第三話
ぴんぽーん。
安いチャイムが響いた。この深夜に、近所迷惑になりはしないかと焦る滑稽な自分を見つける。それどころじゃないくせに。
「誰だろう。心当たりは?」
「あるわけないじゃないですか、この時間ですよ」
小声で素早く言葉を交わしながら、私は椅子から立ち上がった。1回響いたきり、静寂がドアの向こうを満たしている。足音は聞こえないから、まだそこに誰かがいるはずだ。
誰だろう?
さっき飲み会で別れた友達だろうか?いやいや、彼女たちの家はここから遠い。
じゃあ、誰だ?
ドアの向こう、そこにいるはずの人は呼吸さえ押し殺しているのか何一つ音を立てず、ただでさえ重苦しい静寂をさらに濃いものにしている。透明になってしまいたいと思った。私は透明になって、幽霊みたくなって、足音どころか気配すらなくなってしまいたい。どれだけ静かに近づいたところで、こちらの動きなどすべて余さず見透かされているような感覚に背筋が寒くなる。
息を止めて、覗き穴に目を押し当てる。
ゆっくり、ゆっくりドアから離れて、そうしてやっと息を吐き出す。椅子に座ったままこちらを伺っている夜鳴さんの方に振り向いて、そっと首を横に振った。知らない人です。
すぅっと目を細めた夜鳴さんが腰を浮かせるのと、再度チャイムが鳴らされるのはほぼ同時だった。飛び上がらんばかりに驚いた私は、速まった心臓の音が聴こえてはいけないと深呼吸をするので精一杯だった。
「もし、もし」
「……!」
囁くような声が、ドアの向こうからこちらに呼びかける。
「もし、もし」
どうしよう。
「もし、もし」
どうすればいい?
夜鳴さんも私も、何も言うことができなかった。それどころか指の先さえ動かすことを躊躇って、ただ息を殺す。
「もし、もし。探し物を、しているんですが」
囁き声はそう言う。
「知りませんか、丁度、これくらいの……」
はぁっ、とため息のような音が聴こえた。
「これくらいの、人間と同じ大きさのものなのですが」
「沙月さん、下がって」
同じく押し殺した声で、はっきりと夜鳴さんは言った。険しい目でドアを睨んでいる。
「沙月さん」
「でも……」
小声のやり取りは続く。
「いいから下がって」
「丁度これくらいの……」
「沙月さん、頼むよ」
「これくらいの、死体なんですが」
空気が凍った気がした。
険しい目のまま、夜鳴さんは固まっていた。心なしかさっきより顔色が悪い、ああこれは最初からかなんて呑気な私。
死体。
あまり聞かない言葉なのに、今日だけはやけに、よく聞く言葉。
「死体なんですが。知りませんか」
しばらく悩んで、私はドアの向こうに問いかけることにした。
「あなた、誰ですか」
「探し物をしているんです」
「知りません」
「本当に、知りませんか」
知りませんと、ゆっくり繰り返す。
しぃんと耳が痛くなるような静寂が訪れた。
「そうですか。見つけたらぜひ」
こつ、こつ、と足音が遠ざかる。見つけたらぜひ、教えろと?
「夜鳴さん、あれは誰ですか」
私の後ろで、彼はぐっと押し黙っている。
「知り合いですか?」
「少なくとも……友達ではないよ」
「でしょうね……」
死体だとか、本当のことは分からない。でも、誰だか分からない誰かの訪問のせいで、明らかに動揺していた。夜鳴さん以外の人間から発せられた死体という言葉の破壊力は、思ったより大きかったのかもしれない。
「夜鳴さん」
「なに?」
「死体なんですか?」
神妙に訊くのは当然なのに、何がおかしかったのか吹き出しながら彼はこちらを向いた。
「もし既に信じていたら、適応力の高さに驚いてるところかな。当然だよな」
「そう、ですよ」
「思うにこれは、今理解するのは難しいと思うよ……沙月さん」
「はい」
「僕を手伝ってくれませんか」
さらりと、悲しそうな顔で微笑んで言った。
「僕一人では無理だ。もし沙月さんの家に居なかったら、さっきの奴に追いつかれていただろうし。そんなに近くにいるとは気付きもしなかったのに一人でやるにはもう、限界なのかもしれない」
20年頑張ったから許されるよなあと、夜鳴さんは笑っている。そもそも誰もあなたを咎めたりしないだろうに。
「僕を助けて」
いざ改まって言われるとどうすればいいかわからなくて、私はただ頷いた。
もう朝は近かった。
全ては明日からだと夜鳴さんは言った。急いでもいい結果はでないだろうとも。
ので、私はとりあえず眠ることにした。その時になって、やっぱり僕は外にいるからと焦り出した彼を見て、この人は案外信用できるんじゃないかと思う。押入れから引っ張り出せるだけの毛布を出して、ひょいひょいと彼に掛けていく。
「重いんですけど」
「病人は黙ってて下さい」
「病人て……」
ありったけの毛布でぐるぐる巻にしてしまうと、観念したかのようにため息をついた。
「僕は病人じゃないぞ」
「おやすみなさい」
「おい……」
予定も入っていない今後の日程を確認する。何ができるか分からないけれど、何かするにはおあつらえ向きだった。
「私、疲れちゃったんです、今めちゃめちゃ眠いです、分かります?」
「警戒心ってもんは無いのか」
「何かしたら救急車を呼びます」
「……おやすみなさい」
いくら私でも、アルコールが入っている深夜は眠気に勝てる気がしない。自分の毛布を引っ張り出してくるまると、少し迷って、夜鳴さんに背を向けて横になった。
自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。遠くをバイクが走り抜ける。
私は眠りに落ちていく。