第二話
夢を見るのは嫌いだ。
目が覚めれば消えてしまうような不確かなものに意味なんてないと思う。そんな存在に一喜一憂するなんて馬鹿馬鹿しくて、それでも夢を見てしまう自分に嫌悪して、朝が来るのは憂鬱だった。
夢、夢なんて。
そんな私に、うんざりするほど現実主義な彼氏が出来たのは当然のことだったと思う。記憶の糸を手繰ってみれば、私は別に、彼に惚れていたわけではなかった。あんまりにも夢見がちなことを言わない人だったから、気が付いたら告白していた。
楽だったからなのかもしれない。
夢を見るのは疲れるから。
「沢村さんに会ったことはないんです」
顔も知らぬ、どこの誰かも分からない沢村さんは、私の金銭面を援助してくれている。もうなんとかなく察している所はあるけれど、間違いなくこれは母親のコネなのである。どういうコネなのかも想像は難しくない。でも、しない。
そして有理は単なる、少し聞き覚えのある名前というだけなのだと、私は私に言い聞かせる。
「その人とはどういう繋がりなの?」
「それも、よく分かりません」
それでいいの?なんて言ったかつての彼氏を思い出す。いいはずなんてなかった。
「変な話、知ってはいけないような気がしていたんです。私のことを何も言わずに助けてくれているのだから、知ろうとするのは失礼だと思って」
だから私は何も知らない。
「それでも一度だけ、沢村さんの知り合いの方、かな、そんな人に会ったことはありまして、その時にちらっと聞いたような気がします」
「有理の名前を、だね」
「はい、もうずっと昔の話なので覚えてないですけど……聞き覚えはあるっていうか」
なるほど、と彼はため息混じりに言葉を吐き出して、やっぱり複雑な表情で考え込んだ。
「今まで何の情報も無かったんだ、これは進展だよ」
やっと少しだけ近付けたんだよなと付け足す。私と自分自身に言い聞かせているようだ。
私達はしばらく考えていたけれど、とにかく、沢村さんに接触するより他はないという結論に至った。至るも何も、最初からそれしかないのになかなか言い出せなかったのは、多分怖かったからだ。お互いに、今まで触れなかったものに、或いは触れられなかったものに手を伸ばすのは簡単じゃないし、時には恐怖も伴う。そういうものだ。
「沢村さん、だっけ。連絡先はあるの」
なんだか胸が苦しい。
連絡先は、勿論ある。今まで使ったことは無いけれど、一応ある。電話をかけたら誰かしらが出てくれて、どういう形になるかは分からないけれどきっと話が繋がる。そして、有理の謎は解ける。
「探してきますね……」
席を立つのはどうしてだろう、すごく嫌で。
だから、来客を告げるチャイムが鳴った時は、自然とほっとしてしまう自分がいた。
「誰だろう」
「昨夜の人じゃないといいですけど……」
小声で言葉を交わして、沢村さんの連絡先を探そうと奥の部屋に向いていた身体を玄関に向ける。それだけで心が軽くなる。
「もしもーし、おはよう!起きてる!?」
聞き慣れた声がした。
「あ、夜鳴さん、大丈夫です。友達」
「果たして大丈夫なのか?僕がいて」
「ごめんなさい大丈夫じゃないかも」
間違いなく勘違いを生む。
「沙月!起きてる?」
「お、起きてる起きてる、ちょっと待って」
「待てない!」
彼女に合鍵を渡していたのは間違いだった。
待てない待てない急いでるのとわあわあ騒いだドアの向こうの彼女は、どうやらすぐに鍵の存在を思い出したらしく、慌しくバッグの中をひっくり返し始め、夜鳴さんを奥の部屋に押し込もうと立ち上がってもらったところで、非情にもドアは開かれた。
「……あれっ?」
「待ってって言ったじゃん……」
昔からの友人、ユキは私達をじっくり見比べ、その顔に少しずつ笑みを広げていく。
「おっと、失礼……?」
心なしか夜鳴さんも真っ青……かと思ったけど最初からだった。
何から説明しようかと悩みかけて、必要ないじゃないかと思い直す。人には色々、事情があるんだから。
「それで、何の用なの」
「ああそうそう、沙月を探してる人がいたから呼びに来たのよ」
「私を?」
「そう、アパートの前にいたよ、行っておいでよ」
ユキはにやにや笑ったまま言う。きっと私も知っている人なんだ。
「すぐ行った方がいいよ、急いでいたから」
「何、もう」
「いいからいいから」
ユキが私の腕を掴んで外に行こうとする。着替えてはいるけれど化粧も何もしていないのに、そんなのはお構いなしだ。
ずるずる引きずり出されながらもなんとかスニーカーを引っ掛けて外に出ると、空はよく晴れていて、やっぱり紫陽花はとうに枯れていて、見慣れた姿の人が少し遠くからこちらを見ていた。
「……なんでいるの」
「さあ。いきなり電話をかけてきてさ、沙月を呼んで欲しいって。自分で呼べばいいのに、ちとあたしの扱いが雑だよね」
ぼうっと立っているその人は、よく見慣れた姿。当然だ、ついこの間まで一緒に住んでいたんだから。
私はふらりと足を踏み出していた。一歩、二歩。その間に彼は私にどんどん近付いてくる。
なんでなんだろう?
何の用だろう?
「ふと思ったんだ。今、僕は間違えているのかもしれないって」
そう、彼は言った。この人はいつも通りなんだなぁと、やっぱり呑気な私はぼんやりしている。
「嫌な予感がしたんだ。いつもそうだ。間違えた時はいつも、そうなんだ」
神妙な顔をして、少し俯いて地面を睨むようにして語るとき、この人は本当に真剣だと知っている。どんどん内に篭っていくような集中力が少し怖くて、一番好きだった。安心感があった。
いつもそう。
この人は、私の元彼、日野はブレない。
「君はいつもいつも、危なっかしい判断を下す。今回もそうなんじゃないのか」
「何の話?」
「昨夜、君を見かけたんだ。駅に近い、あの大きな公園で。妙なものを拾っただろ」
妙なもの。
ものかどうかはさておき、拾ったには拾った。人間だが。
見られていたのか。
誰かに見られているかもしれないと夜鳴さんが言ったのは、どうやら間違っていなかったらしい。
「見てたんだ」
「別に見たかったわけでもないけどな。でも、見た。どうかと思うね」
「拾うことが?」
「まさにそうだ……僕がとやかく言うことではないと思っただろうが、それはあくまで君の考えだ。僕は僕の正義に則って行動する」
知らない男を連れ込むのはやめろと言いたいだけだ。それが単なる心配かそうでないかは分からないけれど、心のどこかで、彼なりの不器用な支配欲だと思いたい自分がいる。
浅ましい。
「今もいるんだろ」
「いるけど。じゃあなんで昨夜のうちに声をかけなかったの」
「……僕だって迷う。君に声をかける義理がないと悩みもする。正義から外れかけてただけだよ」
「迷うくらいなら今更来ないでよ」
「今はもう、迷っていない。君も、そして昨夜の僕も間違っていた。間違いは正さなくてはならない」
あなたには関係ないでしょと言って、部屋に戻ろうと背を向けて……そして気付く。
私の部屋の扉はぴったりと閉じられていて、夜鳴さんの姿はもちろん、ユキの姿もなかった。