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蒼い月  作者: 筑前助広
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第二回 誘い

 慈恩密寺の山門を潜ると、山桜の樹がある。

 春になると立派な花を咲かせるこの大樹を、求馬は嫌いだった。

 それは、否応なしに首を括った母を思い出すからだ。満開の桜の樹にぶら下がった、母。その日の光景は、既に過去の出来事として整理してはいるが、やはり思い出したいものではない。

(侘びた枯れ桜の方が美しい)

 などと、思いながら桜をやり過ごし、本堂の裏手にある庫裏に向かった。

「久し振りだな」

 訪ないを入れた求馬を、尚憲が笑顔で出迎えた。

 尚憲は旅焼けしていた。色黒く、四十路を越えた身体がますます引き締まったように見える。

「先生もお元気そうで」

 住持にも挨拶をと思ったが、どうやら夜須へ遠出をしているらしい。

「二年。全国とは言わないが、様々なものを見て、聞いて、学んだ。この歳になっても、学ぶべき事は山ほどあるものだな。私はまだまだ未熟だと思い知らされた旅になった」

 生真面目に言う尚憲に、求馬は久方振りに笑顔を浮かべた。

「そのお話を伺いに参った次第です」

「私もお前に話を聞いてもらいたいな。さ、奥で話そう。般若湯はんにゃとうもある。いや、茶がよいか?」

「般若湯を。明日は非番ですので」

 そう答えると、尚憲は頬を緩め求馬を奥に導いた。

 尚憲の私室は、本の山だった。雑然とはしていないが、量が多く狭く感じる。入るのは久し振りだが、以前と変わってはいない。

「月が美しいな」

 尚憲が言い、求馬は頷いた。

 雨戸は開けられ、蒼い月が見えている。寒々とした晩秋の夜気を肴にでもするつもりなのだろう。尚憲は学問だけでなく、こうした風流を解せる男なのだ。

 向かい合って座ると、初老の寺男が酒を抱えて現れた。尚憲が京都で購った酒だと言った。口当たりが柔らかく、上品な味わいだという。

「私も土産が」

 と、芳野が拵えた漬物を差し出した。

「これは?」

「間引き大根の漬物でございます」

 包みを開いて、求馬は差し出した。

「ほう。これは旨そうだな」

「口に合いますかどうか」

「ふふ、どれ一つ」

 尚憲が、指で摘まみ口に入れた。噛み砕く小気味良い音がする。そして、酒。胃に流し込み、

「盃がすすむ」

 と、膝を叩いた。

 求馬も、漬物で盃を呷った。尚憲の言う通り、上品な酒だ。そこそこ値が張るだろう。ただ、些か上品過ぎるとも思える。

「今『般若湯』を『酒』と言いましたね。先生も、存外生臭を忘れられぬようで」

 求馬が含み笑いを見せると、尚憲は照れた様子で剃りあげた頭を撫でた。

「私は武士が嫌で出家したようなものだが、生臭までは捨てられんな。酒も女も未だ断てぬわ」

「それは豪気ですね。いっそのこと、武士に戻られては?」

「まさか。武士なぞ真っ平ごめんだ」

 とは言え、尚憲の体躯は頑強で剃髪さえしてなければ、そこらの武士より逞しく見える。ましてや、二年前に比べ陽に焼けているのだ。それが厳つさと、歯の白さを妙に際立たせている。

「ところでだ。所帯を持ったらしいではないか。住持から聞いたぞ」

「ええ。もうすぐ半年になります。木内村きうちむらの庄屋の娘で、名は芳野と申します」

 芳野は今年で二十歳になる。徳衛門という庄屋の娘であるが、何かと苦労しながらも武家に溶け込もうとしている。

「徳衛門というと、あの大庄屋のか?」

「はい」

「なるほどのう。住持は中々の器量良しと評していたが」

「いや、然程の事は」

 と、否定はしてみたが、芳野は器量良しと言われる事が度々ある。だが求馬には、それがよく判らないでいた。特に興味が無いのだ。故に、その外見に心を動かされた事も無い。

「しかし、武家の娘は娶らなんだか……」

 返す言葉が見つからず、求馬はただ目を伏せ、酒を口に含んだ。

(武家の娘を娶ろうにも……)

 痴情の縺れから家老を殺した罪人の息子に、わざわざ娘を嫁がせたいと思う武家が無いのだ。幾ら無罪と信じても、世間は父を家老殺しとしてしか見ていない。父の汚名を晴らせぬ内は、妻を迎える事など無理だろうと思っていた。

 そうした中で、芳野との縁談が宇美津奉行から持ち込まれた。芳野とは元々顔見知りで、明るく気立てのよい人柄は、人として好ましいものと思っていた。だが、それはそれだけで、恋愛感情は湧かなかった。それでも結婚したのは、宇美津奉行が大庄屋の徳衛門と繋がりを持ちたいという思惑を無視する事は出来なかったからだ。徳衛門としても、奉行所を味方にしたいという狙いもある。この縁談には様々な打算が絡んでいた。

 芳野を嫌いではない。だが、好きかと聞かれたら、自分でも判らなかった。惚れる、という気持ちを知らないのだ。今まで、誰も好いた事がない。それに、この結婚も計算をした上の事。芳野は気が利くし、朗らかとして明るい。一緒にいても苦にならず、何かと便利である。求馬には、嫌いではないというだけで十分なのである。

「ま、武士の娘を迎えると、家同士で色々厄介だからな」

「ええ」

「この漬物は、妻が拵えたものなのですよ」

「どうりで旨いはずだ。百姓仕込みというやつかな」

「そうですね。武家に嫁いでも、百姓癖が抜けません」

 それから、役目の話をした。

 村々を廻るという役目を、求馬は気に入っていた。この国を支えているのは、紛れもなく百姓。その実情を身近で見る事が出来るのは、貴重な学びに繋がる。歩いてまわる事で、身体を動かせるのもいい。宇美津の奉行所にいては、どうも息が詰まってしまう。

「先生。ところで、旅のお話を聞きたいのですか」

 一通り語り終えた求馬は、そう言って話を切り替えた。

「ふむ、そうだな」

 尚憲は猪口を置くと、背筋を伸ばして腕を組んだ。

「旅をして実感したことがある」

「それは何でしょうか?」

 求馬は、待っていたとばかりに食いついて訊いた。

「この国が、もう持たんとしている」

「それほどまでに」

「ああ。幕府が開闢し幾百年。かつて戦乱を治めた徳河も、今は本邦を腐らせる病巣と化している」

 尚憲はそう言い放ち、庭の外に目をやった。蒼い月の光が、石庭を照らしている。

「まず、私は東北に向かった。過酷な暮らしをしていると聞いていたからだ。事実、百姓は飢饉に喘いでいた。だが武士と、それに繋がった商人は肥えていたな。行っている政事も、苛政と呼べるものであった」

「東北は寒く、厳しい地だと聞きました。だから一揆が起こりやすいとも」

「そうかもしれん。確かに一揆の機運はあった。民衆が、武士を信用していない。倒してやる、と言わんばかりの目をしていた。一揆は潰されるであろうが、遠からず起つであろうな」

 求馬は、杯の中に目を落とした。彼の地では、このような酒も飲めないのだろう。同じ時代、同じ国であろうと、生まれ落ちた場所や身分で人生が変わる。当たり前な事であるが、それでいいのかとも思う。

 東北をひと回りした尚憲は、船で博多まで南下したと話した。西国は驚くように豊かで、土地の学者と語らいながら上洛を果たしたという。

「羨ましいものです」

 京都は、求馬にとって憧れの地である。それは敬うべき帝と、守るべき禁裏があるからだ。

「今、天下の勤王家は続々と上洛を果たしている。そして互いに交流し、朝廷とも結び付こうとしている。私も宇崎安斎うざき あんざい村下鯨虚むらした げいきょ浅井望東楼あざい ぼうとうろうなどと昵懇になり、『宇美津に尚憲あり』と知らしめてきたぞ」

 宇崎安斎、村下鯨虚、浅井望東楼と言えば、雄藩にも招かれる高名な学者である。その門下には、多くの勤王青年が通いつめていると聞く。彼らとと尚憲が並ぶと思うと、弟子である事が誇らしくある。

「ただな。京は地獄だ。もし、地獄が現世にあるとすればだが」

「地獄ですと?」

 思わぬ言葉に、求馬は我が耳を疑った。

「食い詰めた浪人や胡乱うろんな輩が跋扈している。公家の屋敷にまで盗賊が押し入るだけでなく、中には盗賊を手下として飼う公家もおった」

「……俄かに信じられません」

「さもあろう。勤王家を名乗る武士の中にも、賊働きを行う破落戸ごろつきもいる。悲しい話だが」

「勤王の名を穢す所業ですね、それは」

 求馬はそう言い捨てると、漬物を一つ頬張ると力いっぱい噛み砕いた。

「して、この現状が何を意味しているか判るか?」

 尚憲は、時折会話の中に問いを織り交ぜてくる。間違えると露骨に冷めた視線を向けられるので、何時も気を抜く事が出来ない。

 ただ、今回の答えは簡単だった。

「幕府の怠慢」

 と、求馬は自信満々に断言した。

「そうだ。諸悪の根源は幕府の怠慢、いや田沼の独裁にある。で、その理由は?」

「帝を尊ばず、朝廷を奉らないからです」

「心情的にはそうだろう。だが、この話を聞けば考えも変わろう」

「それは何でございましょう?」

「遷都だ。田沼が開国のみならず、遷都も言い出した」

「なんと」

 思わず、驚きの声を挙げた。

「遷都とは、何処に?」

「江戸だ。京は危ないからと、江戸を都にするという計画がある。いや、京の治安悪化を黙認、或いは裏で促し、遷都の理由にしようとしたのだ」

「しかし、これまで京は千年もの間、本邦の都でした。それを」

「出鱈目な話だろう。だが、幕府はそれを朝廷にちらつかせた上で、今川丹後いまがわ たんごを禁裏御守衛総督として禁裏に派遣する事を認めさせた。幕府は、遷都するか朝廷内に幕吏を入れるか、二者択一を迫ったわけだ」

 今川丹後という男は、雅文化に通じているだけでなく、文武に秀でた切れ者だと、尚憲が説明した。つまり幕府は、勤王潰しに本腰を入れたという事である。

「何とも悪辣な」

「田沼としては、勤王家とそれと交わる公家の首根っこを抑えておきたいのだ。遷都する気はそもそも無いのだろうが、実際に遷都を行ってもよし、せずに禁裏御守衛総督を派遣して、朝廷の監視役にしてもよし。断じて許せぬ事ではあるがな」

「これは常軌を逸した暴挙。私は幕府の増長は看過出来ませぬ」

 そう言うと、尚憲が鋭い視線を投げかけてきた。

(う……)

 求馬は、思わず息を呑んだ。その眼光には、坊主とは思えぬ凄みがある。

「本当に、そう思うか?」

 低い声だった。突然の変貌に気圧され、求馬は小刻みに頷いた。

「お前だから言うが」

 尚憲はそう言うと、ひと呼吸の間を置いた。

「私は幕府に叛き、乱を起こす」

「……」

「正確には、私達である。江戸に橘民部たちばな みんぶという軍学者がいる。その男が、全国から同志を集め義軍を興す。私もそれに参謀として加わる腹積もりでいるのだ」

 尚憲が得意げに言ったが、求馬はその言葉の意味を飲み込めずにいた。

(幕府に叛く?)

 幕府と戦うというのか。確かに、幕府は悪辣で許せない。だが腐敗しているとはいえ、未だ強大である。その幕府を相手に戦をしようなど、正気の沙汰ではない。

「私と共に、戦わないか?」

「私がですか?」

 尚憲が頷く。眼が冗談ではないと、物語っている。

「……」

 やろう、と思った。

 自分は、勤王の志士なのだ。志がある。その為に生きようと誓い、尚憲に付き従っている。両親を失った日に、自分も死んだと思い定めた命。志の為ならば、惜しくはない。それに、幕府とそれを助ける夜須藩は、親の仇とも言える存在だ。迷う事は無い。

「どうだ?」

 答えようとした、その時にふと、芳野の顔が浮かんだ。

 笑っていた。庭の菜園で、土いじりをしている。顔には泥。それを縁側に座って見ていた俺は、

「それでも武家の妻か」

 と、呆れて笑うのだ。以前の記憶に、胸が熱く、そして痛んだ。

(芳野に惚れているのだな、俺は……)

 叛乱に加担すれば、芳野は間違いなく罪人になる。離縁する手もあるが、それでも罪人の元妻という汚名は付きまとう。

(何より、もう芳野の笑顔を見る事が出来ぬ)

 それは嫌だ。すると俺の志は偽物なのか。芳野がいなければ、俺は乱に加担したであろう。

 しかし、今は――。

(志か、妻か……)

 尚憲が、熱心に語り続けている。橘民部について、後ろ盾となっている公卿について、計画について。

 だが、耳には入らない。

(選べるのか、俺に)

 求馬は、唇を強く噛んでいた。

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