107:歴史の虚説
時間逆転の衝撃でまだはっきりしない頭で、持てるだけの武器を服に詰め込む。中折れ式銃にも最初からアダマンタイトの弾丸を装填する。
昼間のうちに『蒼銀団』の頭首を殺し、その後カイルに再度クリスの魔術を攻略する作戦を伝え、協力してもらう。
おそらく頭首はまだ館の中にいる。今から行けば間に合うはずだ。
しかし、ポケットから鳴った甲高い音が俺を引き留める。音の出所は銀の鍵。今までこんなことはなかったが、ヴィアージュが俺に何か用でもあるのだろうか。
「時間はねえが、仕方ないか」
鍵のある扉に向かうため一度外に出ると、顔に水滴が当たった。雨だ。今気が付いたが、空が曇っている。こんなことは今までなかったのに。
濡れないようにすぐに建物の中に入ると、銀の鍵を使って扉を開ける。できるだけ早く用を済ませて頭首を殺しに行かなければ。
「何の用だ? 急いでるから手短に──」
「君たち、一体何をしているんだ。このままじゃ虚説が実証されて世界が分断されてしまう」
顔を見るなりヴィアージュはまくし立ててくる。いきなりそんなこと言われても、俺には虚説やらなんやらの意味が分からない。何か重大なことが起きているようだから、一度落ち着かせて事の経緯を詳細に話してもらう。
「歴史には正史と虚説がある。虚説というのは、正史になる可能性を持ちながらも正史になりえなかったイフの歴史だ。今、それが実証されようとしているんだ」
俺に思い当たる虚説というのは一つしかない。正史になることのなかった歴史。それは、正真正銘クリスの魔術によって生み出された今日だ。
それが実証、つまり虚説という可能性の形を抜け出して現実になろうということか。しかし、なんでそんなことがいきなり。
「ある男の魔術によって、世界は今日を繰り返している。話によれば数十年程。それが原因なのか?」
「うーん、それが原因ではありそうだね。繰り返していることを知っているのは何人だい?」
「少なくとも三人。うち一人は一つ前の今日から」
ヴィアージュは頭を抱える。自体はかなり深刻なようだ。ヴィアージュは何千年もこの世界を見てきた者、それを狼狽させるなんて並大抵ではない。
「そうか。それは、まずいね。虚説はそれを観測する人間が多ければ多いほど実証速度を増す。それが3人いるとなれば、5日で実証は完了する」
5日。今日を含めて、今日を5回。それまでにあるべき未来を掴みとらなければいけない。あと5回で、できるだろうか。いや、やるしかない。
「ちなみに、実証されると何がいけないんだ? 何か悪影響でも」
「ああ、実証されている正史と、新たに実証された虚説、二つの実証された歴史が衝突して分離する。一つの世界が二つに分かれるということは、すなわち世界の力が半減することを意味する」
「それに、今は根幹魔力の量が……」
「ああ、おそらく世界はその形を維持できない。この世界の神代は、歴史の分裂によって終わったくらいだからね。まあ、時代を一つ終わらせるくらいの力があるということさ」
半ばあきらめたようにヴィアージュは言うが、つまりは5日の間にこの廻転を止めなければ世界が終わるということだ。
俺に確実にできることが一つだけある。頭首とクリスの脅威を特務分室のメンバーに伝え、俺が死ぬことだ。そうすれば、世界が壊れることは免れる。
俺だって死にたくはない。でも、死んでほしくない人は俺が死ぬことで守れる。世界の崩壊に比べれば、ただ二人の敵くらいあいつらにとっては大した脅威ではないだろう。
俺が終わらせる。終わらせなければいけない。死ぬ覚悟なんてできていないが、生きることは諦められる。恐怖はあったが、不思議と身体は震えなかった。
「ダメだよ、そんなの」
ヴィアージュが、いままでにないほど真剣な顔で俺を見つめる。その瞳は、何も語らず、それでいて語るよりはっきり俺に告げていた。『死ぬな、生きろ』と。
「人の、本来の戦いは、常に自分より大きなモノとの戦いだ。怖いだろうね。だが、その恐怖を呑み込んでそれに立ち向かうのが人間にのみできる戦いだ。世界を守るために死ぬのは、もう少し後でいいだろ?」
そう。そうだ。いつも、俺の戦いは大きく理不尽だった。天を衝く白亜の塔も、融けることのない永久凍土も乗り越えてきたじゃないか。相手が世界だからって、尻込みするな。
「誰も、今すぐ死ぬとは言っていないだろ」
咄嗟に放った負け惜しみは、今度こそ恐怖で震えていた。だが、これでいい。さっき大して怖くなかったのは、俺のせいで世界を失うという恐怖を、自分の死という恐怖で誤魔化していたからだ。
たとえこの歴史の未来が懸かっていても、俺のすることは変わらない。ただ、殺すだけだ。そして、未来を手にする。
礼を言って部屋を出ようとする俺を、ヴィアージュが呼び止める。
「あと一歩、力が及ばないときには私を呼びたまえ。今日という日は、繰り返しによって因果律が重複しまくっているせいである種の特異点と化しているからね、背中を押すくらいの手助けはできる」
頭首がこの事態に参入してきたことで虚説の実証が進み、正史と少しずつ離れ始めているのだろう。雨が降っていたのがいい証拠だ。
特異点という扱いなのは今は完全な実証が為されていないから。正史の軸と乖離し、かつ実証されてもいない、完全な定義のできない存在だからだ。
そして、そんな環境だからこそヴィアージュが限定的に力を振るえるというわけか。困ったときは頼りにするとしよう。
俺は部屋を出て、雨の中を走り出す。
次回、107:特異点 お楽しみに!