるくらいだ。そんなミミチルの様子に、モナは諦めたようにワンピースから手を放して両手を軽く振った。


「いいわ。もう、ミミチルに預けますわよ。気が済んだらわたくしに返してちょうだい」

「うん」

「ナーナ、騒がせてごめんなさいね」


 目元ににじんでいた涙はすっかり乾いたようだ。モナの言葉にナーナは「気にしないで」と返した。






 騒々しい朝が終わり、数日経った。

 今日もまた、いつも通りというくらいに慣れ始めた一日が始まる。


 ナーナとテトスが転入して、この学園に馴染むまでは少しの時間を要した。

 もともと要領の良さに自負があった二人であっても、積み重ねた環境の差というのはどうしようもなかった。

 例えば、法律や条例の差、暗黙の了解、歴史の解釈には大いに苦しめられた。

 夜な夜な、鏡の魔法道具を通して互いに愚痴を言い合ったくらいである。あの張り合うばかりで気に食わない双子の片割れ相手に、初めて共通の愚痴の矛先が出来た瞬間だった。


 しかし、その苦しみもあって季節が過ぎ去るより前に、ナーナたちは優秀な生徒と周囲に認識させることに成功した。



「ナーナ、魔法構築学の先生にまた褒められたって本当?」

「ねえ、媒体の種類でどう違うんだっけ。試験に出るよね」


 講義の受講者から教えを乞われる程度には、優等生の冠がナーナの頭に嵌まっていた。

 辺境の出でありながら、出来が良く、真面目で、勤勉。愛想もよく、親切な良い子。

 やっかまれることも嫌がらせもあったが、ナーナにとっては可愛いものだった。テトスと張り合って喧嘩をした過去に比べれば、物理的な被害は少ない。気持ちは嫌なものだが。

 そのテトスもまた、ナーナが魔法関連の学習で良い成績を叩きだせば、武術や実技の講義で比例するように優秀だと名前が出るようになった。

 ここでも立ちはだかるのかと癪になった気持ち半分、これくらい出来てもらわないと困るという気持ち半分になったのはナーナの秘密だ。


 今日の魔法関連の講義も順調だ。ナーナは内心で自分を褒めに褒めながら、次の講義の確認をした。


(次はすこし間が空いて、紋章美術だけね……フスクス先生はまだ公平な方だからやりやすいわ)


 ミヤスコラの時程は途中から選択講義も混じるため、個々人によって変動する。ナーナたちが転入した年代から必要に応じて科目を選ぶのだ。

 最初の二年間は必修の講義を。三年目から選択科目を加えて、四年目で専門的なクラスへとさらに分ける。五年目には、研究成果の発表や未来の就職先に出向くなど、社会に出る活動が多くなる。

 そうして五年間の学園生活を通して取捨選択を繰り返し、より専門的な学びへと昇華するのだ。とはいえ、地位の高い生徒は自動的にレールにのるだけだという。それを肯定するかのように甘い採点をする教員を見たことがあるナーナにとっては、信憑性がある話だった。


「なんだよそれ」


 まるで、ナーナの考えに反応したかのような非難じみた声に、ふっと顔を上げる。

 教室に入ってきた生徒たちからだ。


「馬鹿らしい。朝起きたらこうなっていたんだ。呪いや幽霊じゃなくてお前たちのいたずらなんじゃない」

「そんなわけないだろう!」

「だってヨラン、それ、どう見たって歯形なんだぜ。おかしいよ」


 次の講義で使うのだろう。背格好からしてナーナたちより年下に見える。

 制服にある刺繍を見て、ナーナたちとは違う寮だとわかった。白の羽ばたく絵筆と針。芸術と商売、探求をよしとする寮、コウサミュステだ。


(次ってコウサミュステがここを使うのかしら。あの寮は芸術家や商家が多いって聞いたけど、見た目からじゃわからないわね)


 じっと見てたら、ヨランと呼ばれた少年と目が合った。

 愛嬌のある顔立ちをしていて、不揃いな髪が印象的だ。そのなかでも髪のひと房だけ白く色が落ちているのがよく目立つ。


(歯形なんて、変な話ね)


 ひとまずこのまま見続けるのは気が引けたので、ナーナは視線をそらして荷物を持って立ち上がった。待っているモナたちに声をかけて横を歩く。


「おい、あれが辺境から来たっていう」

「おお……思ったより人じゃん」


 ふと耳に入る話し声は、彼らが思っている以上に大きい。


「馬鹿。聞こえてる」


 その通りだ。

 ヨランと呼ばれた少年が言うのを合図にするように、ナーナは愛想よく微笑んで通り過ぎた。ほう、という溜息のような音が聞こえて、教室を後にしてから思わず声を上げて笑ってしまった。


「ナーナ、あなたったら。悪女の素質があるんじゃなくって?」

「いやだわ、モナ。モナみたいにお上品に喋るのはできないもの」


 互いに笑いながら次の教室に向かう。


「ミミチルは?」

「図書館に籠っていますわ。あれは司書のホークネット女史が放りだすまで居座りますわよ」


 ナーナが聞くと、肩をすくめてモナは言った。

 食堂で朝食を食べたあとから姿を見ていないと思ったら、ずっと図書館に籠っているようだ。前からだとモナが言うのを聞いて、ミミチルの成績がふるわないのはこのせいかとナーナは納得した。


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