第三話 初めての恋とプロポーズ、そして……
それから毎日のようにヘーゼルとレノックスは庭園で顔を合わせ、言葉を交わした。
内容は大体において大したものではない。何せヘーゼルは難しいことがわからなかったから。
それでも話しているだけで楽しかった。メイドたちとのおしゃべりとは違う、静かで味わい深い時間。
最初こそレノックスを警戒していたが、親しくなるにつれその気持ちは消えて行った。
彼はヘーゼルにいつも優しく語りかけてくれる。その暖かさはヘイズという殻を突き破って、ヘーゼルの心に染み渡っていく。
レノックスの、どこまでもまっすぐで真剣な青い瞳。それに心の奥底まで見透かされている気がして、なのに嫌な気がしない。
どうして自分がそういう風に思うのか、ヘーゼルは薄々わかっていた。
何も教育を受けていないから常識に疎いヘーゼルでも、メイドたちの世間話から知っていることは知っている。
恋には二種類のものがあるという。
胸が高鳴る、燃え上がるような恋。そして一緒にいると落ち着き、相手に好感が持てる……そんな穏やかな恋。
胸はドキドキしていない。だが、小屋に帰って自然と彼のことを想ってしまう。
彼を思い浮かべている時は幸せで、満たされる。魔法薬の調合をしながら、ヘーゼルはニヤつくことが多くなった。
――でも、きっとあたしの漆黒の髪と榛色の瞳を見れば、話してもらえなくなるんだろうな。
ふと脳裏を過ぎるその考えは、見て見ぬふりをした。
少し距離感がおかしいけれど、優しくて憎めない男――レノックス。
彼が隣国の使者ではなく第三皇子だと告白されたのは、彼との出会いからたっぷり一ヶ月経った頃だった。
「どう、驚いたかい?」
「あたしを騙して楽しんでたんですか」
「そんなわけない。ただ、言ったら恐れ多いとか言われて距離を取られるのが嫌でさ。でもそろそろ明かしてもいい頃だと思ったんだ」
「ふーん」
告白されても、ヘーゼルはその程度の感想しか持たなかった。
身分なんてどうでもいい。レノックスはレノックスだ。
「第三皇子様なのにいいんですか、こんなところをほっつき歩いて」
「いいんだよ。君だって同じだろう?」
「だってあたし、しがないメイドですもん」
悪しき魔女の生まれ変わり。王族の恥晒し。
そんな風に呼ばれる王女は、ここにはいない。ここでのヘーゼルは、メイドのヘイズでしかないのだ。
なのに。
「いい加減、お互い腹を割ろう」
レノックスは突然そんなことを言い出した。
嫌な予感がして、ヘーゼルは顔を上げる。そこには穏やかな、しかし決意のこもった青い瞳があった。
「何を――」
「すまない。私はもう一つ、隠し事をしていた。
実は君のことを色々調べさせてもらったんだ。怪しんだわけじゃないよ、君に興味が湧いてね。
その結果、この城のメイドにヘイズなんて人間はどこにも存在しないことはすぐにわかった」
手足が急速に冷えていくのを、ヘーゼルは感じた。
力が抜けてそのまま座り込んでしまいたくなる。だがそんなみっともない真似はしたくないと、強く踏ん張った。
次にどんなひどい言葉を投げかけられるだろう。
覚悟し、ぎゅっと唇を噛み締めたが、聞こえてきたのは予想外過ぎる言葉で。
「ヘーゼル王女、私の国に来てほしい」
レノックスが、ヘーゼルの目の前に跪く。
当のヘーゼルはそれを呆然と見つめることしかできなかった。
……私の国に来てほしい? どうして? わざわざ隣国の地で処刑しようということ?
「ふざけないでよ。一体どういうつもりなの。わけわかんないよ」
思わず素の口調で問いかけるヘーゼルをまっすぐ見つめながら、レノックスは答えた。
「君は魔法薬を作る天才だ。君がいれば民が豊かになる。
……それに何より、私は君を花嫁として迎え入れたい。君が、欲しい」
「――――――――――――」
一瞬思考が真っ白に染まってしまったことは、仕方のないことだと思う。
それほどにレノックスの言動は理解し難いものだった。
でも時間が経つと共に、ようやくレノックスの言葉の意味が飲み込めてくる。
それからやっと、ヘーゼルは口を開いた。
「あたし、ヘーゼル王女なんだよ?」
「知っている。随分前から、知っていたさ」
「ほら……髪と、目が」
「きっと美しいんだろうな。私に一度、見せてほしい」
「違う、そういうんじゃなくて! あたし、魔女とおんなじなの。わかってる!?」
「抱きしめたい」
「答えになってないでしょ!」
叫びながら、思い切りカツラを脱ぎ捨てた。
見回りの騎士が見ているかも知れないとか、叫んだら誰かに気づかれるのではないかとか、もはやそんなことは気にしていなかった。
カツラの中に隠れていた漆黒の髪がさらりと落ち、メガネを取ると榛色の目があらわになる。
それを見たレノックスの反応といえば。
「……なんて美しいんだ」
あろうことかヘーゼルを抱きしめて、その髪を柔らかな手つきで撫でたのである。
魔女のようだと、穢らわしいと皆が言い続けたこの黒髪を、瞳を、美しいと言われるなんて――。
信じられない気持ちで、ヘーゼルはレノックスの瞳を見つめ返した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その後のことは、よく覚えていない。
気がついたら慣れ親しんだボロボロのベッドの上に横たわり、天井を見つめていた。
あれは夢だったのだろうかと思うが、髪を撫でられた感触だけははっきりと残っていて。
ああ現実だったんだと実感していたその時……小屋の扉が、乱暴に開かれた。
「おいヘーゼル、会いに来てやったぞ」
その声を聞いた瞬間、ヘーゼルの全身を脱力感が襲う。
このまま幸せな気分で眠ってしまいたい。なのにどうして、こんな時に来るのだろう。
王太子である兄は、ここ最近姿を見せていなかった。
久々に見る彼は右目が抉られており、痛々しい。思わず目を背けてしまうほどだった。
どしどし、と大きな足音と共に、王太子がヘーゼルのベッドの傍までやって来る。
かと思えばヘーゼルの体をくるまっていた布団ごと掴み上げ――壁へと思い切り叩きつけた。
「よくも俺を呪ってくれたな! 答えろ。俺を呪ったのは、お前だろう」
床に倒れ込むヘーゼルに、王太子からの拳が振り下ろされる。
いくら経験しても慣れることのない痛みにぎゅっと奥歯を噛み締めながら、ヘーゼルは声を振り絞った。
「……知らない。あたしは」
「嘘をつけ! お前のおかげでキャトリンは気が狂ったんだ。だから俺にナイフを向けてきたんだ。そうだろう!?」
とんでもな言いがかりだ。
王太子の婚約者、つまり未来の王妃になる予定だったキャトリン嬢は大層淑やかな令嬢だと話に聞く。
彼女は決死の覚悟で王太子に挑んだのだろう。しかし結果は王太子の目を抉るだけで終わり、彼を害した罰として今は謹慎処分を受けているらしい。
婚約者をろくに相手にしなかった王太子の責任だが、彼はそれを棚に上げ、ヘーゼルを痛ぶる。
「お前は魔女だ。本当に憎たらしい……!」
いつもなら、ここで黙っているはずだった。
だけれどこの日のヘーゼルは違った。靴底で太ももを踏みつけられながらも王太子を睨み返し、言ってやったのだ。
「――なら、あたしこの国を出て行くよ」
「は?」
「あたし、この国を出る。あたしみたいな魔女の生まれ変わり、この国には要らないんでしょ。だからあたしの方から出て行ってあげる」
ヘーゼルのその言葉に、王太子は呆気に取られたようにヘーゼルを踏みつけにしたそのままの姿勢で固まった。
しかしやっと我に返ると、憎々しげにヘーゼルを睨みつけて。
「魔女がッ。何か悪き呪いを用いて勝手にこの国を出ようとしているのだろう。お前のような者を野に放ってなるものか!」
激昂したまま、彼女の髪を引っ掴み、乱暴に国王の元へ引きずって行ってしまったのだ。
本来の姿のヘーゼルは部屋から出てはいけない決まりになっている。しかし今の王太子には、そのことすら頭にないようだった。
髪がぶちぶちと千切れる。レノックスが美しいと言ってくれた漆黒の髪が。
しかしこの程度のことではへこたれてやらないと、歯を食いしばって耐えた。
あちらこちらから悲鳴が上がり、「おやめください!」というメイドの声が聞こえてくる。彼女らは知らない。自分が恐れている存在が、普段一緒に掃除をしたり食事を共にしているヘイズであるということを。
そして辿り着いたのは、国王の部屋。
数年前に大々的な国の式典があった時以来全く顔を合わせていなかった父親との対面である。
父である国王は王太子を部屋から追い出し、忌々しそうな顔でヘーゼルを見つめた。
ヘーゼルは数人もの騎士に囲まれ、逃げ出せないでいる。
「ダメだ。気を強く持たなくちゃ」
自分はこの国を出て行くのだと、堂々と宣言してやるのだ。
そう思い、口を開こうとしたが周囲の騎士たちにあっという間に気づかれて静止されてしまう。「国王陛下のお言葉がまだだから」と。
そして告げられたその、国王陛下のお言葉というのは――。
「国賓の第三皇子から要請があった。ヘーゼル王女と婚約を結びたいと。
だがそのような申し出は決して認めぬ。魔女の生まれ変わりであるお前をこの国から出すことはないから、そう思え。
お前の身柄は離宮にて幽閉する。そこで今度こそ野垂れ死ぬがいい」
そんな、愛情の欠片もない、実質死刑宣告とも取れるものだった。