二十九
いつの間にか二階のベッドで寝ていたシアは、横丁側の窓から入る朝日のまぶしさに、しまった寝過ごしたか、と飛び起きた。この二度寝は効いた。
不断から早起きが習慣になっている彼女がこうも慌てるのは初めてだった。
それでも店内を掃除して戸口の鍵を開ければいいだけだから、そう大していつもと変わらない朝だった。
ただ、昨日とは変わって、サンドを買ってくる余裕なんてないから、残っていた黒パンをかじって茶を飲んだ。
食べ終わったところへ、びょん、とカウンターへ飛び乗る影があった。
「猫」
黒猫はにゃあ、と鳴いてじっとシアを見つめると、今度は立て続けににゃあにゃあ鳴いて見せた。
シアは腹でも空いているのかと思って、猫は肉食だからと台所にあるものを、あれこれ思い出してみるも肉はないから、また勝手を開けて、
「さあ、そこらのネズミでも何でも食べに行くがよかろう」
そう低い声で言ってみてはにやけた。
すると、またにゃあ、と鳴いてからたたたっ、とS字を描くように軽快に駆けて猫自身の身幅くらいしかない隙間を縫うように出て行った。
猫を見送って、カウンターに戻った。
そうして昼、のこった黒パンを頬張って茶を飲んだ。
午後はどうにも暇で、文字の練習をしようにも羊皮紙の切れ端は使い切ってしまった
し、掃除はもう毎日しているから綺麗であるし、こうなるともう店を閉めてギルドへ行ってしまったのである。
ギルドのカウンターや待合の椅子がならんだスペースもクエストボートの前も人は疎らだった。そこにルイの姿はなかった。
さっそく孤児院の依頼が残っているかとボードを眺めてみると、やはりどれも統一性のかけらもない羊皮紙の切れ端に雑に書かれていたりしてなかなか読み終わるのに時間がかかってしまった。
不思議と孤児院の依頼がないから、シアはもう募集していないのかと、カウンターの女に問うてみた。
女はちょっと待ってくださいと言って、分厚い羊皮紙の名簿のようなものをめくっていって、ああ、と一人頷いた。
「それはもう昨日で期限切れてますね。しかし、孤児院ですか。あそこならボランティアとして食料を届けるなら良いのでは。もちろんお金にはならないし、依頼達成ともなりませんが」
「ありがとうございました」
シアは逡巡することなく行動に移した。まずはパーティーメンバーの確保である。しかしこれが決まらない。そこらにぼつぼついる職にあぶれた者たちに声をかけても帰ってくる言葉は否定的なものばかりであった。
もちろん狼くらいならシア一人でも十分なのだが、町の外に一人で出るなんて危険行為そのものだから、いくら慣れている成熟した狩人さえ、二人以上で仕事にあたるのが暗黙のルールとして根底にあった。
シアはギルドの中にいる者全員に断られてしまったため、とぼとぼと肩を落としてギルドを出ていくのであった。
断った者たちはそのシアを見て、気分の良い思いなぞ少しもしなかった。むしろ助けの手を差し伸べたい気持ちは多分にあったが、金にならぬ仕事は断ざるを得なかった。相応の報酬がなければ食っていけないのは仕方のないことである。
ギルドを出たところでシアを見つけ通りから駆けてくる影があった。ルイである。
「何。今日はギルドに来てるの」
「はい。どうしても孤児院の力になりたくて」
「へぇ。今日はちょっと野菜を置いてきたんだけどさ。今日はもう宜いって。沢山あっても悪くなるだけだから」
「そうですか」
そう言ってシアはほっ、と胸を撫で下ろした。
「何、何。それよりシアももっと食べて、胸もお尻ももっと大きくしなきゃ」
「大きくなんて。そんな」
ルイはそうやってシアをからかって遊んだ。シアははにかんで俯いていたが、悪い気なぞ少しも起きなかった。
「それで店の方は宜いの」
「いえ、本当は店番しなきゃいけないから、今から戻ります。る、ルイさんは」
「私は帰って寝るかな。それと孤児院のことはあまり気にしなくて宜いよ。でも何かあったら力になってくれると嬉しい」
二人で孤児院に行った時のシアの顔色を見ていたルイであったから、何か思いつめていやしないかと心配になって出る言葉であった。
「その時は是非呼んでください」
シアがそう快活に答えるのを見ても、ルイは彼女のことを強い娘なのだろうなとは思わなかった。
一晩の内に元来の調子を取り戻したならばそれは良いことだが、時折シアの顔面にきらめくように差す黒い影が、孤児院の先生や子らのそれと似ていたから心配になった。
「まあ、その、シアもいろんなことがあるでしょうから、何かあったら話せば宜いわ」
ルイは力を付けさせるためにそう言って、二人は会って早々に別れた。シアはルイの言葉の意味が判然としなくて、どういう意味なのか尋ねる前に、さっさと行ってしまったから仕方なしと店に向かって歩き始めた。
大通りを三町ばかりも行って横丁に入ってまた少し歩く。そこに十数人かの兵たちがいて、シアは恐る々々こんにちはと挨拶してはその出来損ないの愛想笑いをぶら下げて通り過ぎようとしたところ、
「おお、君、君」
と言った男の両目が兵達の隙間からこちらを覗いていた。




