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305:新天地 ラ・ベルナール

「それで、研修ってのはこれだけなのか?」


 ラ・ベルナールで働くことが決まった俺におばばが最初に課したのは、一週間の研修だった。それはもちろん、必要なことだと思う。


 しかし、それはもう少し応対の仕方とか、そういうものを学ぶものではないのか。俺が言い渡されたのは、ただ一日中焚かれた香の前に座り続けるというものだった。


 正直これに何の意味があるのかわからない。上質の香なのはわかるが、俺にこれの嗅ぎ分けができるほどの経験はないし、おばばもそういう意図で俺にこれを嗅がせ続けているようには思えない。


「この香はね、人の判断力と積極性をある程度削ぎ落すものなんだよ。別に騙そうなんてつもりはないが、客が妙に賢いとこちらも困るからね」


 なるほど、ただ甘いだけのように感じていたが、そんな効果があったのか。確かにどこか脳が浮遊しているような感覚がある。


 研修というのは、この香に慣れ室内でも正常な判断をできるようにするというものだったのだ。嗅ぎ続けていると一瞬意識が遠のくこともあって驚く。


「これな、おばばが言うに一種の毒なんよ。お客様が夢心地で過ごすためとはいえ、ちょっと心苦しいわぁ」


 まあしかし、気の立った奴をそのまま店内に入れて女たちを傷つけられたりしたらそれこそ商売あがったりだ。店を守るためには必要なことなのだろう。


「まああんたたちのことを思っての措置なんだろうよ。ちょいと濃すぎる気も───」


「ほらね、判断力が鈍ってるだろう」


 アイリスだと思って話していた相手はおばばだった。目に入らないところで多少声色を変えて話されるともうわからない。


 正常な判断力を失うとはこういうことか。まず脳に情報が正常に送られていないのだ。口調と話すペースで完全にアイリスだと思い込んでいた。


 頬を叩いて気合いを入れなおす。これはかなり激しく自分を保たないとダメだ。しかし意識を内面に向けすぎてもそれはそれでよくない。こんな環境でよく働けるものだ。


 これも日頃の鍛錬というやつなのだろうか。少し違う気もするけれど。とにかく数年かけて慣れてきたこれに俺は一週間で慣れなければいけない。神経を殺すつもりで臨まなければ。


 それからというもの、俺はとにかく香の前に座り続けた。至近距離で濃密な香りを脳に充満するまで摂取し、耐えきれなくなると窓から顔を出して息をする。水中で浮き沈みするような気分だった。


 甘美すぎる匂いに溺れ続けて一週間、頭のおかしくなりそうな研修を終えて俺は晴れてラ・ベルナールの正式なメンバーとして迎えられることになった。


「さて、じゃあ今日からバッチリ働いてもらおうか」

次回、306:ただ、身を挺すだけ お楽しみに!

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