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486:君のために

「残念、リリィちゃんではないですよ」


 無慈悲に狭くなっていく視界を必死に保って、俺を見下ろす人の姿を確認する。これは……。


「シーナ……?」


 信じられなかったが、俺の目と耳は、確実にそれがシーナだと告げていた。なんで彼女がこんなところに。


「はい、オル州領主付使用人のシーナです。今回は、特別任務でレイさんを助けに来ました」


 にっこり笑うと、シーナは俺を引き摺り船の外へと連れて行こうとする。それはまずい。俺がいなくなってはリリィが代わりにここに囚われることになる。


「ま、待ってくれ、シーナ。このままだと、リリィが……」


「聞きません。さ、行きますよ」


 もはや、今の俺にはシーナに抵抗する力すらなかった。それが、なによりも俺がここから去らなければいけない証拠だ。


 感覚は薄いが、自分が何をされているかはわかる。布に載せられて、海面の小舟まで下ろされているのだ。きっとここまで小舟を持ってきた憲兵がやってくれているのだろう。


「レイさん、とにかく一回休んでください」


 そう言って、シーナはほんのり甘い匂いのする布を被せてくる。甘さの中に落ち着きのある、静かに咲く花のような香りに、意識が急激に薄れていく。落ちていく意識の中、遠くで清廉な金属音が聞こえた気がした。


 混濁する意識の中、しかし思考は鮮明だった。変な感じだ。肉体と精神が乖離してしまったかのように身体を感じられない。ただただ暗く、少しの感覚もない中で、思考だけが着実に進んでいる。


 身体を無理に動かして、何日も戦わせ過ぎたせいだろうか。いや、それよりも。


 シーナはなぜここにいる。リリィは今どうしているのか。亀裂はどうなっているのか。そんな『外』への渇望に近い何かが俺を責め立てる。


 身体を動かそうにも、その身体と繋がっている感覚がない。いつもは俺の思った通りに動いてくれる身体が、今は感じられない。どうすれば。


 いや、こうなってしまっては仕方がないか。俺はどうしても動くことはできない。それが変えようのないことならば、俺の不在だけリリィに預かって貰えばいい。そして、俺がまた動けるようになったら、今度は間違いのないように亀裂を守るのだ。


 そう思うと、急に精神が重たくなってくる。水底に沈んでいくような、思考が滞り、暗くなるような感覚。でも、今はこれで良いのだ。次に目覚めた時、また頑張ればいい。


 ……。


 ……柔らかい布の感触。頭を支えるこれは、枕だ。ついさっき眠ったと思ったのに、もう目が覚めてしまった。今度は身体の感覚がある。が、果てしなく怠い。


 身体中に鉄塊を括り付けられて、そのうえ水に沈められているようだ。とにかく身動きが取れない。


「あ、レイさん。おはようございます」


「シーナ……ここは……?」


「医務室です。もっとも、昨日までは特別医療室にいましたが」


 首を動かすのすら億劫で、目だけで周囲を見回す。『昨日までは』ということは、は少なくとも1日は眠っていたことになる。俺の意識的には、眠っていたのは一瞬だったのだが。


「リリィは……?」


 そうだ。俺が目覚めたのだから、すぐに回復して戻ってやらないと。決まった時間に結界を展開し直すだけ、そんな生活は酷過ぎる。


「今は当番の時間ですね。帰ってきたら来ると思いますし、今はお薬を飲んでくださいね」


「当番……?」


 よくわからないが、俺の知らない何かが動いているらしい。とりあえずはシーナの言う通りにしよう。身体を起こすのに支えてもらい、錠剤と水を少しずつ飲む。


 シーナから連絡が入ったのか、しばらくすると疲れた顔の医者が部屋に入ってくる。当然話の内容はお叱りと事情聴取だ。


「蘇生剤は貴重で高価なんだぞ。……いや、それはいい。女王様の指示だしな。それよりも君、蘇生剤をどうやったらあんなに大量に消費できるんだ!?」


「ん、いや、疲れて踏ん張り効かねぇし、眠くてな。どうにか意識を保って戦うために、眠くなったら打ってたんだ」


 俺の言葉に、医者は呆れて頭を抱える。たった一瞬の出来事なのに、その隈がいっそう濃くなったように見えた。どうやら悩みの種は俺のようだ。


 恐ろしく憔悴した顔でメモを取る医者。どうやらとんでもないことをしてしまったようで、少し申し訳ない。そんなにマズかっただろうか。


「君ねぇ、自分で投与した蘇生剤の量を覚えているかい? 一般人は二本でほぼ死に、三本打てば確実に死ぬ。君は20本以上使っている、なんで生きているのか、本当にわからないよ……」


 身体に大きな影響をもたらす薬だということはわかっていたが、そこまで危険なものだとは思っていなかった。時間を空けて打っていたのが幸いしたのだろうか。とにかく生きていて何よりだ。


「不思議なことに、君の体内からはほとんど蘇生剤の成分は検出されなかった。だが10日以上にわたる活動のせいで身体は滅茶苦茶だ。あと三日は動けないからね」


「待て、そんなにか!?」


 できればすぐに戻りたいのに。復帰に三日かかるどころが、このベッドから動けるようになるまで三日なんて、そんなことは言っていられない。


 どうにか起きあがろうとする俺の肩を医者が軽く押さえる。それが医者として正しい判断だとしても、俺はここから動きたいのだ。


「君が何を抱え、何のためにそこまでしているのかは私にはわからない。ああ、国のために戦ってくれているのはわかっているけどね。だが、君のために彼女をはじめ、皆集まってくれたんだろう。少しは甘えて休みなさい」


「でも……」


「時に無限の無茶を通して大事を為そうという気持ちはわかるけどね。若い君が、それとタフネスを賭け金にするのは感心しないな。医者として、大人として、認めるわけにはいかない」


 俺だってわかっている。だが、それ以外に手段がないとすれば、誰かがやらなくてはいけなくて、それが、俺が被るべき負債だとしたら。


「大丈夫です、レイさん。事態は、レイさんが思うほど残酷ではありませんよ」


 それは、どういう……。尋ねようとしたそのとき、小さな足音が響き始める。俺の扉の前で音は止まり、ゆっくりとドアノブが動く。

次回、487:地獄に差し込む光 お楽しみに!

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