679:水底へ堕ちる
地上にいながら、膝まで水に浸かっているような感覚。濃度の高い魔力が色を持って、まるで腕のように首元に伸びてくるから慌ててそれを振り払う。触れられても俺に害はない、はずだが、それでも払わずにはいられなかった。
本能的な生命への危機感。鋭い刃が迫っているような感覚があの瞬間にはあった。魔力の影響は全く受けていないはずなのに、呼吸が荒くなる。この先に何が待ち受けているというのか。
階段に踏み出す。身体を縛める水の抵抗はないが、俺自身が進むことを拒んでいるのか沈んでいくようにゆっくりだ。実際どうにも視界が悪いし、ゆっくり進むに越したことはないかもしれない。
頭まで濃い魔力に浸かると、俺までおかしくなってしまいそうだ。直接の害はないが、それでも毒気が俺を蝕んでいるのがわかる。
水の底にだんだんと沈んでいくような感覚だけれど、海のそれとは違う。とはいえ沼地ともまた違う。水よりも少し重いものの、きちんと触れられるようなものでもない。不思議な感覚だ。
どれほど経っただろうか。かつてここにきた時も、こんな感覚だった。おそらく測ってしまえば数分、それでも俺の体感では果てしない時間が過ぎている。やっと踏み出した足の位置が下がらず、同じ高さに落ち着いた。
「う……」
地下室の扉を開けると、より密度の高い魔力が俺に叩きつける。これは……俺でなければ浴びた瞬間精神を病んで動くことすらできずに意識を失う、どころか圧に耐えきれずに死んでしまうかもしれない。
地下室は俺たちが訪れたときとほとんど同じままだった。研究資料や道具はおおむね取り払われ、イザベラを利用していた方陣は崩されているがそれ以外はそのままだ。だからこそ、探すのは楽だった。
イザベラが捕らえられていた場所と同じ、この星の根幹魔力と近い場所にある地点にその魔導具はあった。おそらくこれで漏れ出る根幹魔力の性質を変えているのだろう。
このタイプの魔導具は見たことがある。他でもない、異界決戦のときだ。別の世界に対して強い適性を持つイザベラの魔力と性質を合わせるため、各魔術師に配られたものとほとんど同じだ。
とりあえず魔導具を回収すると、魔術の噴出が止まる。正しくは精神感応系に汚染された魔力の噴出だが。これで、研究室中の窓と扉を開け放てば一旦は正常化するだろう。なかなか時間もかかってしまったし、早く帰って眠らないと明日に響く。
他に何か、この魔導具を置いた犯人の痕跡になるようなものはないものか。部屋の中を細かく探ってみたが、証拠品にもならないと放置された本や道具が少し残っているばかりだ。やはりこれはここの片付けと同時に設置されたと考えていいのだろう。
「とりあえずこれを持ち帰るのが……」
「持ち帰れたら、いいねぇ」
振り返るが、誰もいない。真後ろに立っているような感覚がした、というかすぐ後ろから声がしたような気がしたのに、人の影はない。だとすれば……。
この魔力だ。魔力に自身の意志と声を乗せているのだ。通話宝石と原理は同じだが、効率が悪いから誰もやらない。しかし今は違う。この研究所全体がこの魔力の支配下にある。この状況ならば全く問題はない。
予想はできていたが、ここは敵の腹の中。完全に俺の動きは掌握されていたか。どうやら俺を生きてここから出す気はないらしい。位置も何もかも把握されているのは痛いが、それでも抜け出すだけなら簡単だ。
眠っていた装甲車を無理やりに走らせるため一気に魔導機関の熱を高めるように、俺も身体補強の出力を急激に引き上げる。もう気圧されてなんていられない。
次回、680:反芻 お楽しみに!




