292:変わらない事実
ふらりと街に出てから、初めて砕けた右脚が全く治っていないことに気が付く。今までいろいろな感情に心を塗りつぶされていたせいでわからなかったのだ。虚無が痛覚さえ殺すとは。
痛みは痛みはむしろ目の方が強い。きっと刺された実感がその時の感覚と共に身体にこびりついているからだろう。普通傷はこんなに痛まない。毎秒刺された時の感覚を思い出しているのだ。
酷い状態の身体で歩き続ける。何が目的というわけでもない。このままただ進んでどこにでもいる誰かになりたかったのだ。街に溶け込み、雑踏に紛れ、ただの一市民になりたかった。
しかし、今はそれすらもできない。身体中に包帯が巻かれ、足を引きずっている男のどこが普通なのか。
「あれ、お兄ちゃん。あの白いお姉ちゃんたちはどこ?」
少女が俺に話しかけてくる。よく見てみれば俺達に肉を分けてくれた子だ。白いお姉ちゃんたちというのはリリィとミュラの事だろう。二人とも見事に髪が白いからな。
「小さい方は元気にしてるよ。大きい方は死んだ」
少女にミュラの死を伝えるのに、全く躊躇はなかった。刹那の幸福のために嘘を吐いたって誰も得しない。どうせいつか真実に気が付くのだから。
「なんで? なんでお姉ちゃん死んじゃったの?」
目にいっぱい涙を溜めながら少女は尋ねてくる。たった一度会っただけの人の死に泣ける心は豊かだと思うし、その涙を目から零さない忍耐には感服する。
どう説明したものか。わざわざ雷に打たれただとか、そんな細かいところは教えても意味がない。重要なのはただ……。
「民を守るために、暗雲を従える怪物と戦って死んだんだ。この国に生きる命を守るために」
まあ、怪物というよりは見かけは少女だったが。可憐なのは見た目だけで、その戦闘能力は怪物と呼ぶのもまだ生易しいような強さだったが。
「じゃあ、お姉ちゃんが死んだから私たちが生きてるの? そんなの……」
「そうじゃない。守るために死んだんじゃなくて、守った結果死んだんだ。ただ投げやりに命を捨てたわけじゃない」
「よくわからないよ……」
「俺もだ」
どちらにしろ、彼女は死んでしまったのだから。きっと俺と少女の『わからないこと』は違う。だが俺は少女が何を分かっていないのか、それすらわからない。
だから俺も言うのだ、わからないと。誰が生きて誰が死ぬか。一歩立っている場所が違うだけで変わるようなことに何故想いを馳せるのか。
何故、死に理由を求める。何故、死に価値を求める。どうせ死んでしまえばすべてが終わりなのだから、理由も価値もどうでもいい。そこには何も残らない。
輝かしい未来を遺して、何の意味がある。それを作った張本人が見ることのできない未来など、いっそなくなってしまえばいいのに。
「お兄ちゃん、またね」
最後まで零れることのなかった涙を拭い、少女は去っていった。またね、だなんて、果たされることのない挨拶を残して。
「ほんとに、なんで死んじまったんだよ……」
責めるようにつぶやいて、俺はまた歩き出すのだった。
教皇の寿命まで─────あと58時間
次回、293:還るまでは お楽しみに!




