第三話
「あまり抽象的な表現は好きじゃないけど……嫌な感じがするんだ」
ゆっくり、ゆっくりと彼は言葉を紡いで私の背に投げかける。
「君が拾ったものを見た時にそう思った。理由はうまく表せない。でも、そう思っている。関わるのはやめた方がいい」
「知らないふりとか、見なかったふりをすればいいじゃない」
「僕にそれが出来たら僕じゃないだろ、よく知っているはずだ。言わなきゃ後悔するのだから」
だから言うんだよと彼は言う。
「言いたいことは言わねばならない。後悔する前に言わなくては、取り戻すことなんてできないんだから。僕はもう既に昨夜という機会を逃してしまうような弱い人間だから、もう一秒だって無駄にはできないんだ」
何が言いたいのか、私には分からなかった。
勿論彼が止めようとしていることはわかる。言っている内容は痛いほど良く分かる。そうではなく、どうして私がユキと夜鳴さんを追って部屋に戻らないように言葉をかけているのかということだった。私がそう捉えているだけかもしれないけれど、そんな誤解をしてしまうくらい、彼の言葉は必死さを隠し持っているように思えた。
「だから、なんなの」
「うん?」
言い分は分かる。その思いも、不覚ながら嬉しい。
だからなんだというのだろう。
「何か、意味があるのかな」
未来へ繋がらないことに、意味なんてない。
あなたがどれだけ心配してくれようと、私達は戻れない。
戻れない。
「手に入れたいものがいつも近くにあるなんて、そんな甘い話ってなかなかないわよね」
ユキは微笑む。
「あの二人、焦れったいじゃない。ねえ?そう思わない?」
「……僕はよく知らないんだけど」
「あれ、そうなの?」
「昨夜会ったばかりだからね」
まじかー、とそんなに驚いてもなさそうに彼女は言ってみせる。
「どうして君が沙月の家にいるのか、ぜひ知りたいところだけど」
じぃっと僕の瞳を見つめたユキは、ややあって軽く肩をすくめた。仕方ないなぁと言っているようにも見える。耳元で銀色のピアスが揺れている。
「今はいいや、後で訊く。それより外にいる元彼くんのほうが重要だからね」
「元彼なんだ」
ショック?と楽しそうに訊かれても、不思議と悲しさや驚きの感情は湧いてこなかった。ただ、どうしようもない虚しさが胸を満たすのはどうしてだろう。
「お互いに別れても気にしあってる。手が届くうちに手を伸ばした方がいいと、そう思わない?」
記憶の奥底、もうずっと遠くなってしまったあの日のことを思い出す。手を伸ばしても届かなくなってしまった彼女のこと。手を伸ばすことすら許されなくなってしまった、彼女のこと。僕と沙月さんの元彼を重ね合わせると、自然と飲み込みやすくなる。
手を伸ばせるなら伸ばした方がいい。
後悔しないように、しないように。
そう気を配って生きていても後悔するのが人間だと、僕はとうに知ってしまっているのだけれど。
「そうだね」
僕は同意した。
「でしょ?だから、丁度いいし連れてきたの。昨夜君らを見かけたことでうじうじ悩んでいたみたいだったから、あの頭でっかち」
そういうことだから協力してね。
ユキに言われるまま、僕は頷く。
急いで家のドアを開けると、ユキは相変わらずにやにやとこちらを眺めていて、夜鳴さんといえば、苦笑いに近い微妙な表情をしていた。ああこいつは全部話したのだなと、どうしてか腹のそこからむかむかした熱いものがこみ上げてくる。
「ユキ、どういうつもりかな」
「話し合いは終わったわけ?」
「話し合いも何も」
話し合うことなど何もない。
私の態度が気に食わなかったのか、如何にも不服そうに鼻を鳴らしたユキは、私の方を……正確に言うと私の背後を睨んだ。
「日野、この、根性なしめ」
「言うべきことは言った」
日野。
私の元彼はいつも通り淡々と言葉を吐く。その態度がさらには嫌いらしいユキだが、そのくせ私たちの間に入ってくるのだから彼女の考えていることは良く分からない。
「とにかく!」
私は声を張り上げる。日野との関係を夜鳴さんに知られてしまったことが、何か取り返しのつかない失態に思えて嫌だった。まだ何も失敗していないはずなのに、私は一体、何を気にしているというのだろう?
「二人共、帰れ!」
「えーやだやだ、ここはお茶の一杯くらい」
「か!え!れ!」
駄々を捏ねるユキの肩を掴んで、ぐいぐいと玄関に押しやる。
「日野」
久しぶりに呼ぶと、彼は何も感じていないかのような無表情さでこちらを見た。
「責任持ってこいつを持ち帰って」
「僕に何の責任が、」
「いいから!」
横暴だなんだと叫ばれる文句ごと締め出すべく、無理矢理ユキを外へ押し出して扉を閉めた。力の加減が上手くいかなくて、大きな音が鳴った。まだ朝だというのに、近所迷惑もいいところである。
「……なんて騒がしい」
ユキがうるさいのはいつもの事だけど、日野まで連れてくる辺り質が悪い。
ため息を1つ吐いて、ぼうっと立っている夜鳴さんに向き直る。
「朝からごめんなさい」
「むしろごめんね、僕のせいだったみたいじゃないか」
「そんなこと、」
「日野くんは心配していたんだろ?」
……まあ、そういうことになる。
お節介なのは昔からだし、見たものを放っておけないのも昔からの癖である彼は、付き合っていようがいまいがお構いなしらしい。ユキに言わせれば「かつて付き合っていたから」なのだろうけれど、私はそうは見ていなかった。彼はいつも、自分が許せないことを許さないだけなのだ。
「よかったの?」
夜鳴さんが言った。
自分がここにいてよかったの?
日野くんを追い出してよかったの?
本当に、これでよかったの?
「ええ、これでいいんですよ」
私は精一杯、なんでもなさそうに言った。その後に出てしまったため息だけは、隠しきれなかったけれど。
「……何か飲みます?」
気を取直して訊きながら、どうしてか、私は窓の外を見ていた。今日もよく晴れていて、健康的な青空が私達を見下ろしている。霞むように浮かんだ白い雲を横切って、夜色の鳥が一羽、どこかへ飛んでいく。
日野は元々色白で不健康な見た目だけれど、夜鳴さんと比べるとむしろ健康的すぎるように見えるのだから、この人は本当にすごい。
私の目線を追うように空を見上げた彼だけど、もうそこには、ただの明るい地球の天井があるばかりだ。黒い鳥はどこかへ行ってしまった。
「勿論、水で」