~八月四日(朝)~ 寺子政樹
目を覚ますと杏林さんは診療所の掃除をしていた。
「おはようございます、杏林さん。手伝いますよ」
「おはよう寺子くん。ありがとう。そこに箒があるから使ってくれ」
僕は箒を使って玄関先の掃除をすることにした。
良い天気だった。自分が漂流したとは思えないくらい清清しい日常感だった。
「ふぅ」
あらかた落ち葉を寄せ、不要な砂利を取り除き、綺麗になって戻ろうとしたときだった。
「はぁはぁ、………はぁはぁ、…………」
男の人が息を切らせて歩いてきた。背中に籠をしょっていた。ひどく疲れているらしく、かなり重い足取りだった。
男の人は背中の籠から小さな石を手に取った。籠には10センチ程度の石が大量に入っている。 総重量は20キロを超えているだろう。見ているだけでも重くて辛そうだ。
石を一つ玄関に置くと、再び重い足取りで去ろうとした。
「大丈夫ですか?」 僕は男の人に声を掛けた。
男の人は死んだような顔でこちらを見た。
それと同時に、唐突に僕の前に般若面の人が現れた。
「え?」 僕は驚いて立ちすくんでいた。
般若面。嫉妬や恨みの籠った顔を模した面。能などの伝統芸能で使われるお面。日常生活で使う場面はほぼ無い。そんな面を被り、まだら模様の装束を身に纏い、手には猟銃を構えていた。
そして石を背負った男と般若面の人は何も言わずに去っていった。
ただならぬ雰囲気を感じて、僕はその様子を呆然と眺めていた。
杏林さんに石を置いていった男の話をした。
「なんだったんでしょうか?」
僕が杏林さんに尋ねると、杏林さんは難しい顔をした。
「島の風習だよ」
「島の風習?」
「この島には独特の風習が残っているんだ。あれは罰なんだよ」
「罰ですか?」
「ああ、人の物を盗んだ人間にはああいった罰が与えられるんだ」
杏林さんは話したくないという感情がありありと顔に出ていた。
「人の物を盗んだら、まず盗んだものを返す。返せない場合は相当の金額を返す。
加えて、盗んだ物と同等の価値の石を島中の家に配って歩くんだ」
「同等の価値の石?」
「ああ、石の価値は一つ一円くらいで計算される。彼は落ちていた財布から三万円を盗んだ。だから三万個の石を運んでいるんだ。食事することもなく寝ることもなくずっと石を運び続けるんだ」
「食事することもなく寝ることもなくずっと?
そんなこと出来るんですか?」
「いや、無理だよ。途中で力尽きて倒れるんだ。
途中で膝を突くと、後ろで監視している執行人に銃殺される」
あの般若面の人は犯罪者を監視している執行人だったのか。
「逃げ出そうとしたり怪しい行動をしたりしても銃殺される」
「それって、実質死刑ですよね?」
「ああ、そうだ。人の物を盗んだら死ぬ。この島での決まりだ」
僕は理解が追い付かなかった。島の決まりだからといって、法律に定められた以上の刑罰を私人がしてよいのか?
「ここ日本ですよね?」
「ああ。法律的には日本だけれど、日本の法律は関係ない。島には島の掟がある。
君も迂闊に島の人間と関わらない方がいい。島の掟に触れると最悪、身を滅ぼす」
僕は背筋に何かが通るのを感じた。
「分かりました。僕はなるべく島の人達との接触は控えます」
僕は震える口を無理矢理動かして冷静さを取り繕った。
逢十島は人口二百人程度の小さな島だと聞いている。こんな小さな島なら排他的になるのも分かるし独特な文化や慣習もあるだろう。僕は三週間後には帰る余所者だ。藪をつついて蛇を出してはいけない。
「そうしてくれると助かる」
杏林さんは冷たくも感じられる声を口にした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
杏林さんは白衣を着て回診に出かけた。僕は診療所で留守番をすることになった。誰かやってきても「先生は留守です」と言うだけの仕事である。
しかし、こうなるとすることが無かった。本来なら勉強すべき受験生なのだが、勉強道具も何も無い。それ以前に勉強するような集中力も湧かない。
畳に転がって考える。僕はこれからどうやって生きていくのだろうか。無事に東京に帰られるのだろうか。両親は無事だろうか。案外、僕とは違う島に流れ着いて五体満足で東京に帰っていないだろうか。無事に東京に帰っているなら僕が無事であることも連絡したい。しかしこの島は東京との連絡手段が月に一回の定期船しかない。
つまり、気を揉んだところで何もできない。無力感が自分を蝕むだけだった。
そんなとき、玄関のベルが鳴った。
「すみません。杏林先生おられますか?」
僕は玄関に早足で向かった。
そこにいたのは四十代くらいの女の人だった。
「すみません。杏林先生は回診に出ています」
僕は用意していた言葉を口にする。
「あら、あなたは?」
女の人は僕を見て訝しむ。人口二百人程度の小さな島だと見知らぬ人間と会うことが珍しいのだろう。警戒心が顔に見て取れる。
「ここでお世話になっている寺子政樹です」
「寺子? 聞いたこと無い苗字ね」
「東京からきました」
女の人はそれで納得したらしい。
「ああ、あなたが例の」
僕が漂流してきた人間だと分かったらしい。
「わたしの名前は海原あゆ。先生の隣の家に住んでいるの」
女の人は持っていた荷物を俺に渡してきた。
「これ、先生のために作ってきたやつだから。あなたも一緒に食べなさい」
「ありがとうございます」
僕がお礼を言うと、海原さんは帰っていった。
台所に行き、時計を見る。十一時三十八分。僕は海原さんがくれた鯖の味噌煮を食べた。母の作る味噌煮より塩が利きすぎている気がした。
畳に転がったまま、うとうとしていた。時計は三時を回っていた。そろそろ杏林さんが帰ってくる頃だ。
「すみません」 玄関から声がした。杏林さんのものではなかった。若い女の人の声。
玄関にいた女の人は浴衣を着ていた。歳は僕と同じくらいの高校生に見える。
「杏林先生は回診で出かけています。もうすぐ帰るとは思いますが」
僕は用意していた言葉を口にした。
「あら、あなたが本土から来た人ですか?」
「ええ、寺子政樹です」
「私は長部京子と言います。よろしくお願いします」
丁寧な物腰の人だった。同じ高校生というか、現代の高校生に見えなかった。もっと昔、江戸時代くらいの作法のように感じられた。いや、現代でも華道とかではこんな丁寧な立ち居振る舞いをするのだろうか。
「先生がいらっしゃらないのなら、これを渡しておいてもらえますか?」
長部さんはそう言って僕に大きめの封筒を渡した。
「確かに預かりました」
「それでは失礼します。先生によろしくお伝えください」
長部さんは一礼して帰っていった。
その日、杏林さんは帰ってこなかった。