19話『きっかけ』
「…………あら」
女性の声が聞こえる。
透き通るような綺麗な声だが、どこかか細くて今にも消えてしまいそうな声。
その声を掴んだとしても、隙間からスルリと好き抜けてしまうような――そんな声。
「……やはり、来れたようですね」
その声に反応するかの如く木々が白く輝き森が騒めく。
私は今、どこにいる?
いや、こんな光景前にもどこかで――。
……そう、夢の中だ。
夢の中でもこういった景色を見たことがある。
「意識がある状態でここに来るのは……初めてでしょうか」
無数にある木のうち、奥に生えた1本の木。
その後ろから声がする。
よく見てみると、その木の下部付近には白い布のようなものが飛び出ているのが確認できる。
そこにいるのは人? それとも魔物?
……いや、今の状況的には、女性がそこに立っていると考えた方が現実的だ。
「はろー、わーるど」
その木からひょっこりと顔を表したのは、口が尖がったお面を被った耳の長い人だった。
お面の目は上目で、何を考えているか分からないような顔をしている。
その顔を囲うように、お面の周りは白く染色されている。
その白い染色には紺色の水玉模様も描かれており、なんというかこう……人をバカにしているかのようなお面だ。
「カギが見つかってよかったです」
カギ……?
もしかして、この人がガノックの言っていた依頼主なのだろうか。
あのお面やカギという言葉からそう推測できる。
「言い換えるなら、きっかけと言いましょうか」
装飾のない白いドレスを着た女性が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「……そうですね。意味が分からないと思います。結論から言いますと、貴方は今、現実で暴走しています」
お面の尖がった口に人差し指を当てて、首を少し上に傾けるその白髪の女性。
次に、両腕をブンブンと振り回し始めた。
「こう、盗賊ゴブリンの腕をもぎ取ったり、足を噛みちぎってみたり――まるで子どもの扱うおもちゃのように、けちょんけちょんに! ……していますよ」
私が……?
体にこれといった異変はなく、いつも通りのこのまん丸ボディ。
その私が、どうやって腕をもぎ取って、口もないのに噛みちぎるのだろう。
この人は何を言っているんだ?
「はあ、はあ……」
女性は疲れたのか、両腕を振り回すのをやめて息を整える。
「時に、本人にも分からない行動――。それを『暴走』と言います」
私をお面越しにじっと見つめる。
「その要因は何でしょう。喜怒哀楽? 憎悪? ……それとも無意識? 貴方には理解かりますか?」
そもそも彼女の言っていることが事実であるかどうか、それすら分からないのだ。
私に訊かれても答えようがない。
「……そうですね。質問を変えましょう」
私が何もしないでいると、女性は頭を下に傾けて後頭部を両手で弄り始めた。
「貴方は彼女が襲われている時、どのように感じましたか?」
彼女……マイラ――?
そうだ、マイラはどうなった!?
たしかゴブリン3匹が現れて、それでマイラが気絶させられて……。
マイラのバッグを漁っているゴブリンに体当たりして……。
それから、投げ飛ばされて……。
物凄く体が痛くて……。
……これ以降の記憶がない。
そこだけ、すっぽりと抜けているような感覚だ。
何も思い出せない。
私は今何をしている……?
ここにいる場合ではないというのに。
「……そこに怒りはありましたか?」
「…………!」
私は咄嗟に肯定するようにぷるぷると身震いした。
「そうですか……」
小さくため息を吐きつつそう答える女性は、後頭部で結ばれていたと思われるお面の紐を解いた。
そして、外れそうになったそのお面を左手で支え始める。
「きっと貴方の本心はそうなのでしょう……。けれど、現実とは乖離しています」
女性がお面を顔から外した。
「現実は……『汚濁』です」
目が赤く丸いエルフの少女が顔を表す。
口角を少し上げて微笑んでいるようだ。
「渇望、憎悪、憤懣、心の醜怪等……。そんな情が渦巻いてできたもの――それを私たちは『汚濁』と呼んでいます。つまるところ、あなたは汚染されたのです」
この女性は一体何を言っているんだ……?
「ふふっ、『神聖、穢れを知らず』ですね。私的には少し語弊がありますが……」
「…………」
「暴走している原因、それは今私が言った『汚濁』なのです。その『汚濁』は貴方や他者によって生み出され、貴方自身に吸収されて暴発したもの。それを、とある子は異形化とも呼んでいました」
ただでさえマイラのことが心配で仕方がないのに、一体何を言われているんだ……?
「まあ、それは置いておきましょうか。……さて、貴方は自分の正体について――いや、訊くまでも無いでしょうか。貴方は聖物です。……潜在的には、もう気付いていますよね?」
私があの精霊見聞録という書物に出ていると言われた聖物……?
確かに夢の中で、私は『聖物の砕片』と呼ばれて調合で使われていた。
けれど、だからといって私が聖物であるとは断定できない。
いや……だからこそ、潜在的にはか。
「……きっと今、貴方は混乱していることでしょう。ひょいと出てきた『ひょっとこエルフ』に絆されて、自分の状態も分からないまま訳の分からない話をされている」
「…………」
「声は出せなければ自由に動くこともできない」
「…………」
「現実で彼女がどうなっているのか、自分がどうなっているのか……。それすらも分からない」
私は強く身震いした。
今すぐにでもマイラを助けにいかなければいけない。
自分がどうなっているかを確かめなければいけない。
そう思った。
「……しかし、まだ貴方を帰す訳にはいきません。彼女を心配する気持ちはわかります。ですが、今貴方が戻った所でどうするというのです。今、現実の貴方は1つの意志の基で動いている。彼女を守るために……ゴブリンを1匹ずつ確実に殺している。混乱している貴方が戻ったところで、それができるのですか? それに、暴走している自分自身を制御できる根拠は? 勇気は? 自信は? それらがあるのですか」
詰め寄ってくるエルフの少女に戸惑い、私は身を震わせた。
「……1つ、話をしましょう」
エルフの少女が背を向ける。
「貴方は、『綯い交じる感情のパラドックス』を知っていますか?」
パラドックスって響き……良くないですか?
次話もよろしくお願いいたします!