~八月五日(夕)~ 長部京子
杏林先生を殺した犯人を捜しに来た私は立ち止まって頭を動かしていた。杏林先生は雑木林で殺された。人を殺した罰を受けて疲弊した犯人が遠くに行けるとは思えない。雑木林の中にある管理棟が身を潜めるに打って付けだと思ったのだけれど、ここでは無かった。だとしたらどこへ?
私は事件の経緯を思い出す。
八月一日 政樹くんが漂流してくる。
三日 犯人が落ちていた財布から三万円を盗む。
四日 犯人の刑が執行される。
杏林先生が診療所から出かけ、般若として犯人に付き添う。
私が診療所に行くと、杏林先生はいなくて、政樹くんがいた。
五日 杏林先生が雑木林で死んでいた。
政樹君が捕まって、牢屋に入れられる。
そして今。犯人はどこへ身を潜めたのか。この島の外には出られない。この逢十島は、東京から船で八時間かかるような場所にある島。本土との連絡船は月に一本しかない。次の連絡船が来るのは八月二十四日。三週間後である。つまり、あと三週間はこの島から出られない。
いや、漁船にでも潜り込めば島から脱出出来るのかな。漁船では本土まで行くには心もとないけれど、島から逃げるなら背に腹は代えられない。一か八かで漁船で島を出たかもしれない。だとしたら手が付けられない。島の外に出られてしまっては、もう追いかけて捕まえることが出来ない。
そう考えた私は、港に向かった。
港といっても本土ほど立派な波止場があるわけではない。木製の橋に漁船が四隻ほど乱雑に停めてあるはず。この島の漁師は怠け者だから二日に一回しか漁にでない。昨日は漁に出ていたから今日は四隻ともあるはず。
十分程歩いて港に到着した。港にはいつも通り四隻の船が停泊していた。
「ここでもなかったのかしら」
念のため、船の中を覗いて回ったけれど誰かが隠れているなんてことはなかった。
時間を無駄にしてしまった。今日中に犯人を見つけないといけないのに。犯人は一体どこへいったんだろう?
私は頭を落ち着けて考えてみる。もし私が犯人の立場だったらどこに身を潜めるか。雑木林から遠くない場所で人目に付かない所。犯人の気持ち。犯人、犯人?
そういえば犯人って誰だ? 昨日窃盗を犯したのって誰だ? 私は名前を聞いていない。どこの家の誰だ?
私は一度自分の家に戻った。藍十島の人口は二百人程度。島人全員の生活は村長に管理されているといっても過言ではない。罰を受けたなら村長が記録しているはず。私は家の中にある村長の仕事場に忍び込んだ。忍び込んだといっても私も普段から出入りすることがあるから、周囲の人からみたら不自然ではない。村長の孫で良かったと感じた。
島人の管理帳を探す。丁寧に整頓されていたので見つけるのは容易だった。村長の孫娘である私も数十年後には島人の管理をしている可能性が高い。
ページを捲って最近罰を受けた人を探す。二百人程度から探すのは大して難しくない。
「あった」
犯人の名前は中森武。この生年月日だと今は三十八歳。私とも何度か会ったことがある。会った時の印象は覚えていないけれど。
中森武の住所を確認する。
「雑木林の近くだわ」
なんてことはない。中森武は杏林先生を殺した後、自分の家に帰ったのだ。家族がいなければ自分の家が一番人目に付かない。むしろ家族が匿っているかもしれない。
島人の管理帳から家族を探す。父親も母親も死んでいる。結婚はしていたが、離婚している。子供はいない。帳簿の上では一人暮らしだ。この島で一人暮らしは珍しい。普段は野菜の畑で生計を立てているようだ。
既に捜索を開始してから二時間が経とうとしていた。家にあった牡丹餅をつまんでから中森武の家に向かう。朝から歩いたり喋ったりで身体には疲れが溜まっていると思うけれど、全く感じなかった。政樹くんの眼を思い浮かべると、いくらでも走れそうな気がした。
中森武の家に向かう。三十分もかからない距離にあった。古びた平屋。裏には農具小屋と畑も見える。
「よし」
私はリュックを地面に降ろした。リュックのファスナーを開けて薙刀を取り出す。折りたたんであった薙刀を組み立てて、振れる状態にする。
相手は猟銃を持っている可能性が高い。薙刀で猟銃に対抗するには、出会い頭でこちらが攻撃して致命傷を与えるか、猟銃を落とさないといけない。相手が猟銃を構えるより早く、薙刀で斬りつける。一瞬の勝負だ。
早まる心臓の鼓動は簡単に抑えられる。落ち着いて、落ち着いて。今からする行動をイメージする。家の扉を勢いよく開ける。犯人を視界に入れる。薙刀で斬りかかる。
ミスは私の死に繋がる可能性まである。失敗は許されない。襲撃の練習はさっき一回した。
失敗する気がしない。ここで成功させないと政樹くんが処刑されてしまう。そんな不安は微塵もなかった。私はこの島を変える。村長が支配するこの島を、もっと皆が納得出来るようなものに変えていきたい。
息を整える。覚悟は出来た。
心の中でカウントダウンをする。
三
二
一
突入。
中森武はあっさりと捕まえられた。薙刀を構えた私を見るなり観念した顔で両手を挙げた。
私は中森武を紐で縛った。中森武は特に抵抗する素振りも見せずに私に従った。人を紐で縛った経験などなかったから、雑な縛り方になっているのだと思う。それでも中森武は大人しく捕まっていた。私に見つかった時点で抵抗してもいずれ島の誰かに捕まることを察したのだろう。
私は縛った中森武に薙刀を突き付けながら、村長の元へ向かった。村長も真犯人を連れて行けば政樹くんを釈放せざるを得ないはず。
三十分ほどかけて村長の家である私の家に到着した。道中、島の人に見られたけれども、怪しまれるようなことはなかったはず。村長の孫娘である私が罪人に罰を与えていると思われただけだろう。
村長の仕事場を覗いてみたけれど、村長は見つからなかった。 もしかしたら、政樹くんのところかもしれない。そう思って、家の地下牢の方へ行ってみた。
案の定、政樹くんと村長の声がした。
「それで、それが分かったところでお前に何が出来るのじゃ? お前は明日には予定通り刑が執行される。そんな自分勝手な妄想など、誰にも聞き入れてもらえまい」
事件の真実とは関係無しに、政樹くんは処分させられることになっているらしい。
「この島には裁判はないのかよ? 事件とは関係のない第三者に真偽を図ってもらうことはしないのか?」
「必要無い。島で起こることは儂が全て把握しておる。儂が全て裁けばよい」
とんでもない司法制度だと思う。一体、何世紀前の政治感覚なのだろうか。
「日本の司法制度に則って、弁護士の要請をする」
「ならぬ。お前は何も喋ることなく、死ね」
村長はすごく直接的な言葉を吐いていた。もう少し裁判長らしい判決の言葉はないのだろうか。
「弁護士の資格はないけれど、被告人の主張を全面的に肯定し無罪を主張するわ」
私は政樹くんの弁護を請け負う宣言をした。ついでに傍にあった電灯のスイッチを入れた。暗闇だった牢屋に灯りが燈っていく。
政樹くんと村長の顔が見えるようになる。村長の顔はどうでもいい。
政樹くんの顔が見たかった。政樹くんの眼を見たかった。
世界を正しく見ているような、そんな眼を。
「世界を正しく見ているような?」
私の表現に政樹くんが疑問を投げかけた。
私が中森武を牢屋に連れて行くと、村長はすぐに政樹くんを解放した。その後、中森武の処遇は村長に任せた。村長は政樹くんに謝罪もなく、ただ杏林先生の家で大人しくしているように命じた。政樹くんはそのことに不服そうな様子はなかった。ただただ安堵して、私に思いつく限りの感謝の表現方法を披露してくれた。
村長と顔を合わせたくなかった私は、政樹くんと一緒に杏林先生の家に向かった。今日は自分の家に帰る気分になれない。杏林先生の家に着くと、今日動いた分の疲労がどっとやってきた。政樹くんも牢屋にいた気疲れか、二人で畳の上に並んで寝転がった。暫くは二人とも黙っていたけれど、体力が少し回復してきたころ、私は口を開いた。政樹くんと牢屋で別れた後、中森武を探して島を歩いた様子を話した。
雑木林の管理棟に行ったけれど犯人は見つからず、船で逃げ出したかと思い波止場に行き船を確認するも見つからず。村長の仕事場に行き、島人の管理帳から中森武の住所を特定した。中森武を捕まえて政樹くんの元へ辿り着いた。
「そう、政樹くんの眼は世界を正しく見ているような気がするの」
「どういうこと?」
どういうことだか説明したいけれど、自分の感覚の問題だから説明しにくくてもどかしい。
「この島って外部の人とほとんど関わらないの」
「うん」
政樹くんは深く共感したように相槌を打ってくれる。
「この島の人間は、この島での生活が全てで、この島で正しいことは全て正しくて、この島以外のことを見ることも考えることもしない。この島が世界の全てだと感じているの」
東京から船で八時間かかるような場所にある島である。本土との連絡船は月に一本しかない。外部との交流はほとんどない、日本に属してはいるけれど、独特の文化や風習や司法や刑罰が残っている。日本のものと比べたら文明文化の発達が遅れていて幼稚とさえ感じられるようなものだ。
「政樹くんの眼はこの島の人間の眼とは違うの。閉鎖された狭い島を世界の全てと信じて疑わないような狭い視野の眼ではなくて。政樹くんの広い世界を見てきて、それでもまだ満足せずより広くより深く正しく世界を見ようとする眼なの」
政樹くんは首を傾げていた。
「そんなこと、眼を見ただけで分かるものなのか?」
「なんとなくよ」
「なんとなくで、そんな難しいことが分かるんだ?」
「なんとなくだからね。私は人を見る目はあるつもりよ」
「そうなの?」
島から出たことのない閉鎖的な人間がそんなこと言っても説得力ないような気がするけれど。
「だって一目見ただけの政樹くんを犯人でないって信じられたし」
政樹くんは眼を丸くしていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
一目見ただけで全幅の信頼を置けるなんて、理性の欠片の感じられないけれど。
一目惚れってそんなものだと思う。