第四話
二時間程歩き続けただろうか。ようやく、見覚えのある場所に出てきた。記憶を頼りに考えると、あと三十分程で森を抜けられるだろうか。酷い目にあったが、この森ともう別れるのか――と思うと、少し名残惜しい気もする。
「あのキノコ美味しかったなあ……」
いけないいけない、思わずヨダレがこぼれるところだった。森のイメージが殆どキノコの美味さで上書きされている気がする。
隣を歩くヴァンの横顔は、口と鼻が大きな嘴のようなマスクで覆われているためよく見えない。息苦しくないのだろうかという余計な疑問が頭に浮かぶ。装備は軽装で小さめのスーツケースを下げているだけだ。
医師の荷物がそれだけでいいのかと思うが、恐らく何らかのスペースを拡張する魔法をかけているのだろう。だとすれば魔法の腕も相当なものだ。が、魔法が全く使えない私には関係の無い話である。
「……俺の顔に何かついてますか。さっきから視線を感じるんですけど」
さっきから彼の容姿ばかり観察していたのが勘づかれてしまったらしいここは上手く誤魔化さなくては。
「い、いいや、全く?まだそのマスクに慣れなくて……」
「ああ、そうですか……子供の診察でもよく泣かれます」
「流石に子供相手は外して行った方がいいんじゃないか……」
どこまでもマイペースな男だ。この天然さで何人の女を惑わしてきたのだろう。まあ私はもう少し年上が好みだからセーフだが、これが普通の女子であれば交際を申し込むところだろう。
「なかなかイケオジはいないよな……」
「何か言いましたか?」
「いや何でも。あ、そろそろ森の出口みたいだ。近くの街は確か森を出て西の街道沿いに……」
「下がってください」
ヴァンがいつになく切羽詰まった声を出す。何か異常事態を感知したのだろうか。辺りを見回す。見たところ特にモンスターの姿は――――
「――――っっ!」
迂闊に足を踏み出していたら、超高温の炎で焼かれていただろう。森の出口の方から、赤毛の獣が火を吹きながら近づいてきていた。確か名前は……カエングマ。この周辺の森で最も危険なモンスターだ。
「マリンさん、俺が相手をするのであの大きな木の後ろに隠れていてください」
「わ、わかった……でも、ヴァンって医師でしょ?戦えるの?」
「安心してください。……俺は病気と闘う事が本業ですけど、モンスターを対処する心得もあります」
ヴァンを信じて、木の後ろに隠れる。一度は納得したものの、やはり医師に戦闘は無理な相談ではないか。もしヴァンが危なくなったら、自分が救出して逃げるしかない、と決意を固める。受けた恩は返さないと寝覚めが悪い。なんとまあ面倒な性格に生まれついてしまったものだ。
そんな心配は、結局杞憂だった。
ヴァンはコートの中から数本の注射器を取り出すと、素早く熊に投げつけた。それらは荒ぶる獣の毛皮を貫通し、血管に薬剤を流し込む。即効性の薬の効果によってクマの動きが鈍り、吐き出す火が消えた瞬間を、ヴァンは見逃さなかった。
熊との距離を一瞬にして詰め、足、腰、首と急所の血管に次々と注射針を突き刺した。カエングマは堪らず昏倒し、気を失った。勝負の決着は火を見るよりも明らかだった。ヴァンは服についた熊の毛を適当に払うと、もう大丈夫だとこちらに合図した。
「その熊、本当に起き上がんないよね……?」
「この薬は独自に開発した非売品ですから。即効性と効果は保証します。巨大なモンスターでも麻痺させられますが、絶対に回復します」
なぜか少し誇らしげだ。ここは、ヴァンの言葉を信用しよう。しかし、そうだとすれば疑問が残る。
「確かに、凄い薬だね。でも、なんでそんな面倒くさい薬を作ったの?ただ殺す薬を作る方がずっと簡単でしょ」
「それは……俺が医師だからです。医師の仕事は命を救う事で、奪う事じゃない。それはモンスターに対しても同じです」
驚く程優しい声と瞳で、ヴァンは言った。イケオジ好きの自分でも、思わずかっこいいと思ってしまう。頭に去来したそんな考えをぶるぶると頭を振って否定する。きっと二度も助けてもらって、恩を感じているからだ。
受けた恩を返さなければ、きっとこの思いは続くだろう。自由な恋愛を夢見る私にとってそれは本意ではない……気がする。
「ねえヴァン、街に着いたら何か恩返しがしたいんだけど、夕食とか食べない?」
「……見返りの為に医師をしているわけではないんですが」
遠慮しようとするヴァンに必殺の上目遣いで対抗する。媚びるのは得意ではないが、ここぞという時に使う奥の手だ。
「…………やめてください。そんなに見つめられると照れますから」
こんなに愛想のない男でも照れるのだろうか。頑なに私と目を合わせようとしない。駄目押しでもう少し見つめてみる。根負けしたのか、ヴァンは頭をかいた。少し癖のある黒髪が揺れて、緑色の目にかかる。
「……仕方ないですね。お言葉に甘えます」
「じゃあ、決まりね。猪肉のステーキがいいかなぁ、それとも焼き魚かなぁ……本で見て食べたかった料理、いっぱいあるからなあ」
昼食の妄想をしながら歩いていると、いつの間にか森の出口に着いていた。西向きの標識には、『こちら、ローリンソン伯領バルサント市行き』と書いてある。
「俺の目的地は西ですが……マリンさんは?」
「奇遇だね。私も西だよ」
次に東の領地に行く時は、私があいつらを見返せるようになった時だ。そんな思いを胸に秘めながら、初めての外食に胸を高鳴らせつつ、西へ行く街道を歩いていった。