七
シアは片付けの手を止めてわぁ、と声を上げて喜んだ。
差し出された指輪に夢中になって人差し指にはめた時、乞食をしていた自分が初めてゴダイに声をかけられて、今まで――わずか数日であるが、素晴らしい生活を送れていることが奇跡なのだと思うと、顔の大部分と両耳がかぁっと熱くなってとうとうと涙が流れ出た。
それから数日後、ゴダイの店に手紙が届いた。
蝋で風された封書に入っていた羊皮紙には、先日の詐欺の件と貴公の服装の件、並びにギルドでの逃走の件で昼には出頭するよう書かれていた。
差出人はジャック=ジャン=ウルマ。あの全身鎧の男であった。
ゴダイは、その名の中にウルマが入るだけあって、貴族や王族を連想した。
これがそこらの町人や旅人の誰かだったりするのなら平気で、どうでもよかろう、なんとかなるだろうと普段通り、放っておくところだが、さすがに相手が相手なだけにギルドに出向いた。
「来たぞ」
ゴダイは受付の女に手紙を見せて低く、そして鋭く言った。
女ははっとして席を立ち隣の女にも「これこれこうだからお願い」と言って席を立った。
そうして女はゴダイに「こちらです」と言って付いて来るよう促した。
ゴダイは彼女の言う通りにした。
ゴダイが通された場所はギルドの裏手にある訓練場だった。
真中の壇上の周りには自主的に訓練している男達が、木人形を相手に剣やら斧やら槍やらを振るって汗を流していた。
ゴダイはご苦労なことだと感心した。
「早かったな。詐欺師よ」
ゴダイはその男の声を聞いて、あの出口のない問答を思い出し辟易した。
ジャックは、全身鎧姿で背丈程の槍と先日は持っていなかった大盾を持っていた。
「魔道士、名をゴダイと言ったな。お前のペテンでこの町の者たちは迷惑している。ゆえにウルマ聖騎士団筆頭の俺が正義で正してやる」
「待て、百歩譲って俺が悪かったことになるとしよう。ならばそこらの商人も利益で動いているだろうし、人の格好なぞ誰かに正されるべきではない」
「知ったことか」
ジャックはそう言うと、その大きな槍を構えた。
ここまで来させたギルドの女は、ぶるぶると震えていたが、何とか勇気を振り絞って、
「今から行われるのは決闘です。ジャック様は普段からああなのですが、ゴダイ様に対してはすこぶる気にしてらっしゃるようで」
と言って「逃げてくださいまし、逃げてくださいまし」とゴダイをぐいぐい押してやった。
ゴダイは周りの様子が一変していたことに気が付いた。
どお、という怒号が訓練場に響き渡った。
新米魔道士と騎士団筆頭のジャックが決闘する噂はとうに話好きの町民やウルマを訪れている旅人によって広められ、多くの人々によって壇上の周りが埋まってしまった。
ゴダイは仕方なく壇上に上がって、
「どうも、自分に非があるとは思えない」
と言って嗜めた。
「問答無用」
その時ゴダイは、その、振るわれた槍を見て、自分の処罰の理由がどうとか、人の性格や人格がどうとか考えて、何とか喧嘩、今ならこの決闘を避けることばかり考えている自分がとても馬鹿らしくなった。
ある日突然好きなものが嫌いになったような、冷めた気持ちになった。
彼の二十年前後のそう短くない人生の中で話が通じない相手に遭遇したのは初めてのことだった。
ジャックのなぎ払うようにして繰り出された槍はゴダイの二本の短剣によって防がれた。
「やるな」
ジャックはその槍を引っ込めると、勢い良く突き出した。
これには防ぎ用がないから飛びのいた。
二人を取り巻くものは歓声だけだった。
ゴダイは、両手に握った短剣を腰に差して、つららの用に尖った小さな氷をジャックの真上から大雨のように降らせた。それは、ジャックの大盾によって防がれる。
「魔法とは卑怯なり」
「魔道士が魔法を使って何が卑怯か」
ジャックは大盾を前にした突進でゴダイとの距離を詰め、また距離を取るゴダイを追いかけるように再び大きく薙ぎ払った。
今度はその薙ぎ払った隙に足元を爆発させる呪文をゴダイは放った。
爆発とともに壇上の大小の砂の塊がパチパチとはじけ飛んで、ジャックはそれを大盾では防げず、すっ転んだ。
ゴダイは風の如く駆ける呪文を瞬時に唱え、ジャックの首元へ短剣を突きつけた。
あれだけ、わぁわぁ騒いでいた周りの観客たちは瞬時に静まり返っていた。
「勝負ありです。下がってください」
そう弱弱しい声で言ったのは先の受付の女だった。
ゴダイは決着に安堵するのではなくその受付の女を見て、店にいるだろうシアを思い出した。何も言わないで出て来てしまったから、やはり一言くらいあってもよかったのではと思って、後で菓子でも土産にすれば良かろうと考えた。
そして短剣を三度腰に差し、立ち上がった。
「ジャック様」
その叫びはしん、とした訓練場に映えた。
芯はあるが、か弱い声だった。
この場にいた人々の大半が振り返っただろう。
白いローブの女だ。
皆が皆そう思った。
しかし、男の名を呼ぶ声は虚しいものであった。
雌雄は既に決していたのだから。
だからこそ、その場にいた大半の人々が目を疑った。
どお、という野次馬共の声は、この馬鹿げた決闘の行われている石造りの堅牢な建物の外の誰の耳にも届かんばかりに響き渡った。
壇上に視線を戻せば、倒れていたのはジャックではなかった。
「ば」
ゴダイは馬鹿なことを、と言いたかった。
しかし、その槍で強く突かれたことで声なぞ出なかった。
ジャックの力と槍を扱う技術なら、その薄い胸板を易々と貫きそうなものだが、ゴダイ自慢の装備がそれをさせなかった。
「隙ありだ。ゴダイよ」
ゴダイは呆れて何も言えなかった。何度か咳をしてから、相手に気付かれないように深呼吸した。そしてつっかえつっかえ、
「な、何が、隙、あり、か」
と小さく言い返した。
「最後まで気を抜かぬのが戦いだ。俺はまたあいつに助けられちまったが」
ジャックはそう言って白ローブを見た。
「あ、の、白ローブは」
ゴダイが聞くとジャックは面白そうに、
「あいつはスノウ。俺を高みに押し上げる女よ」
と言った。