第二話
一人は寂しくない。
誰かに気を遣わなくてもいい。私は私の生活だけを気にしていればそれで良かった。生きていくのに困らないのだからと、現状に満足している。
いつだってそれなりに友達は出来て、小さな頃から続けていた一人暮らしはコンプレックスとして認識しなくなっていく。どうして親と暮らせないのかとか、そんな疑問は淡々と過ぎていく人生に溶けて消えた。
私は一人。
ずっと一人だ。なんてことはない。
「それはおかしいよ」
初めてそう言ったのは、後に私の彼氏になる人だった。
「何が?」
「だから、一人で暮らしていることだよ」
「一人暮らししている子供なんて沢山いるじゃない」
「沙月はいつから一人なの?」
いつからとか、そんなこと。
「どうでもいいじゃない」
「いいや、どうでも良くないよ。答えて、君はいつから一人なんだ?」
私はずっと一人だった。親と過ごした記憶なんて一つもなくて、気付けば一人で部屋にいた。学校へ行くこと、身の回り、料理の仕方、それらを含む「一人で生きていく術」を教えてくれる人はいたけれど、それはあくまで私が一人で生きていくことを前提とした教示だったのだ。
小学校に通うころには自分でできることが増えていて、教えてくれる、いわゆる先生はあまり家に来なくなった。
寂しかった。
でも、私は生きなくてはならないから。
お金に困ったことは一度もない。
「生活費とか学費はどうしてるの?」
「援助してくれる人がいるんだ。沢村さんっていうんだけど」
「親戚の人?」
「ううん。親のいない子供を支援してくれるお金持ちなんだって。医者らしいんだけど」
沢村さん本人に会ったことはない。ただ、どうやら母親の知り合いらしく、昔から私が生きるためにかかる資金を全面的に援助してもらっていた。生きる術を教えてくれた先生も、沢村さんが派遣してくれたヘルパーみたいなものだったのだ。
まだ見ぬ彼のお陰で生きていられる。
なんの不便もせずに生きていられる。
それがどれほど幸せで恵まれたことなのか、十分に分かっているつもりだった。だから無駄遣いもしないし、極力お金はかけない。正直無償援助は額に限りもなく、多少の縁しかない知り合いの子供にどうしてそこまで肩入れできるのか不思議に思うところもあったけれど、沢村さんが優しい人間だということで十分だ。必要以上のことは知ってはいけない気がして。
失礼になる気がして。
「どんな人か気にならないわけじゃないだろ?」
「そりゃあ少しは気になるけど……でも、助けてもらってる事実に変わりはないし、私にとってはそれが全てだよ」
私に父親はいない。
母親はいたけれど、あまり記憶には残っていない。顔を思い出そうとしても昔のこと過ぎて、もやがかかっているみたいにはっきりしないのだ。
何らかの事情で、母さんは私から離れていった。父親は分からない。それが私の家族の全てだ。
気付けばそんな状況は日常そのもので、最初から見えない沢村さんは私を助けてくれていて。
幸か不幸かで言えば不幸な人生なのかもしれないけれど、不幸な中では明らかに幸せな人生だ。何不自由ない暮らしをしておきながら文句を言うなんて、あまりにもおこがましい話である。自分より恵まれない子供なんていくらでもいるのだから。
だから極力慎ましく。
そう思って生きてきたら、こんな部屋が出来上がっていた。自分でも思う。この部屋から私という人間の個性を見出すことは難しいだろう。
「君は報われるべきなんだ」
彼は口癖のようにそう言った。何の根拠もないくせに。
「報われるべきなんだよ」
言い聞かせるように。
夜鳴さんのリュックの中には、それなりの枚数の着替え、帽子、そして油が入っていた。
「食用油だ……」
「必要なんだよね」
私が注いだ水道水を早々に飲み干した彼は、ちょっと失礼と言いつつ油をグラスに注ぎだした。
並々と注がれた油を見る機会は、あまりない気がする。
「僕は物を食べることが出来ない」
「お腹空かないんですか?」
「うん。その代わり、水と油は欠かせないんだ」
そう言って、なみなみと注がれた油をぐいと飲み干した。私が飲んだわけではないのに、ちょっと気持ち悪い。
「……変だろ?」
「ええ、少し」
夜鳴さんは笑っている。
「なら良かった。わかって欲しいんだ、僕が普通じゃないってこと」
普通じゃないのは、もう十分理解しているつもりだけれど。
ベンチの下にいた事、手の冷たさ。
語られたことの全てに、脈のない手首も。
分かってはいるつもりだ、一応。
「でも実感はないだろ?」
「ええ、まあ」
「それじゃあ困るんだ、お互い、最初が肝心だから」
「最初が、肝心」
「そういうこと」
正直よく分からなかったけれど、とりあえず復唱することしかできなかった。肝心だと言うのだから、きっとそうなのだろう。
水と油が注がれ、そして飲み干されたグラスを見つめる。底の方に透明な、黄色みがかった膜が見えた。
彼の白い指が縁をなぞる。
「僕は普通ではない」
そう、繰り返す。
「普通ではない人間の人探しは、勿論大変だ。ただの人探しだって簡単じゃないのに。分かってるの?」
「一応、分かってるつもりです」
「それなのにどうして手伝おうとするの?やっぱり僕は納得できない」
どこか試すような目で私を見つめる。疑っているというよりかは、私の目の中に隠された大切なものを取り出そうとしているかのように思えた。
「それは……さっきも言った通り、面白そうだからっていうのもあります。誰でもそうでしょ、現実的じゃないことって憧れるし」
でも、それだけでは理由にならない。
「それはそうなんですけど、なんて言えばいいのかな、私は寂しいんです」
「寂しい?」
「何かやっていないと、気が狂いそうなほど」
難しい言葉を言ったつもりもないけれど、彼は理解できないというように首をひねった。それでいい、とも思う。
「とにかく、今の私には何かに没頭することが何より大切なんです。それは多分、困難であればあるほどいい……と、そういう自分勝手な理由もあります」
「そう……」
「がっかりしましたか?」
したと思う。彼の望んでいた答えではないのだろう。でも、そんなことはないよと否定されただけだった。
「理由はそれだけ?」
「ええ、そうです」
だから私も嘘をついて、極力毅然とした態度で彼をひたと見据える自分になろうとした。出来ていたかはちょっとわからない。
こんな時、誰より自分を把握できるのが自分であればいいのに、なんて思った。私は私が考えているはずのことを口にしているくせに、心の奥では、何を偉そうなことを知った顔で言っているんだと自分に嘲られているような気がしてならない。
理由はそれだけ?
本当に、それだけ?
「……ああ、」
夜はいつまで経っても夜だと言われれば今なら信じてしまえそうな、そんな夜。
「私、死体遺棄は嫌なんですよ」
この人が安全である保証なんてどこにもないけれど、この人がそこら辺で死体ごっこをしないという保証の方がもっとないような気がした。そうしたら、私は、私の知らない誰かの目撃情報によって面倒ごとに巻き込まれてしまうに違いない。
「よくある話じゃないか、殺人犯は死体から必死に遠ざかろうとするくせに、また別の殺人犯は後生大事にそれを抱えて、自分の布団とかを押し込んでいた押し入れに入れるんだろう?果たしてどっちがいいのか分からないけど、多分人間ってそういうものだ」なんて、別れた彼なら言いそうだった。
多分人間ってそういうものだ。
私も、そういうものだ。愚かだ。
夜鳴さんはしばらく私を見つめていたけれど、やがて空になったグラスに視線を落としてため息をついた。水が注がれて、次に油が注がれたグラスだった。
「僕だって甘えているんだろうな」
そうぽつりと呟いたけれど、どうしてだろう、追及してはいけない壁を感じるのは。
「じゃあ君はとにかく手伝ってくれるんだね」と、話を進めてくれたことにほっとした。そうです、とはっきりと答える。
「参ったなぁ」
彼がそう言った瞬間、ピンポーンと能天気なチャイムが鳴った。
来客だ。
もう日付はとうに変わって、幽霊でも出そうな時間だ。そう考えている自分はチャイムのことも言えないくらい呑気だけど、目の前に座っているのは歩いて話せる死体なのだから、幽霊なんて可愛いものなんだろうなあと思う自分は、数秒前の自分と比べるのが恥ずかしいくらいに呑気なものだった。