第五話 魔女の亡霊とへこたれない王女の快進撃
普段あまり本を読まない――というのは本を入手できる機会が限られていたからである――ヘーゼルだが、普通の本から『それ』が飛び出してきたのはあまりに異常な光景に違いないと自信を持って言える。
『それ』は、少女のようにも見えたし、若い女性のようにも、はたまた中年にも思えた。
だからはっきりとした年齢はわからない。が、本から上半身だけを突き出した『それ』が美しき女性であるのは確かだ。
しかし顔立ちの美醜や、彼女の出現方法のおかしさなんてどうでもいいことである。
ヘーゼルが目を奪われた最大の理由――それは、自分と同じ黒髪と榛色の瞳だった。
「あなたは、誰?」
そう問いかけると、女性はヘーゼルを見つめてククっと笑った。
何がおかしいのか。頬を膨らませて怒り返そうとすると、「ごめんなさいね」と言いながら、答えを口にした。
「あなただって、わかるでしょう? この特徴を持った者がなんと呼ばれているか」
そんなのヘーゼルは嫌というくらいに知っている。
黒髪に榛色の瞳。それはまるで――。
「『伝説の魔女』」
「ご名答。私こそが後世に伝わる魔女よ。と言っても、本当の私は数百年前に死んでしまっているからただの亡霊に過ぎないけれどね」
ふふん、と鼻を鳴らして自慢げにする魔女。
かと思えば本の中から身を乗り出し、外へとさらに浮かび上がってきた。
魔女の纏っている黒いドレスは裾が長く、途中で空気に溶け込むように色が薄くなっていて足元は見えない。
本から完全に抜け出た魔女は、ふわふわと宙を舞うようにして、ヘーゼルの目の前に降り立つ。
「私を呼び出したということは、あなたの魔女の素養がある証明。そしてあなたの切実なる願いが私に届いた証拠でもあるの。
もう一度言うわ。何かお困りごとがあるなら遠慮なく教えてちょうだい。私が何か手伝ってあげましょう」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ヘーゼルは正直なところ、魔女の亡霊と名乗るその少女だか中年女だかわからない女性を信じたわけではない。
でも、レノックスと再会するための手伝いになってくれるなら、頼らない手はなかった。
「会いたい人がいるんだ。だからあたし、外に出たいの」
「……あらあなた、恋人がいるのね。羨ましいわ」
『伝説の魔女』の亡霊――単に魔女と呼ぶことにする――は、ヘーゼルの言葉に頷くと、最寄の壁に触れる。すると直後、あれほどがっちりとしていた石造りの壁に穴が空いた。
「……すごい」
「お褒めに預かり光栄よ、今代の魔女様」
「あたしは魔女なんかじゃないから。確かにあなたと同じ髪と目の色なのは認めるけどさ」
ヘーゼルは確かに穴が空いていることを確かめると、穴に首を突っ込んでみた。
穴の外には伸び放題の草地が広がっているだけで、人影は見えない。どうやら見張りの兵などはいないようだ。
これなら大丈夫だと思い、穴の外へと身を投じた。
「勇気あるのね。そんなことをしたら傷だらけになるかも知れないのに」
「ちょっとやそっとの傷くらい、平気だから。それより今は早くレノックスに会いに行かなくちゃ」
「……そう簡単に行くかしら?」
魔女の亡霊の正体だとか、彼女の意味深な発言の数々だとかは気になるが全部後回しだ。
ヘーゼルは走った。向かわなくてはならないのだ、あの庭園へ。きっとあそこにならレノックスがいる。あたしを待ってくれているから、と。
離宮と言っても、馬車に押し込められて連れて来られたわけではないから王城に程近いことはわかっている。
草原を駆け抜け、ひたすらに進み続ける。やがて王城が見えてくると、ヘーゼルは高い塀に阻まれ、その上城の門番に見つかってしまった。
いくら相手が門番一人とはいえ、ただでさえ普通の少女程度しか体力がないのに数日の離宮暮らしですっかり痩せ細ってしまっているヘーゼルでは戦って敵う相手ではない。
それに相手は剣を持っているが、ヘーゼルは丸腰なのだ。
しかし――。
「いいわ。私が排除してあげる」
魔女が静かにそう微笑んだ、その直後。
突如、魔女の振るった拳が門番がこちらへ向ける剣を先端を掠め――そして信じられないことが起きる。
魔女に触れられた部分からどんどん剣が輪郭を失い、溶け始めたのだった。
動揺する門番の横を魔女は通り過ぎ、ヘーゼルを手招きする。
ヘーゼルは先程目の前で起こった出来事に戸惑いつつも、すぐに頷いて魔女の方へ走って行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
壁も魔女の手によって溶かされ、容易に中へ入れるようになった。
王城の庭園へ向かうまで、どれだけの苦難の連続だったか知れない。
門番が誰かにヘーゼルたちのことを知らせたのだろう、敵国にでも攻め込むのかと言わんばかりの完全武装集団に襲われたり、王家が雇っているらしい暗殺者数人に殺されかけたりした。
「……さすがにこの数じゃ全部片付けるのは面倒ね。お嬢さん、あなたも一緒に戦ってちょうだいな」
「ちょっと待って。あたし、戦うなんて」
「あなたも使えるでしょう、魔法」
言われて、ヘーゼルは首を振る。
確かに魔女が使っていたのは、未知なる力――魔法と呼ばれるものなのだろうというのはわかる。だがそれがヘーゼルに使えるはずがないではないか。
「あたし、魔法薬くらいしか作れないよ。あれだって、ただ腐ったスープと薬草を混ぜ合わせてただけだし」
「それが魔法なのよ、お嬢さん」
「えっ、どういうこと?」
「詳しいことはまた後で。とにかく拳を振るう、それに尽きるわ」
ろくに説明されぬまま、魔女に突き放されてしまったヘーゼル。
こうなったらもうヤケクソだと彼女は思った。痩せ気味で小さい自分の手を握りしめ、襲いかかってくる武装集団を殴りつけた。
今まで一方的に傷つけられるばかりだったヘーゼルが振るった、人生で初めての暴力。
相手は武装している男たちだ。当然、自分の拳が負けると思った。だが、
「……あれ?」
武装集団が三人ほどまとめて吹っ飛んだ。
何かの間違いかと思い、今度は背後に迫っていた暗殺者らしき人物に体当たりをかました。
体当たり、と言ってもよろけるようなものだったけれど、なぜかまたもや結果は同じ。一瞬で再起不能にしてしまった。
「えぇぇ……あたしってこんなに強かったの!?」
これほど力があったなら一度くらい兄にやり返しておいたら良かったと後悔する。
しかし考えてみれば、今までこんな力が出ることはなかった。どうやら魔女の影響らしい。
たとえこれがわけのわからない謎の亡霊の力だったとしても、今のヘーゼルにはありがたいことだった。
どういう仕組みか知りたいが、魔女の言っていた通り話は後で、だ。
一心不乱に突き進むうち、ようやく庭園までやって来た。
「――レノックス、いる?」
呼んでみる。
彼がいるのではないかと思っていた。
でもそんな都合がいいことなんてあるはずがなく、その代わりとばかりにヘーゼルを待ち構えていたのは久しく姿を見ていなかった少年。
ヘーゼルの弟の王子だった。
「城が騒がしいと思って出て来てみれば、やはり姉上ですか。
たった一人であれだけの兵を退けるとは、本当に穢らわしい。だが今姉上を討てば僕の功績になる。……利用させていただきますよ」
次々とヘーゼルの拳にやられて行った襲撃者たちのことを知らないらしい王子は、自信満々に言いながらヘーゼルへ宝剣を向けてくる。
それを見た魔女は、静かにヘーゼルに訊いてきた。
「初対面なのに随分と失礼な男の子ね。どうしましょうか?」
「どうもしなくていいよ。それより、訊きたいことがあるから。
ねえ、レノックスはどうしたの。ここに毎日来てた、彼を待ってるんだけど」
答えないなら、実力行使も辞さないつもりの強気だった。
ヘーゼルが離宮に囚われたことを知った彼は、きっと王国側に抗議なりなんなりしたはずだ。そしてそれをよく思わなかった王族たちが彼に何もしていないか、それだけが心配で仕方がなかった。
「ああ、それなら安心してください。あの皇子なら『ご病気』をなさって隣国に帰って行きましたから」
「――ッ」
それを聞いた瞬間、目の前が真っ赤になった。
『ご病気』なんて、嘘に決まっている。
公に病死と発表される王族の死は大抵毒によるものだったりする。毒殺事件を公にしないよう、またはこっそり処分したのを知られないように、そう偽るという。当のヘーゼルも病死を願われていたこともあるので、よく知っていた。
つまり彼ら、おそらく弟王子がレノックスに毒を飲ませたに違いない。ヘーゼルのことを深く詮索させないように。
弟王子を全力で突き飛ばし、宝剣を取り落として倒れる彼の頬に手加減なしの平手打ちを喰らわせる。
普通であればいくら少年とはいえ女の平手一つで意識を失わないだろうが、王子はすぐに泡を吹いて白目を剥いた。
それ以上彼に構っている時間が惜しくなって庭園を駆け出て城の廊下へ転がり込んだ。そのまま走り切って城を飛び出し、草原を駆け抜け離宮を越えて、彼の元を目指す。
「お嬢さん、落ち着いて。私の力を使えば五倍は早く着くわ。ねえ聞いているの、お嬢さん!」
魔女の声が背後から聞こえてきたが、それに答えを返したりはしない。というか、返せるほどの余裕がなかった。
ヘーゼルは自分の体をどれだけ傷つけられても、心が痛まなかった。
なのに彼がひどい目に遭わされたと知ってしまって、逆上した。ああ、これが好きの気持ちなんだと、それまで静かだった恋心が激しく燃えだすのを感じる。
これくらいのことで、へこたれてやるものか。
必ず幸せな結末に辿り着いてやる。ヘーゼルたちを妨害せんと立ちはだかった王国軍の部隊――その数なんと千人ほど――を真正面から撥ね飛ばし、乗り越えながら、ヘーゼルは祈るように呟いた。
「レノックス、どうか無事でいて」