102:ラ・ベルナールの喧騒
女たちが軽い食事などをするためのテーブルで、アイリスとともにおばばを待つ。しばらくすると奥の厨房から紅茶の匂いが漂ってくる。
「ほれ、待たせたね。客用のいい茶葉だ、そこらの茶店じゃ飲めないもんさ」
普段からお茶なんて大して飲まないから、高い茶葉と安い茶葉の違いなんて分からないが、そうやって言われると深みのある味があるような気もする。
一緒に出されたお茶菓子も、大通りの有名な店のものだ。マカロン一つで肉まんじゅうが10個は買える。アイリスによればこれはサービスの一つなのだとか。
庶民には手の出しにくいこのお茶菓子の魅力というのは絶大なようで、酒をそこらにお菓子に夢中に、なんてこともあるらしい。そして彼らは美女と高価なお菓子が食べられたと満足して帰っていくのだとか。店としては酒が売れなくて困るのだろうが。
そんなものを食べるのは畏れ多い気もしたが、俺は食べずにはいられなかった。手に取ったのは苺のマカロン。甘味と酸味が口に広がり、こびりつくような残り方をしないで消えていく。
これは、ダメだ。ここでやめないと止められなくなる。これは満足できるまで食べられるくらいの財力を手にしてからでないと手を出してはいけない禁忌の領域だ。俺も今はかなりの貯蓄があるが、これが定期収入になるまではお預けにしておこう。
ふと前を見ると、おばばがしてやったりというような顔で俺を眺めていた。何か、彼女の策略に嵌ってしまったのだろうか。
「そういえば、なんでこの方をおばば自らもてなしはったんですか? 普段はそんなことされへんのに」
「この男からは、伝手でウチを安く利用しようって思惑を全く感じない。本当に、ただ純粋にカイルに用があるのなら、孫の友人くらい普通にもてなすよ」
「カイルはあんたの孫なのか?」
となればおばばの娘がカイルの母親ということか。あまり似ている気はしないが、魔力特性は父親に寄ったというし見た目もそうなのだろう。
「いいや、あたしとカイルに血の繋がりはないよ。ただ、ウチの店の女は皆あたしの娘なのさ」
なるほど。カイルの言っていた父親に関しての手掛かりになるかもしれないと思ったが、そういうことなら仕方がない。というか俺がおばばに聞くまでもない。カイルが既に聞いているだろうから。
しかし、カイルの父親は誰なのだろうか。あれだけ具体的な魔力特性が残っているのもまた珍しい話だ。
周りの魔力特性が具体的なせいであまり希少に思う機会がないが、多分この部屋にいる全員がおおよそ抽象化され過ぎて名状することさえできないほどに混沌とした魔力特性を持っているだろう。
魔力特性は基本的に遺伝だ。父か母のどちらかの特徴が出るか、両方が複合したものが出るか。稀に突然変異的に全く両親と関係ないものが生まれたりすることもあるが。
だから、何か優れた魔力特性を持った名家などでは子供にその魔力特性を継がせるための結婚をすることもあるのだとか。とはいえそれも近年の、様々な魔術を満遍なく使えた方がいいという論調によって衰退しているらしいが。
「……カイルは、よく働いているかい?」
そう訊ねるおばばの表情は複雑だった。よく働くのはいいことだ。特にカイルはここにいる妹分の為に働いているというし、保護者代わりならばそれは嬉しいことだろう。
しかし、特務分室でよく働くということは、よく殺すということに繋がる。保護者代わりならばそれは嬉しくないだろう。
「ああ、これ以上ないくらいに。俺も何度も命を救われた」
「そうかい。いや、この国と、娘たちのためだってことは判ってるんだけどね」
そりゃそうだ。どんな理由があろうと、罪に問われまいと、それでも殺した事実は何で擦っても消えることはない。あんな快活で心優しい少年にそれを背負わせるのは心が痛むのだろう。
「……確かに危険で汚れた仕事だが、カイルは強い。誰かのために身を張れる、強い男だと俺は思う」
ここではカイルと言ったが、別にカイルに限った話ではない。人が抱えられる命は普通一つだ。だから、誰かの命を抱えようとしたら自分かその人か、どちらかが零れ落ちるのは残酷だが必然だ。
それを覆して、無理無理にでも二つ、それ以上の命を抱えて死地を抜けることができる者は背負ったものの分だけ強い。死を跳ね除ける強さがある。
「あっはっは、昔は臆病ってあたしに叩かれてたカイルが、随分褒められたもんだ。あ、そうそう。あたしがこう言ってたなんて、本人には言わないでおくれよ」
「もう、おばばったらもう少し素直になりはればええのに」
なるほど、カイルが帰って来たくなるのも分かる。おばばやアイリスと話しただけだが、彼女らの仕切るこの店は人間の温かみに満ちている。
この店でリリィを働かせる気は全くないが、こういう環境に置いてやりたいと思う。オルの領主の館も悪くはないが、いかんせん歳の近い女の子が少ない。
「しかしまあ、カイルがあんたみたいな強そうなのと仕事するとはね。未だに信じられんよ」
「俺もそう思ってる。ここに来るまでは、貧民街で殺し屋やってたんだ」
あそこに、人の心など存在しなかった。カイルのような健全な精神で生きていける世界ではなかった。
そういう世界だからこそ、人の温かさが身体の髄まで染みる。乾いた花に水をやるように、ひび割れた心を直してくれる。蔑みなんてもっての外だが、憐みや同情も欲しくはない。
談笑しているうちに、仮眠していた女たちが起き出す。俺が来たせいで起こしてしまったかと申し訳なく思ったが、だいたいこのくらいの時間に起きるのだという。
「あら、アイリスお姉さまその方は!?」
「一人だけ旦那様と抜け駆けなんてずるいぞー!」
どうやら俺のことをアイリスの恋人か何かと勘違いしたようで、きゃあきゃあと騒ぎ出す。起きたばかりだというのに元気なものだ。リリィにもその元気を少し分けてやってほしい。
「あんたたち、静かにおし!」
おばばの一喝で女たちがぴたりと凍り付く。その気迫には例えるならば覇王のような圧があった。しかしその中に確かな温度があるあたりが、彼女の人徳の真核なのだろう。
「年頃の娘が多いから、うるさくなってしもて。堪忍な?」
「俺は気にしてないよ。こういうのも賑やかでいい」
アイリスはこんな風に言っていたが、これは本心だった。なんだか老人臭い物言いだが、若い娘は煌びやかに笑い合うくらいがちょうどいいのだと思う。
アイリスのためにも恋人だというのは否定しなければならないが、別に俺は彼女らの楽しそうな談笑が不快だとは少しも思わない。
歳や好きな食べ物から靴のサイズまで、次々飛んでくる質問にお茶を飲みながら答えていると、厨房側から扉が開閉するような音が聞こえてくる。
「ただいま帰ったっすよ~。みんなそんなに大騒ぎして、誰かお客さんっすか~?」
私はこういうちょっと騒がしい雰囲気結構好きです
次回、102:廻転破砕 お楽しみに!