第一話
拝啓、私へ。
私は今日も、この両手を見つめて。
コーヒーを飲むのは私だけだった。
ついつい淹れてしまった二人分のコーヒーを私の前に置いて、夜鳴さんには水を注いだコップを渡す。
「ごめんね、折角淹れてくれたのに」
「いや、飲めないって忘れてた私が悪いんです」
気まずそうにコップの縁をなぞる彼は、寝起きでも淀みなく、昨夜のままの彼だった。私なんてそんなに朝に強いわけではないから、起きてすぐは殆ど記憶がない。寝ているのか起きているのか曖昧なままに布団から抜け出してコーヒーを淹れるまでは、私の思考力はこの頭の中にない。
一口苦めに淹れた黒い液体を含む。眠気が少しだけ後退して、目の前の現実に追いついた。
「えっと、おはようございます」
「おはよう」
私の目を真っ直ぐに見つめて、夜鳴さんはぎこちなく微笑んだ。
「まだ眠い?」
「ええ、昨夜は遅かったし……それに、そんなに朝に強いわけでもありませんから」
「そう。ごめんね、早起きをさせてしまったかな」
「そんなそんな。夜鳴さんこそちゃんと寝ましたか?」
「僕は、まあ」
私たちの間に、不自然な他愛もない会話が流れていく。居心地が悪くて、でも、失いたくないと思える平凡だった。
本当はこんなふうに話せる関係性なんてないのだけれど、私は私で、この前まで彼氏と同居してこんな日常を謳歌していた手前、擬似的でもそれを取り戻せた気がしていた。狡いとは分かっている。
分かっているけれど。
「ほんとのほんとに、ちゃんと寝ました?顔色悪いですよ」
「それはずっとなんだけど」
私と同じように彼も何かを隠して、その上でこうして笑っているのだろうか。お互いに知りたくなかったし、知られたくないと思った。
きっとこれは、お互い様。
「あ、朝ごはん作りますね」
満足感と背徳感の同居に、そんな資格もないのにいたたまれなくなって、繕うように席を立つ。
「僕の分はいらないよ」
「そんな。しっかり食べないとダメですよ」
「違う違う、食べられないんだ」
忘れないでよ、と彼は笑う。
「僕は死体だから、食べ物はいらない」
「……本気ですか?」
「勿論」
その時だけ夜鳴さんはとても自然で、無理をしているようにも意地を張っているようにも見えなかった。
「お構いなく。それより寧ろ、折角作ってくれたものを食べられない方が辛いから」
当然私は納得なんてしていなかったけれど、ほんの少し滲んだ彼の言葉の悲痛に飲まれて、思わず分かりましたと返事をしてしまっていた。
食べなきゃ死んじゃうじゃないかと心の中で呟いて、そう言えば死体なんだっけと冗談みたく思う。じゃあいらないよねなんて言い聞かせたところで、腑に落ちるわけでもないのに。
逃げるのは悪い癖。問題を置いておいて、現状を認めてしまうことも。
分かっている。分かっていながらもう認めている。
今朝はパンだけでいいや。
「作戦会議、なんて言ってもな」
夜鳴さんは困ったように頬を掻く。
「見つけるお手伝いをすると言ったのは私ですから」
もうずっと前の話だ、なんて彼は微笑む。
「夜鳴さんがこれだけ長い間探しても進展しなかったんですもんね……簡単じゃないことは覚悟の上です。でもほら、このままじゃあなんだか嫌だから」
「なんかごめん」
「いいんです。なんでもいいから教えてください」
本心を隠して、そう言う。私なんてとんでもない嘘つきだ。
確かに協力したいけれど。
こうやって望むものに似たものを手に入れて平気で満足感に身を任せられるほど割り切ってもいなくて、あくまで協力しているという形が欲しかった。そうじゃなきゃ自分を欺き続けることが難しくなってしまいそうで。
「有理は何があっても笑っている子だった。昔、僕は上手く笑うことが出来なくて、責任やら何やらに押し潰されかけていた時も、有理だけは笑って傍にいてくれたから」
私はじっと彼の声を聴いている。
「ある時僕は、ここにいちゃいけないと思った。自分の生きる場所はここじゃないって。僕は夢を追いかけるために、そこを去ろうとした。有理は悩んでいたよ。引き留めるか、見送るか、あるいはついて行くか」
「どうなったんです?」
「有理はついて来てくれた。でも失敗して……僕らは離れ離れになった。20年前の話だ、それ以来彼女についての情報は一切なかった。生きているかも分からない」
それでも探しているんだと、そう言った。
それでも探してしまうんだと言い換えた。
「色々なところを回って歩いて、色々な人に出会ったよ。そうして、もう諦めようと思って、君に出会った」
うっかり死にそびれたよ。
「良かったです、死ぬタイミングを逃す一因になれて」
「参ったね、僕はまだ苦しまなくちゃならない」
彼はあくまで笑っているのに、嬉しいのか悲しいのか分からないような顔をしている。
私は迷っていた。どうするべきか。
これは運命か。
そうであるなら、なんて運命とは奇跡的で、悪魔的なんだろう。
私は有理という人を知っている。
促して、夜鳴さんに彼女の名前を書いてもらった。余っていたメモ用紙の端に、頼りない流れるような文字でその名が綴られる。
これは運命?
やっぱり、有理は私の知る有理だ。
よくは知らないけど、知っている人。
「夜鳴さん……私、知っているかも知れない、です」
「え?」
「詳しくは分からないですけど、聞いたことがある名前です。ちらっと……」
彼はしばらく黙ったままで、いつも浮かべていた微笑みが静かに薄れていく。
「これは、運命かな」
運命だとしたら、なんて悪魔的。
「私には親がいなくて、親切な方が、お金の面の援助をしてくれているんですけど」
お金の不自由はないけれど、負い目はどうやったって残るわけで。それが表れたのが、このどこか殺風景な部屋。
「その方の知り合いに、有理って人がいた気がするんです。もう随分昔の話しだし、そうだった気がするってだけの、曖昧な記憶ですけど……」
「それ、本当?」
「た、多分」
そうか、そうかと夜鳴さんは泣きそうな顔になる。今まで如何に情報がなかったかが痛切に伝わってきた。こんな、曖昧でどうしようもない情報で。
ごめんなさい。
「こんなことって、あるんだな」
「そうですね……」
そう、私は嘘をついた。
真実を織り交ぜて、言うべきことを言わなかった。